仕方なく全部、絵本のせいなのかも。

@HirotoIwasaki

仕方なく全部、絵本のせいなのかも。

 赤信号を走り抜けていく自転車がある。十数秒経って、隣に立つ人も、私もいいのねって、横断歩道を歩き始める。赤い鞄と赤い傘を左手に下げて、奥にある銀行の突き当たりを左に曲がり、あゝ。そこまでを眺めていたのに、地下鉄の出っ張った入り口が邪魔をしたから、それでその人はもう見えなくなった。だのに目線の先にあるコンクリートが、なかなか離そうとしてくれないせいで、数十秒、信号の変わるまで、私はそのまま彼女の行方を眺めていた。赤信号の間、車は一台も通る気配は無かった。

 「しがらみ」という言葉は半分好きで、半分嫌いだ。好きの理由も嫌いの理由も、がんじがらめにされているような、然るに植物の蔦のようなそんな印象を受けるからで、それは案外、誰にも理解される話ではないのかもしれない、と、思う。どちらも一番優れていると謳う、矛と、盾?そういう単純明快に思えてしまう状況は、きっとこの世に幾らもないんだろうし、そうなるときっと、矛盾という言葉は、嫌いになる。

 好きなドラマがある。「真実は人の数だけあって、事実は一つしかない」主人公の台詞が何より心の琴線に触れたから。そのドラマは珍しく全話見たし、番外編も見て、しまいには映画版まで観に行こうとしている訳なのに、原作の小説は読んでもいないし、読む気も起きてこないのは、あるいはそれを矛盾と言うのだろうか。違う、と思う。

 素直に生きるとはどういうことなのだろう。あの人は優しいねとか、あの人は賢いねとか、あの人はかっこいいねとか、あの人はかわいいねとか、あの人はあんまり仕事ができないねとか、あの人は、あんまり好きじゃないねとか、思うことをただ口に出すのが、躊躇われるようになったのはいつからだろう。いや、うーん、そういうことじゃなくて。人の事を悪く言ったり愚痴をこぼしたり、世間を悪く言ったり、愚痴をこぼしたり、それで笑えるようになったのはいつからなんだろう、そういうことを言いたかったのだ。そうだなあ、美徳は秘匿であることの裏返しなのかもしれない?慎ましさは高貴さの裏返しなのかも。でもどうしてそんなに、私はそれが嫌で嫌でたまらないのだろう。言わなければ思わなくなることをどうしてみんな、忘れてしまっているのだろう。言わないのに思うことが、あんまりいっぱいできちゃったのかも。

 小さい頃、絵本がとても好きだったのを覚えている。頁を開くだけで、世界が目の前に広がって、だから私はすぐにそのメルヘンの虜になった。でも今思うと本当は、悪役も主人公もそれぞれが素直な動機で、時々悪役の裏をかく主人公もいたけれど、そのまた裏があることなんて、きっと彼らは知らなかったから、そういう中にあって、お金も性愛も素直で優しい色味を帯びていたから、然るに、世界は私の瞳の上に、この上なく素直に映って、それが現実世界の延長にあるんだって、疑いもしない堅牢な信頼があったから、私はたまらなくそれが大好きだったんだ。絵本の世界の地平線は、幼い私にとって、現実の端っこにきっとその輪郭までもがありありと映っていたはずだろうに、あゝ。それはいつ、こうも跡形もなく破壊されてしまったのだろう。その地平線は、いつ、見えなくなってしまったんだろう。

 全部絵本が悪いというのも、違う気がする。じゃあ、誰のせい、って聞かれても、きっとそれは私でもないし、あなたでもない。私がどこまでも夢想家なのかも。うーん。でもそっか、仕方なく全部、絵本のせいなのかも。

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