第2話 




 天川はいつも土産を持ってくる。丸沢家へ来始めた頃は、消え物が多かった。茶菓子やケーキ、季節の果物や高級なお茶。どれも味が良く、家の者たちには評判が良い。浩詩にと毎回渡されるが、浩詩は実は甘いものが好きではない。だがそれを天川に教えるつもりはないらしく、浩詩の好きでもない物を毎回持ってくる男を、弘人は滑稽に思った。今回の手土産も桐子の機嫌取りだろう。低俗な奴だと弘人は天川を見下していた。


 弘人との接点は同じ高校だったという事だけで、天川は丸沢家の事情を詳しく知らなかった。だから浩詩さんと似てないですね、などと安易な感想を述べた。無神経な男だと弘人は腹を立てた。当たり前だ。母親が違うのだから。だがそんな事は教えてやらない。慕う人間の好き嫌いも知らないくせに、嬉しそうに兄のアトリエに向かう横顔を見ると、弘人の胸には形容し難い靄のようなものが生まれた。


 この家に馴染もうとして十数年以上、未だに壁を感じながら暮らしているのに、何も知らない天川の方が、自分よりもこの家に受け入れられているような気がして気に入らない。疎外感に苛まれながら、表面上は気にしていないフリをして、毎回天川の手土産を桐子に渡した。


 弘人も絵を描く。兄がその道で食べているのだから別の道を歩むべきが、何故かライバル心が芽生えた。兄より上手くなれば、丸沢家も自分を認めざるを得ないはず。そんな不純な動機で始めたが、描くのは楽しく、存外評判は良かった。公の賞をもらったこともあるし、絵で食べていけるかは全く不明だが、天川よりはセンスがあると思う。なのに、浩詩は弘人の作品を褒めない。


 浩詩のアトリエには、R.Aとイニシャルのある絵画だけが飾られてある。天川の絵だ。その事実だけで弘人の腹の中には重たい石がごろりと横たわった。


 弘人の絵は褒めもしないのに、浩詩は素人丸出しの拙い彼の絵を飾り、家の者でさえ容易に来るなと言われているアトリエに、気兼ねなく天川を招き入れる。


どいつもこいつも無神経だ。浩詩はプロの画家の癖に、素人の天川にアトリエの出入りを許し、そいつの絵だけを壁に飾っている。天川のパトロンにでもなるつもりだろうか。下世話な憶測が頭の中をよぎり、自分に嫌がらせをしているのではないかと思った。桐子は天川を美化し、麗人だのなんだとの持ち上げてまるで王子様扱いだ。家の者は彼が持ってくる手土産を卑しく食べている。


 自分だけが蚊帳の外みたいな気持ちになるので、弘人は天川が来ると気分が悪かった。気兼ねなく皆と話したい。なのに毛色が違う事ではじき出される恐怖から、一歩が踏み出せず、結局は他人なのだからと、諦めて終わる。

 

 今日も天川は穏やかな顔でアトリエに行った。この家に属さないのは、俺じゃなくてアイツだ。そのはず。弘人は窓から浩詩のアトリエを眺めた。



 アトリエでは浩詩が絵を描いていた。いくつもの作品が床におざなりに置いてあったが、壁に一つだけ絵が飾られている。

     

 大量の筆や絵の具が机の上に雑に置かれ、つい整理してしまいたくなるほどの散らかりようだが、雑多に置かれているように見えて、浩詩にはどこに何があるか分かっているらしい。道具に触るなと初めて来た日に言われた。


 天川はキャンバスに向かっている浩詩の後ろで、彼が描く姿を見ていた。


「椅子に掛けたら」


 浩詩が窓際に置いてある丸テーブルを指差して言った。目線はずっとキャンバスの上から動かない。


「いい。あなたの描く姿を見てるのが好きだから」

「お前は変わってるよ。まぁ俺の描く姿を見て、また描いてくれるようになったら、それは何よりだけど」

「うん」

「まだ難しそうか」

「わからない」

「分からないか」

「描きたいけど、描いても失敗する気がする」

「失敗なんて、何が失敗かわかりゃしない」

「分かるさ。僕は凡人なんだから」


浩詩はキャンバスに乗せていた筆を止め振り返った。冷たいのか熱いのか、分からない二重の切れ長な目が、天川の右手を捉える。


「動くんだろ」

「一応は」

「だったら書けばいいじゃないか」

「指が動いたって、頭が動かない」


 天川は上手く動かせなくなった右手を握ったり開いたりした。


「気にしすぎだ」


浩詩の腕が再び動き出す。片手間に相手をするのは通常運転だ。描くことが一番。他は二の次。


「あなたにしてみれば大したことじゃないだろうけど、凡人にとって上手く動かない手で描くのは、つらい事だよ。頭も追いつかないし」

「頭? 絵を描くのに頭は要らない」

「あなたは天才だからそんなことを言うんだよ」

「俺のどこが天才だ」

「自覚がないなら厭味だね」

「そんなことを言いにここへ来たなら帰れ」


 浩詩は振り向いて鋭い視線を刺した。天川の心の秒針が止まる。その冷ややかさに背中が寒くなるのに、同時に芯が熱くなった。


「冷たいね」

「累には、描いて欲しい」

「僕が描かなくても誰も悲しみはしない」

「累が苦しいだろう」

「描いても苦しい」

「なら描け」

「簡単に言わないでよ。できないから悩んでるんだ」


 あなたは悲しんでくれてるの。だから描け描けってうるさいの。陳腐な質問が口から出そうになって唇を噛む。浩詩は壁に掛かっている唯一の絵画を、筆を持っている指で指した。


「あの絵は好きだ」


 指差された絵の右下にはR.Aとイニシャルが描いてある。


 天川は俯いた。自分の絵が、プロの画家である丸沢浩詩の自宅に飾ってあることに恍惚とするのに、それを描いた時のような熱量を持って絵を描き続けられない自分に絶望してしまう。


 天川累は一年前事故に遭った。子どもがエスカレーターの隙間に挟まりそうになったところを、服を引っ張って必死に止め、子どもは助かったが、無理をして右腕と指を損傷し、細やかに指を動かすことができなくなった。


 リハビリを半年続けて、日常生活には問題ない程に回復したものの、半年の間に、累の心は鬱々としたものに蝕まれて、絵が描けなくなっていた。


 指は動くようにはなったが、以前のように緻密には動かない。指ばかりではなく心も上手く動かない。リハビリの間に多くの絵を見て、今までと同じように、いや、これまで以上に絵の勉強をしているのに、見れば見るほど自分の作品の稚拙さに嫌気がさした。


 浩詩の絵を見るとなおさら打ちのめされた。いっそ描くのをやめようかと思ったこともある。だが、そのたびに浩詩に止められた。続けろと何度も言う。プロの画家に描き続けろと言われたら、どこかで期待してしまう。なのに冷静に自分が作り上げるものを見るとどこまでも拙く、浅はかな気がした。


「あんな風にはもう描けないし、描かない」

 

 大学時代に情熱を注ぎこんで描いた絵は、コンクールで入賞し、一時期美術館に飾られていた。素人丸出しの構図なのに、色使いが独特で輪郭をはっきりさせない作風は、野良猫が逃げる時の残像のように尾を引いて多くの人の目を惹いた。丸沢浩詩の新作がちょうど隣の大きな展示室で公開になっており、挨拶に来ていた浩詩は天川の絵に興味を持った。稚拙なのに他にはない魅力があると評した。その後画材屋で桐子が声を掛けて、あの絵の作者か、と浩詩と縁を持つことになった。桐子がいなくてもきっとどこかで出逢っていただろうと浩詩は言う。


 展示会が終わったあと、浩詩から絵画を売ってほしいと言われ、天川は舞い上がった。光栄ですとその後すぐにアトリエに持参した。丸沢浩詩のアトリエだ、と興奮した心に、ダメ押しのように自分の絵がそこに飾られた。世界が変わる気がした。


 しかし変わっていくのは天川の絵の方だった。浩詩のアトリエに来るたび、飾ってある絵を越える作品を創らなければという焦りが生まれた。いつまでも同じものを描いていられない。あれより素晴らしいもの。あれより優れたものを描かなくてはならない。


 焦れば焦るほど、作風の芯がぶれて、つまらない絵を描くようになった。技巧は向上しても熱量が足りない。そんな作品を何度も描く中、事故に遭い戦意喪失に陥っている。


 浩詩は持っていたパレットと筆をおき、テーブルの上のタオルで手を拭いて、天川に近づいた。天川は一歩後ずさる。なんだか浩詩が怒っているようだ。


「なんで」


 低い声で浩詩が近づくと絵の具の臭いが鼻をついた。髪の香りを嗅ぐように、天川の背中に手を伸ばし、首を捉え頭を引き寄せる。頭上ですんと息を吸い込まれ、背筋に熱が走った。


「描けよ」

「描けない」

「なんで」

「無理なんだよ」

「無理じゃない」


 耳元でぼそりと呟かれ、顔が真っ赤に染まった。なんだってこの男はそんなに絵に執着するんだろう。その執着が自分に対してだったら、どんなにいいだろう。涙が出そうになって引き寄せられた肩に頭を置いた。


 この男の頭の中にあるのは、絵の事ばかり。絵を描かなくなった自分に、興味を持ってはくれないだろう。けれど未だに彼の仕事場に飾ってあるのは自分の絵画だ。


 憧れていた丸沢浩詩が自分の部屋に飾る絵画が、自分のものである事は、天川にとってどんな名高いコンクールで優勝するより意味がある。なのに、描けと言われても描けない。このまま描かなければ、きっと浩詩は自分に興味を失うだろう。分かっているから、こうして確かめに来てしまう。彼に忘れ去られないように。


 空調の効いた部屋の中は、油の臭いで色気がない。なのに油の香りが混ざった浩詩の体臭には、酷く血が騒いだ。


 何より愛しているだろう描くこと。その行為を中断して、自分のことを気にかけてくれる。壁に飾っている絵のガラスに、何とも卑しい顔をした自分の顔が映り、天川は顔をそむけた。


 僕が描いたら、何か変わるの。あなたは僕を––––。


 言葉にしてはならない気持ちを苦さと一緒に呑み込んで、天川は下唇をかんだ。


 


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