spine
小鷹りく
第1話
生まれつき心臓の弱い桐子は、幼い頃から静かに過ごす様、親から口煩く言われていた。遊びたくても運動は控え、食事にも制限が付いた。長年そんな生活を過ごしていたが、制限がある体の反動なのか、彼女の精神はとても活発で、いつも刺激を求めた。出かけ先で知らない人に合うとすぐに声を掛け、仲良くなると家に招き入れる。ほとんど家の中でしか過ごすことのできない彼女だったが、桐子にはいつも訪問客がいた。来客訪問は神経を興奮させてしまうのではないかと家族は心配したが、そこまで制限しては可哀そうだと好きにさせている。
実家には、二階の窓に届くほど大きく育ったトネリコと、同じくらいの高さの桜の樹が玄関を挟んで東西にそれぞれ植わっており、広い庭には赤い薔薇や青い紫陽花、ピンク色のなでしこなど、色濃い花が咲いていた。邸で一番日当たりがよく風通しの良い彼女の部屋の窓は、大きく開け放たれて、今日も外に笑い声が漏れている。
「浩詩兄さんの絵って、本当に素敵なの。今度お暇が出来たら、鳥の絵を描いて頂こうかと思ってるのよ」
「動物の絵を中心に描いてらっしゃるの?」
「ううん、普段は人を描くことが多いわね。でも風景画もお上手で、見てるとまるでそこに行ったみたいに感じるの。潮風を感じたり、海の照り返しを感じたり。鳥の絵を描いてくださったら、自由を味わえるかもしれないわ」
不自由なく暮らしてはいるが、簡単に出かけることができない自分を、かごの鳥のように感じているのかもしれない。だが口ぶりはいたって明るかった。
「今度個展を開く予定なの」
「見てみたいわ」
「是非。でも兄に橋渡しは致しませんよ。私の大事な兄ですから」
「まぁ、まだお会いしたこともないのに、桐子さんはお兄さんが大好きなんですね」
「ええ、この世で一番!」
笑い声と共にノックが鳴り、ドアが開いて、二人の視線が注がれる。桐子のもう一人の兄、弘人が風呂敷を片手に部屋へ入って来た。
「桐子。浩詩兄さんの手を煩わせてはいけない。兄さんは今新しい作品を描いておられるし、忙しいんだから」
「あら、弘人兄さん。私が頼めば浩詩兄さんはきっと描いて下さるわ。息抜きにしてくださったらそれでいいの。別に急ぐわけでもないし」
明るい癖っ毛を指で遊びながら、桐子は弘人に言い返す。弘人は額に掛かる真っ直ぐな前髪を小指で整え、持っていた包みを桐子に渡した。
「だからと言って、個展も近いのに、そんなことを頼んで不躾だよ」
「不躾というのは、妹と友人との会話を盗み聞きして、説教に来る弘人兄さんの事を言うのよ」
「そんなに大きな声で窓を開けて喋っていたら、耳を塞いでいても聞こえるさ」
「弘人兄さんのいじわる」
「僕はお前の心配してるだけだよ」
「嘘よ。いつも浩詩兄さんの事ばっかりのくせに。たまには桐子の事も気にかけて欲しいわ」
「かけてるさ。ほらこの通り。さっき桐子に、って天川がまた土産を持ってきてくれたから持ってきてやった」
「累さんが。なんて嬉しいの。お会いしたかったわ。引き留めてくれたら良かったのに」
「彼も忙しいんだから仕方ない」
弘人から渡された包みを開くと、木の箱に入った薩摩切子のグラスが二脚入っていた。名前に掛けているのかしら、と桐子は嬉しそうに美しい造形を愛でた。
桐子は弘人の同級生である
「今日は累さん何の御用で」
「さぁ。浩詩兄さんの部屋に行ったから知らないよ」
「絵の相談かしら。累さん、今スランプで描いておられないんですって。もう一度筆を持つ日が近い事を願うわ。弘人兄さんは、新しい絵は描かないの」
「俺は……」
次の言葉に悩んでいる弘人を見て、桐子は目を細めて別の質問を始めた。
「累さんて、今日はどんなお召し物着てたのかしら」
「白いシャツに淡い色のジーンズだ」
「髪の毛は」
「今日は束ねていた」
「持ってこられた……」
「もういいだろう。土産も渡したからこれで失礼する」
矢継ぎ早に累の事ばかりを訊かれ、辟易した弘人は踵を返し、桐子の友人にごゆっくりとだけ告げて部屋を出た。ドアが閉まったことを確認してから桐子は友人にグラスを披露する。
「弘人兄さんはいつも難しい顔をしてるわ」
「でもご兄弟仲が良さそうね」
「ええ。弘人兄さんだけ腹違いで、小さい頃よく喧嘩をしたそうだけど、病弱な私が生まれてからは仲良いみたい」
「じゃぁ桐子さんのお手柄ね」
「そういう事になるわね」
ウフフと笑い声がまた響き、弘人は溜息を吐いた。なんだってあんなに喋るのが好きなのだろう。なんでもかんでも話して恥ずかしくないのだろうかと心の中で毒づく。弘人は桐子の事が昔から好きになれなかった。
昔から家族は常に桐子を中心に回った。心臓が弱いから激しい運動はさせてはならない。体温を上げることも心臓の負担になるので、太陽に長く当たっていられない。走る事も出来ない。精神的ストレスも与えてはならない。暑くはないか、寒くはないか。悲しくはないか、寂しくはないか。桐子の体調を最優先させるから、小さい頃は行きたい所があっても行けなかった。テーマパークも北海道旅行も、家族で行った例がない。どれも高校や大学に入ってから友人たちと行った。
可愛い桐子を誰もが愛してやまない。知らない人でさえ、桐子に話しかけられるとああして家にやってきて、桐子と時間を過ごすことに価値を見出している。浩詩もいつも桐子を気に掛ける。天川でさえ桐子へと手土産を持ってくる。
なぜ自分は同じように愛されないのか。弘人はいつも口惜しかった。愛人の息子だからか、と自虐的に答えをそこへ持っていってしまう。そしてどうにもできない出生の罪に悩んでいる次兄の事など、気にも留めず屈託なく笑う桐子が尚の事、恨めしかった。
弘人の母親・加代は、父・智治の浮気相手だった。加代は父に生活費をもらいながら弘人を育てていたが、新しい男ができ、邪魔になるからと弘人を父に預けた。弘人を施設には入れたくないと、祖父母や家の者の反対を押し切って
弘人が邸に来てからすぐ、桐子と浩詩の母、光子は体調を崩した。元々心臓が弱いのに、弘人の顔を見る度に気分がすぐれないと部屋に籠るようになった。家事は手伝いの者がしてくれるから不自由はなかったが、実の母親に捨てられ、新しい母親にも拒否されたように感じて、弘人は幼いながら求められない苦しさを覚えた。
だが暫くして光子が妊娠していることが発覚し、部屋から出て過ごすようになった。弘人にも優しく接してくれるようになったと思った矢先、予定よりも早く桐子を生んで、出産の際に亡くなった。光子の忘れ形見として桐子が丁重に扱われる所以でもある。
自分がこの家に来たから、光子は早産し亡くなったのかもしれない、と思うと遣る瀬なかった。その遣る瀬無さは、求められない寂しさに押されて湾曲し、不満の矛先は幼い桐子になった。
弘人は隠れて小さな桐子を苛めた。遊んでいた玩具をわざわざ取り上げたり、好きなお菓子を横取りしたり。だが浩詩がすぐにそれに気づき、浩詩と弘人はしょっちゅう喧嘩をするようになった。
知治は仕事で家を空けることが多いため、二人の仲が悪いと気づくのが遅れたが、喧嘩が発覚する度に怒られるのは必ず弘人だった。テレビではお兄ちゃんでしょう、と怒られるのを見ていた弘人は、喧嘩をしても年上の兄が怒られるものだと思っていた。だが母親のいないこの家で、怒られるのは毎回自分。もしかしてこのまま喧嘩を続ければ、家を追い出されるかもしれないという恐怖が生まれた。だって自分は愛人の息子なのだから。この家の本当の子どもじゃないのだから。母親に捨てられた。父親に捨てられる可能性だってある。弘人は桐子をいじめるのを止めた。浩詩と喧嘩をすることもなくなった。
浩詩は弘人より五歳年上で、桐子は弘人より三歳年下だ。八歳も離れた妹が可愛くないわけがなく、浩詩は父親同様桐子を大事にした。その気持ちに呼応するように桐子は浩詩に懐き、弘人の疎外感は終わる事がないように思えた。
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