02 あの日の約束、などと言われても。

 私がまだ伯爵令嬢だった頃、というと十歳かそこらの少女時分の話だ。


 シュタイン領は帝国内で最も美しい湖と言われるリナリア湖レイク・リナリアを有しており、貴族たちがこぞって避暑にやって来る場所だった。湖畔には別荘が立ち並び、訪れる子女たちのあいだでは小さな社交界が出来ていた。

 それを見守る大人たちもそれを嫌うどころか、微笑ましいものとして受け取っていた。

 シュタイン伯爵の領地であるため、私は一介の領主の娘ではなく一国の王女様のように扱われて、傅かれた。悪くない気分であったことは認める。あの頃の私は、いまよりもはるかに傲慢で、もの知らずだったのだ。


 ある年、新入りがひと夏限りの社交界に現れた。


 リナリア湖畔に別荘を建設するのは上流階級でのステータスではあったが、伯爵からの許可が下りなければ資材を運ぶことも測量することも許されない。そんな理由もあって、集まる子供たちの顔ぶれは毎年ほとんど同じだったから、驚いたのを覚えている。

 新しくやってきた黒髪の前髪がやたらと長い少年が執事と思われる身なりの良い男性に連れられて、私達が遊んでいるツリーハウスまでやって来た。


「ザーリア伯爵令嬢はいらっしゃいますか」と執事が声を張り上げたので、私は急いで木に立て掛けた階段を降りた。いつもの夏とは違う出来事なにかが起こる気がしてわくわくしていた。


「私がザーリアです。初めまして」


 外遊びをするため、私は乗馬用の服――シャツとベスト、それから男の子みたいなズボンをはいていた。そんな私の姿が異様に思えたのか、少年が後ずさりをした。


「坊ちゃま、ほらご挨拶をしてください。仲間に入れてほしいのでしょう?」


 少年は、私と執事の顔を見比べ、前髪に覆い隠された眸にぎゅっと力を入れたようだった。


「ぼ、ぼぼぼ、ぼく、は……あっ、あ」

「なんだその喋り方! 何言ってんのかわかんないぞ」


 ツリーハウスの中で聞き耳を立てていた悪友たちが囃し立てる。


「うるせえてめぇら静かにしろ! ったく……おい、お前も。言いたいことあるんだろ? 待っててやるから落ち着いて話せよ」

「っ、う、あぁ」


 私のぶっきらぼうな話し方が怖かったのか、さらに声を詰まらせてしまう。おろおろしたように執事が少年を見守っていた。子供の問題に下手に口だししてもよくないと判断したのだろう、賢明だ。


「ジョン」

「え……?」


 前髪で隠された眸から零れ落ちた涙が、ほろと白い頬を伝った。


「とりあえずお前、ジョンって呼ぶから。言いたくなったら教えな、ほんとの名前」

「う、うんっ、ザーリア」

「おお……私の名前は言えたじゃん。よろしくな、ジョン」


 泣き虫ジョニーは、その日から私達の仲間になった。

 ひ弱なのか駆けっこも遅いし、森を歩けば木の根に躓く。少年たちにはしょっちゅうからかわれたが面倒見のいい少女たちが手を引いてやって、なんとかリナリア湖畔の社交界に溶け込んでいた。


 それに初日にジョンを連れてきた執事が毎日顔を出した。

 子供たちが大好きな、甘ったるくて歯に悪そうなお菓子を、親たちには内緒でこっそり差し入れてくれる。あっというまにジョンは人気者になった。

 驚いてはすぐに涙目になるので「泣き虫」、と呼ばれ続けてはいたが、皆ジョンのことが好きだった。私にもよくなついて「ザーリアあれは何」、「ザーリア、鳥の声がするね」と当たり前のことに気付いては笑う。

 可愛い弟ができたようで、面倒見がいいわけでもない私もついついジョンを構ってしまった。

 前髪を搔き上げたときに見える青空を映したような眸が綺麗で、ときどきじっと見入ってしまうこともある。女の子のように愛らしくて小柄な少年は、つっかえることも多かったが、ザーリアの目を見て話せるようになった。


 ある日の夕方、泣き虫ジョニーが「ざ、ザーリア」と声をかけてきた。

 いつもどおりなら、もうそろそろ執事がジョンを迎えに来る頃だ。他の子たちはみんなそれぞれの別荘へと帰っていった。


 そろそろ夏が終わる――避暑に来ていた貴族たちはそれぞれの領地に戻り、シュタイン領にはザーリアひとりが残される。きっとジョンも、もといた場所に戻るのだろう。

 結局、ジョンがどこの家門の貴族なのかは知らないが、暇なら手紙くらい書いてやってもいい――まあ、来年どうせ会えるだろうしな。


 私はそんなふうにぼんやり考えていた。


「あの、あのね、あ……」

「いいから落ち着け、って。無理して私の顔見なくてもいいからな? 緊張してるだろ。ほら、あっち見とけ――すっげー綺麗だから」


 夕陽に染まるリナリア湖は私にはすっかり見慣れた光景だが、旅行気分で訪れるよそ者には人気の絶景だ。息を呑んで赤々と燃える湖を見つめるジョンに思わず言っていた。


「お前さあ、前髪切れよ。そんなに長くちゃ、前がろくに見えないだろ」

「う、うん。そうする、ザーリアはそのほうが、すき?」

「あ? まあ、そうだな……お前の眸は嫌いじゃない」


 びくっとジョンの身体が震えたのがわかった。ぎゅっと奮い立たせるように拳を握りしめていた。


「ザーリア、あの、ね……ぼく、きみが、す……す、すっ」


 きだよ、と小さな声が言った。

 湖の寄せては返す波の音に掻き消されそうなほどだったから、一瞬、何を言われたのかわからなかったほどだ。


「そっか。私もお前のこと気に入ってるぞ、おもしれーやつって好きなんだ。頭もいいし、いろんなこと考えてて偉いと思う。私は……構ってほしくて父上の邪魔ばっかりしてしまうのに」


 ジョンはいろんなことをよく知っていた。

 リナリア湖の社交界に集まった誰よりも幼いだろうに、政治の仕組みや税の考え方、軍の組織についてなどの後継者教育がすっかり頭に入っているようだった。各地の名産にも詳しく、それぞれの貴族子弟の領地についてもよく知っていたから誰とでも話が盛り上がるのだ。


「っ……!」


 ジョンの頬が薔薇色に染まる。夕陽が色白な肌を鮮やかに塗り替えているのだろう。おそらく私も同じ色をしているはずだ。


「ぼ、ぼくたちは……りょう、お、もい、だね」

「……?」


 なんて言ったんだ、いま。きょとんとしていると「坊ちゃま」と執事がジョンを呼んだ。


「ほら、早く行けよ」

「う、うん……ザーリア、ぼく、ね」


 ――か……ず、きみ……む……に……から。


 唇をきゅっと引き結んだジョンが何かを言ったが、私には何も聞き取れなかった。


 翌日、両親からジョンが別荘から引き上げたことを聞いた。

 次の夏が来ても、ジョンはリナリア湖畔に来ることはなかった。

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