淡色のアレゴリーちゃん

紅葉

あるいは知識の海、それか大洋

第1話

 生物図鑑を見る。

 新品ではなく、図書館で借りたせいか端っこが茶色に変色していて丸くなっている。

 本をカバーする透明のビニールフィルムがぺらりと薄く剥がれていた。


 開いてみる。

 生物というものは、魚やらヒトデやら猫やら色んな形のものがいるなと、思った。


 ペラペラとページをめくる。

 猿のページの後にホモ・サピエンスという文字が刻まれているのを見る。その横には『』付きで堂々とヒトという文字。


 ヒトデとヒト。


 一文字しか違わない。うねうねしたカラフルな流線型ボディと二足歩行脊髄動物。


 お猿さんから順を追って胸毛の逞しいおじさんへと変化していく、全人類一度は見たことのある図を眺めながら、僕は思うのだ。


 生物図鑑はやっぱり不完全だ。

 『大野』というトンデモ生物のことが一言も書かれていないのだから。


 いや、あいつはそもそも生物なのだろうかと、疑ったこともある。


 あいつは良く食べるし、平然と授業中でも良く寝る。良く寝るお陰か、中学校のクラスの背の順で、一番目をずっとキープしていた。

 眩しい笑顔と爪の欠けたピースサイン。

 牛乳パックの余りはいつもあいつの手の中だ。


 食べるし、寝る。そして、とにかく動く。

 生物(人間として?)として必要な挙動を全て満たせたからといって、生物だと判定するのは些か早計なのではないだろうか。


 大野の食べたものは、僕の見ていないところでお腹が突然ウィーンと開いて栄養素の抜き取られた炭素の塊になっているかもしれないし、寝ているように見えているときは、いつだって遥か遠くの銀河系と交信しているかもしれないのだ。


「……なんてな」


 なんて、思っていたのが高校まで。


 そうだ。

 大野は間違いなく、生き物だった。

 だって、あいつは。




 手をかざして、空を掴んでみる。

 するりと抜け出していく青色。手に残った生暖かい空気の塊が夏の温度を伝えてくれる。


 僕は、十年ぶりに故郷に帰ってきた。

 大野を思い出したのは、故郷の空気のせいかもしれない。


 軽自動車の窓を閉めて、扉を開ける。

 運動靴がひび割れたアスファルトを求める。

 空と田んぼの境界線は、今日は一段と滲んでいた。




 十年前。

 高校三年生の後学期、十一月二十日。

 女子生徒の首吊り死体が新校舎の三階で見つかった。


 警察の捜査の結果、その女子生徒は大野結という名前だったそうだ。

 そして、首吊りの足元には、一枚の茶封筒があった。遺書だった。


 大野は、自殺したのだという。

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