03 きみを迎えに来たんだよ
ジョン、というチビがいたのは覚えている。
シュタイン伯爵邸のすぐ近くにある、リナリア湖畔別荘地に来ていた黒い毛並みの犬っころみたいな少年だ。前髪がやたらと長くて鬱陶しかったが、子供はたいてい犬猫が好きなので私もよく構ってやっていた。
そいつには緊張すると、どもる癖があって、私が「名前は?」と尋ねると途端に「ぼ、ぼ、ぼくは……」と言いづらそうに喉を鳴らした。
『じゃあジョンでいいや』
私がそう言うと少年は大きな瞳を木の実みたいに丸くした。べつにこいつがどこのどいつだろうと関係がない。私が欲しかったのは忠実な家来だった。
『そこの騎士、天下無敵のザーリア様に仕えろ。ほら』
ジョンを跪かせると、木の枝を肩にぐいぐい押し付けて騎士の誓いの真似事をした。帝国の太陽の名のもとに、永遠の忠誠を誓う、というやつだ。
『私ジョンは』
『わ。わわ、わたし、ジョンは』
『ザーリア様に一生を賭けてお仕えすることを誓います』
『ざ、ざーりあさまに、いっしょう、かけて、おっつかえ、することを、ちか、い、ます』
新しい手下を手に入れた私は大張り切りで、湖畔近くを探検した。湖の近くには貴族が避暑で訪れるため、近い年頃の子供たちがやってくる。私はガキ共のリーダーだったのだ。
しばらくして、私は伯爵令嬢ではなくなって、そういった連中とつるむ機会はなくなった。私の話を噂で聞いていた者もいるだろうが、新しいシュタイン家のご令嬢と親睦を深められれば満足だっただろう。
だが――ジョンの噂は一度も耳にしたことはなかった。どこの誰だったのかさえ、わからないまま、記憶の奥底に眠っていた。
「……おまえ、まさかジョンか?」
「覚えていてくれたんだね、ザーリア」
ふわりと風のように微笑む姿は先ほど叔母と従妹に向けていた顔とはまるで違う。別人と言ってもいい。黒髪は記憶のままに、長かった前髪は適度な長さでカットされ、端正な顔を惜しみなく披露している。
お互いに背が伸びて、姿かたちは変わっていたのだけれど――青空を映した眸は、あの頃のままだった。
「直ったんだな」
何が、と言わずとも伝わったらしい。目の前の男――ジョンは、嬉しそうに頬を染めた。
「うん――きちんと上がらずにひとと話せるようになるまで叩かれたんだ、何度もね。でも綺麗な発音だろう? 真っ先に君と話したかったな」
悲惨な思い出を語っているわりにはやけに爽やかな笑顔だ。男からこの手の態度を取られたことがないのでどう反応していいやら困ってしまった。
緊張したらどもる癖も、長毛種の犬みたいに長い前髪も「僕」という一人称も。すべて取り去った眼前の男にかつてのジョンの面影はない。
友達をひとり失ったような心地で、彼を見つめるとうっとりとしたように微笑が返って来る。まったく、何を考えているのかわからないやつだ。
「ジョン……いや、おまえ。なんて名前なんだっけ。皇太子サマ」
まあ、と憤慨するような声を叔母が上げた。しかたねーだろ、そういう上流の情報に疎いんだ、私は。なにろ、もう私は伯爵令嬢でも何でもない。
いまだって、やたらと良い馬が繋がれた豪奢な馬車がまず目に留まり、続いて身なりがいい男がシュタイン伯爵邸に入って行ったのが見えたから面白がって覗き見しに来ただけだ。
思いもよらない場所で旧友と再会したものだ、と感慨深くはある。
「ディアーク・リコリス・エリュデ……君がつけてくれたジョン、の方が気に入っているけどね」
「そうかよ。ディアーク殿下はいまも泣き虫なんですかねえ?」
「貴様、不敬であるぞ!」
お付きのひとらしき壮年の男が声を張り上げる。へーへー、ご苦労なことで。
「やめろ」
「ですが殿下……」
「やめろと言っている。俺の大切な
ディアークは小馬鹿にしたような態度を取った私を怒ることなく、むしろ声を荒げた部下を叱責した。なんなんだこいつ、と訝しんでいるとディアークが私の手を取ってくちづけを落とした。
伯爵令嬢をやめてから、久しぶりに受けた淑女らしい扱いに思わず手を引っ込めそうになったが強い力で掴まれていた。
「改めて言わせてほしい。俺と結婚してほしいんだ、ザーリア」
勢いあまってさらに強く握られた手は、血が止まって真っ白になっていた。
「あのとき誓ったように、迎えに来た。俺は……ずっと、会えなかったこの七年ずっと、君が恋しくてたまらなかったよ」
「……はぁ? お前、頭沸いてんのか。私と、結婚?」
誓い? いったい何のことだ。
大体、ふざけているとしか思えなかった。シュタイン伯爵家は建国当初から続く貴族の家柄だが、いまの当主は叔父で、私は限りなく平民に近い身分だ。
シュタインの名を名乗ることは許されるが、働かなくては自分を食わせていくことさえままならない。
貴族にとって、何もしないで暮らすことがステータスだ。趣味に興じ、領地経営や政治活動という責務を果たして皇帝に貢献する。
仕事を得て日銭を稼ぐ――それだけで、高貴な彼らの嘲笑の対象となる。私のような仕事は、特に。
「要は結婚相手を探してるってことだろ? 誰でもいいなら、そこにいるシュタイン伯爵令嬢でも連れて行けよ」
「その称号は君にこそふさわしいものだろう。俺は、ずっと君が元気でいると信じて……皇太子になるべく努力を重ねてきたんだ」
「あぁ、それに報いろって? 傲慢なんだな、皇太子殿下は」
鼻で笑ってやると、ディアークは傷ついたような表情をした。少しばかり胸が痛んだが、いまの私と彼では身分も境遇も、価値観も――何もかも違いすぎる。
それにただの犬ころとしか思っていなかった相手と結婚なんてするわけないだろ。
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