7日目 夜 二十六

 川端は未だに信じられないでいた。あの惨状だった家を、たった三人で大半片づけたという。専門業者ではなく、青木という個人の便利屋たちがしたというのだからますます驚きだ。玄関からどの部屋に至るまでも、ゴミを掻き分けずに歩けることにまだ慣れない。

 自分が座っているウレタンマットの感触も、最後に家を出たときとまるで違っていた。畳に直に敷くウレタンマットの上は、こうもなだらかで居心地がいいのかと驚いた。いつの間にか、何かしら物を下敷きにして過ごすことに慣れすぎていた。

 一番新しいマットを残して他の五枚は、那菜たちが元あった奥の部屋に重ね直してくれた。騒がしさが無くなり一人で過ごす家の時間。以前と同じ状況に戻っただけなのだが、五感が受け取るもの全てが別物になったこの家で暮らすという実感がまだない。

 正直なところ、早々に一人にしてもらえたのは助かった。木井という青年が川端の疲労を考慮し、今日のところは解散するよう提案してくれた。宴がお開きになるような感覚に、寂しさもなかったわけではないが今しゃがみこみ実感する。やはり、さすがに体が重い。

 考えるべきことはたくさんあった。今後どうやって生活していくのか。果たしてもう、あのような異常な状態にならずに自分を保てるのか。この部屋を片づけてもらった費用のことだって気にかかる。那菜は自分で払うと言い張っていたが、甘えるわけにもいかない。

 川端は腰を上げることにした。昔から、何かに煮詰まったときは歩くことが習慣だった。いつしかゴミで埋めつくされてからは家の外を歩くほかなかったが、幸いなことに家の中を歩けるスペースが今はある。

 廊下を歩くと木が軋む音がした。最後に聞いたのがいつか思い出せない。ビニールが擦れ合う音ばかりが響くようになる前は、こんな音がしていただろうか。記憶の中に、その答えはない。この家で過ごしてきた三十五年間が、遠くぼやけたものになっていた。

 前触れはなかった。発作のようにこみ上げる胸騒ぎを止めたくて、胸元を掴んで引き絞る。まずい、体が、頭が、心臓が、警告する。嘘だろうと泣き出したくなる。まさかこんなに早くあの感覚が蘇るなんて。やはりダメなのか、弱気の声ばかりが頭の中で大きくなる。ようやく、戻ってくることができたのに。那菜からの、帰ってきて下さいというメッセージを見た瞬間。もう一度戦ってやろうと決意したはずだった。胸元から動かせないでいる手も、背中も首筋も、冷たい汗が滲んで止まらない。助けて下さい、お願いします、誰にか分からない懇願を繰り返す。間違っていたのか、帰って来たのは。助けて、助けて。   

 気づけば箱の前に立っていた。川端の所持品として、捨てずに保管しておくべきとされた物が詰まっている。

 つい先ほど、青木たちが説明してくれたことだ。

「ゴミだらけの家の中から、よく見つけ出してくれました」

 川端が下げた頭を戻すと、青木が気まずそうに頬を搔いているのが見えた。

「大丈夫ですか。必要な物とか見つかりそうです?」

「いえ」

 川端は言いかけてから後悔した。言っても仕方のないことを、なぜ。咄嗟に言い換えることもできず、浮かんでいた感情をそのまま口にした。 

「本当に必要なものは、もう見つからないって分かってるんです」

 自分で言っておいて、信じてはいなかった。信じていないから、一人になった途端にこの箱の前に立ってしまっている。

 駆り立てられるようにその箱の中身を漁る。掴めるものを掴み、投げ出せるものを投げ出す。床にバサバサと紙が散らばっていく音がする。自分自身が一番理解していた。これでは前と何も変わらない。こうも簡単に、後戻りしてしまうのか。

 家中から集められた品々が目に飛び込んでくる。ひとつひとつが頭の奥をむず痒くさせ、探しているものも分からないのに見つけるまで止められない。どうして、どうして見つからない。息が切れ、物を手に取る力が鈍る。耳が押され、潰れてしまいそうな感触がする。

 縋るように記憶を辿った。思い出せる最初の記憶は。

 この家で、母と暮らしていた。父はすでにいなかった。夜中、ずっと母は帰って来ず一人で泣いていたことばかり覚えている。

 高校生のとき、母が死んだ。死ぬ前も死んでからも、存在感の希薄な人だった。母がいないことに慣れていたから、ときどき母が仕事に行っているのか、死んでしまったのかよく分からなくなることがあった。

 しばらくして、自分の小さい頃の写真や母の遺品、遺影などすべて捨てた。理由は覚えていない。ただ、失うことは怖くなかった。どんなものもいずれ失うのが当然で、過去の物が残り家に存在しているということに強烈な違和感があったのを覚えている。

 母の親族から、家を出て一緒に暮らす提案をしてもらったこともあった。保険金で経済的に不自由を感じていなかった以上、家を出る億劫さ以外の感情は湧かなかった。あれから、親族という人たちが今どこで何をしているのかも分からない。

 経済的な不安を感じたことはなかったが、新聞配達でいくらかの収入は得ていた。高校生で両親がいない、その境遇で家の中に一人。気づけば先生から、友人から、話したことが無いクラスメイトから、何が大変なのか分からないまま労いや慰めを受けることが増えた。そうか、自分はもう少し苦労した方がいいらしい。ということで、高校生ながら登校前は新聞配達に奔走する、という身分に自分を当てはめた。

 当時、不思議だったことがある。流行りというものが分からない。教室で気づけば皆同じテレビ番組の話をし、聞き慣れないファッションの言葉を口にし、机の下では数人が順番に同じ漫画を回し読みしていた。どこで誰が始めるのか、分からない波の移り変わりを、川端は一番後ろの席で眺めていた。思い出す教室の風景は、いつも決まって一番後ろの席だ。誰かのカバンやジャージが詰め込まれた棚が後ろにあって、なんだかいつも汚い。

「お前さ、携帯買えよ」

 前の席のクラスメイトにある日言われた。高校時代を思い出すと、そいつも決まって自分の席の前にいる。三年間のうちにクラス替えも席替えもあったはずなのだが、その席ばかりが思い出される。

 いらないかな、と答えた。貧困世帯に該当するらしい自分が、買っていいものなのか分からなかった。それを判断して許すことができる者は誰もいなかった。

 マジか、と言ってそいつは一冊の本を渡してきた。テレビでよく見るお笑い芸人が表紙に映っていて、芸術家かアスリートのような鋭い眼光でこちらを見ている。

「誰も読んでくれないんだよ、感想聞かせて」

 初めて授業中、机の下で教科書と関係ない本を読んだ。没頭していたら、前の席から囁かれる。バカ、たまに前向いたりしろよ。そういうものか、とたまに顔を上げては活字に見入った。水泳の息継ぎの要領でいけばいいな、と思ったのを覚えている。

 家に帰って、改めて読み直した。図書室で本を借りることは頻繁にあったが、お笑い芸人の本は置かれていなかったように思うし、そんなものが存在することも知らなかった。面白かった。内容などまるで忘れてしまっているが、夢中になったことと、ある一文に心惹かれたことは覚えている。

 お笑いは、地味な奴こそ向いている。

 川端はその後何度も、芸人としてデビューして以降もこの言葉を思い出しては繰り返し違う意味を見出した。あるときは自分の安直さを呪い、あるときは自分の選択は正しかったと自信をつけたりもした。広いばかりでひたすら底冷えのする家の中、その一文があるから自分は生きていられると、当時は本気で思っていた。

 進路指導の日、話したことのない進路指導の教師と面談をした。数学をするために生まれてきたような、レンズの裏に透明な電卓が張り付いていそうな固い眼鏡をしていた。

「お笑い芸人になりたいと思っています」

 人に言ったのは初めてだった。というより、進路指導が始まるその瞬間まで自覚していなかった。数学教師は目を白黒させていた。どうも、眼鏡の裏の電卓にはお笑い芸人というデータは存在していないらしい。二秒ほどのフリーズの後、計算結果が告げられた。

「とりあえず、大学には行ったらどうだ」

 どうやら、両親がいなくとも大学に行くことは許されるらしい。あるいは、両親がいないのにお笑い芸人を目指すなどおこがましいのかもしれない。

 まるで成立していない一往復の会話の末、大学へ進むことになった。

 大学で、運命の相手と出会うことになる。歌村拓だ。二年生になった頃、お笑い芸人を目指す者のそれっぽい所属先として落語サークルを選んだ。実際にはお笑い鑑賞会と称した方が正しく、そのお笑い鑑賞会さえろくに開かれてはいなかったのだが。

 歓迎会をしてくれるというので、生まれて初めて酒を飲んだ。まだ未成年だったが、そんなことを気にする者は誰もいなかった。サークルの中の誰かの下宿先が、一軒家に一人で住み続ける川端には斬新な世界に見えた。テレビとテーブルとベッドでほとんど一杯の部屋に、廊下もなく丸見えのキッチンとトイレのドアがある。川端の家も、実働しているのはこれぐらいのスペースだろう。廊下も、余分な部屋も、玄関前の庭先も、全て捨ててしまいたくなった。そうポツリと漏らしたら、隣にいた男が笑った。歌村だった。

「お前、おもろっ」

 六人がすし詰めになって飲んでいたはずが、このとき話せる状態なのは歌村だけだった。他は買い物に行ったりトイレに閉じこもったり、よく見たらテーブルの陰で死体のようになっていたりで、たまたま隣にいた歌村とやたら近い距離のまま取り残されていた。

 多分、酒の助けもあったのだろう。川端は自分についてのほとんどを打ち明ける気になっていた。両親がいないこと、芸人の本を読んでお笑い芸人になろうと思っていること。話してから思った。半生を大々的に語るだったはずが、思いのほか短い。歌村は言った。

「お前、めっちゃいい環境に恵まれてるな」

 マジか、と思った。周りから言われているほど大変だとは思っていなかったが、恵まれているとも思ったことはなかった。

「だってさ、親がいないってことは自分の人生を好きにできるわけよ。俺からしたら超うらやましいね。全部自分次第で勝負できるんだから」

「マジか」

 今度は口に出して言っていた。

「マジだよ、マジ」

 歌村がビールを呷り、げっぷした。げっぷのせいで嘘くさくなったと思ったのか、もう一度言ってきた。

「マジなんだって」

 マジらしい、と思った。


 次にサークルに出たときには、会は別物になっていた。思い思いにダラけていた部員たちが、働きアリのように物を運び回っている。何事かと眺めていると、歌村の声がした。

「おい、これを運ぶの手伝え」

 咄嗟に振り向き、部室の入り口まで来ていた歌村が抱える物の片側を持った。と同時に歌村が力を抜き、それを丸ごと受け取ることになる。

「あー、さすがにここまで一人はダルかった」

 川端の両手にテレビが渡され、重みを受け止めるため腹に重心を預けた。

「先輩が任せろって言ったんじゃないすか」

 部屋で作業をしている後輩から声がかかり、俺が言うことを本気にすんなっ、と歌村が言い返して笑いが起こった。ここに置け、と指示されるままにテレビ台の上にテレビを置く。もともとあったテレビは後輩たちによって部屋の隅の床に直置きされていた。なぜテレビの入れ換えを? と疑問が顔に出ていたらしく歌村が答えた。

「見ろよ、そいつはただのテレビじゃない」

 得意げに指さした先を見て納得がいった。テレビデオだ。当時、すでにビデオデッキという物が絶滅しかけていた時代だ。

「金は無いが、ココがあるからな」

 と歌村は自分の頭を指さした。オークションサイトを通じて近所の出品者を探し、直接受け取りに行く代わりに格安で譲り受けたのだそうだ。仲間内で車を持っている者に同行してもらい、部室まで運んで来たらしい。

「よろしく相方」

 なんのことだか分からなかった。返事をできずにいると、歌村が言葉を足してきた。

「お前はな、ようやく見つけた理想的な相方なんだよ」

 泣き出す赤子を慌ててあやすような焦りがあった。もっと、船出に相応しいドラマチックな返事があると思っていたのかもしれない。返事ができないままの川端に、歌村は拳を突き出した。ほら、と漫画のような出来過ぎた笑顔。やむなく無言のまま拳を付ける。

「よし、やるからには本気でいくぞ」

 言葉通り、歌村は芸人として本気で走り続けることになる。本気すぎて狂気の領域に近づくことも、自暴自棄になって本気じゃなくなった時期もあった。

 歌村は手始めとして、まず落語サークルを変えた。お笑いのビデオをレンタルしてきては鑑賞し、学んだことを書き留める。突然スタンスが変わったにも関わらず、部員は変わらず集まった。溜まり場が欲しい連中にとっては携帯をいじっていた時間がビデオ鑑賞になっただけであり、部員同士で笑い合えたこともあってむしろ新しい活動は好評と言えた。例外は川端だけ。歌村は自身と川端にだけノートでの分析を義務づけ、決して他の部員には強制はしなかった。始めは血眼の歌村と、涙目の川端に遠慮して控えめに笑ったり一緒にノートをつけたりしていた部員たちも、そんな状況が日常になるにつれて気にしなくなっていった。腹を抱えて笑う部員の横で、何が面白いのかを必死に書き連ねる。歌村とノートを交換し意見を重ね合った。といっても、大部分は歌村が話し、川端は分かるような分からないようなまま、それを悟られないよう頷いたり首を傾げたりするだけだった。

「これでいこうと思う」

 ビデオ鑑賞会と討論会を数か月続けたところで、歌村が冊子を渡してきた。開いて中を見るまで、冊子が意味するところに心当たりがなかった。川端の正面、部室の革がはげたソファーに座ったままの歌村が目を合わせてこない。普段と違う歌村の様子に気づかない振りをしたまま、とにかく文を目で追った。追って理解した。漫才の台本だ。

「どうだ?」

 歌村の目は、もともと二重の皺が目立つ派手な瞼だが一層熱を帯びギラついていた。

「うん」

 川端が捻りだせた唯一の言葉に対して、歌村は盛大に拳を突き上げた。

「いけるな? な?」

 正直、分からなかった。面白い気もするし面白くない気もする。だが立ち上がり、ソファーの周りを歩きながら解説を始めた歌村を止める術はなかった。

「俺たちの今の力量だとこの塩梅がいいと思う。俺が全力でボケ、お前が小声でツッコむ。まともそうなお前がたまに変わったツッコミをすれば、俺もお前もウケると思うんだ」

 舞い上がる歌村を窘めるように、部室のドアが開かれた。川端の知らない、歌村の友人らしかった。

「お前、なにやってんだよ。再試用のレポートの〆切は昨日までだぞ。出してないだろ」

「大丈夫だ、レポートなんかよりも大事なものができたからな」

 思えば歌村はこのときからすでに本気だった。


 言われるがまま、ネタ合わせをした。ネタ合わせはサークルの鑑賞会が終わり、他の部員がいなくなってから行われる。台本を覚え、頭で覚えた気でいても口から出てこず、家に帰ってからも読経のように自分の台詞を声に出し続けた。一人では言えるようになった台詞が、歌村と合わせると出てこない。なんだっけ、と思う間に歌村が手を叩いて止める。

「ダメだ、もう遅い」

 歌村が焦れていることが伝わってくる。始めからやり直し、一度間違えたところに気をとられてさっきはできていたところを間違える。見かねた歌村がアドバイスをしてくる。

「忘れたらなんか言ってごまかそうぜ。なんでもいいんだよ。何か言えば俺がなんとかする。黙るのはダメだ」

「それか、寝ていても台詞が出るぐらい体に染み込ませるまで練習すればいいだけだ」

 どっちも無理な気がして逃げ出したくなった。自分がこうも向いていないとは。謝って全て無かったことにしたい。だが言い出そうとするたび、歌村と友人の会話が引っかかった。再試のレポートを出していないという話。歌村が出さなかったのは、落としても問題ない授業のレポートだったのだろうか。聞きたいが、恐ろしくて聞けない。もし留年を決定づけるようなレポートを出さなかったと答えられたら、自分はどうすればいいのか。悶々とするだけして、ネタ合わせをやめることもできずいたずらに時間を過ごしていた。

「忘年会でネタを披露するからな」

 歌村から聞いたとき、頭が理解を拒んだ。分かってはいるつもりだった。歌村はいずれ、この漫才を人前で演じたいのだろう。だからこそサークルの部員に見せずに稽古を重ねてきたのだ。だが本当に披露すると宣言され、実感が湧いた。あの姿を見られるのだ。何度も一本のネタだけを練習し、歌村よりはるかに台詞が少ないくせに間違えてばかりの姿を。

 逃げ出したい。その一心で尋ねていた。

「そういえば、レポート、大丈夫だった?」

 自分の思い過ごしで、重要じゃないレポートだったのなら謝って許してもらおう。安易に芸人になりたいと思った自分が間違っていたと、土下座でもなんでもしよう。

「大丈夫だよ」

 なんだ、と安堵でその場に崩れ落ちそうになったのは一瞬だった。

「俺、もうすぐ大学辞めるから」

漫才でも、日常の中でもたくさん歌村のボケを聞いてきた。その中でも断トツで面白くない。と、思っているのに足が震えていた。

「ボケで言ってるんでしょ」

「そんなつまらねえボケしねえよ」

 よかった、つまらない自覚はあるらしい。

「じゃあどういう意味?」

「そのまま。言ってなかったけど、俺はずっと本気で芸人になりたかったんだ。問題だったのは親と相方探しだけだ。親はなんとかなる。相方はお前。だから辞める」

「いや、大学を辞める必要はないんじゃ」

「学歴が芸人になってからなんか役に立つのか。むしろ、時間の無駄だろ。高校出てすぐ芸人になる奴なんかザラにいるんだ。これ以上遠回りはできん」

 足の震えが本格的なものになってきた。人はどこまで震えながら立てるのか、限界への興味すら湧いた。

「本気なら、僕よりも役に立つ相方を探した方がいい」

「ダメだ。お前じゃないとダメだ」

 意味が分からない。これまでただの一つも歌村の要求に応えられていないのに。川端が抗議の言葉を見つけられない間に、歌村が肩に手を置いてきた。

「分かってんだよ。簡単な話しじゃないっていうのは。売れる奴よりも売れずに終わる奴の方が遥かに多い世界だ。普通はこんなこと頼めない。でもお前は」

 歌村が言い淀んだのが分かる。躊躇は瞬きの間ぐらいのものだった。

「でもお前は、親がいないんだろ? ならお前が俺を信じるだけだろ。お前が芸人になりたいなら、とことんやればそれでいいんだよ」

 思わず、なるほどと言ってしまいそうだった。説得に納得したからではない。全力で何かを言ってくる相手に対して、抗ったことが無かったからだ。勘の鈍さを武器に生きてきたような自分でも、ここは譲ってはいけないのだと足の震えが教えていた。

「確かに芸人になりたいとは言ったけど」

 喉も震える。情けなくて、歌村の行動力が怖くて。

「こんなに、自分が向いてないって知らなかったから」

 できる精いっぱいの懺悔だった。歌村はしばらく黙っていた。考えているというより、次の言葉があるかもしれないと待っているようだった。川端が何も言えず、足の震えも収まりかけた頃、ようやく歌村は口を開いた。

「とりあえず、この漫才はやる。もう忘年会のプログラムにも入ってるんだ。今さら断れないからさ」

 川端は頷いた。本当は忘年会だって断りたかったが、それで終わりなら譲歩するしかない。後から知ったことだが、忘年会にはプログラムなどという大層なものはなく、断るも何も、当日になって急に歌村が漫才をすると言い出したようにしか見えなかったそうだ。

 忘年会は複数のサークル合同でオカミネビルという貸しビルの一室を貸し切り、普段は会議などに使うのだろう清潔感のある場で行われた。結婚式場のような円卓が置かれていて、五卓あるテーブルにそれぞれ数人が座って持ち込んだ酒やつまみを広げていた。手前にいる落語サークルのメンバ―はまだいい。だが他のテーブル、というより誰がどこの所属で何者か判別もつかなくなっているが、男女入り乱れているのは川端の知らない顔ばかりで余計不安にさせられる。

 川端は一滴もアルコールを飲んでいなかった。意外なことに、歌村も同じだった。会は一時間ほど経ち、ビンゴ大会が間もなく始まるという頃合いらしい。歌村曰く、自分たちはビンゴ大会の前に盛り上げ役として登場する算段だという。

「いきなり行くからな。サプライズ登場する」

 盛り上がる会場から抜け、ドア一つ挟んだ廊下に二人はいた。結局、練習は続けたが一度もうまくいっていない。絶望的な気分だった。

「大丈夫か」

 歌村が声をかけてくるが、生きた心地がしなかった。

「俺を信じろ。もし何もわからなくなったら、なんでだよ、ってだけ言え。俺がなんとかする」

 苦肉の策で言ったのだろうが、川端にとっては微かな希望が見える言葉だった。なんでだよ、だけならなんとか言えそうな気がする。たかだか五文字を、何度も反芻する。なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ。念仏のように唱えていたら、歌村が今だ、と小さく声を上げ進み出た。とにかく遅れないようついて行く。

「どうもーーーーお待たせしました、歌村川端でーーす」

「誰も待ってないよ」

 最初の台詞は言えた。ホッとする間もなく、好奇のざわめきが飛んできた。なになに、漫才? ウケる、ありえない。てか、片方の声聞こえない。

 最悪なことに、二人の前を遮って出てくる人がいた。

「待て待て、何が始まるっていうの。ちょっとストップ」

 会場からはその男にブーイングが飛んだ。自分たちから注目が逸れたことが、川端にとっては何よりの救いだった。飛び出してきた男が野次に負けじと声を張る。

「うるさい! こういうのはな、相応しいステージが必要だろうが。あれ持ってこい!」

 あれ、と指さした方向へ後輩らしき人たちが走っていく。二、三人で抱えながら運ばれてきたのは、酔いつぶれた人たちが寝るために用意されていたマットレスだった。文句を言いながらも後輩たちは迅速に動き、川端たちが立っていた場所へと敷かれた。

「いらねえよ」

 歌村が顔をしかめたが、一方で会場からは笑いが起こっていた。邪魔にしか思えなかったマットレスも、白い床に黒い長方形が登場したことでステージに見えなくもない。

「よし、それじゃあ改めて、歌村川端でーーーす」

「誰も待ってないよ」

「それはさっき言っただろ!」

 歌村が鋭く返す。そこで笑いが起こった。あとは、がむしゃらに歌村の喋りについていった。聞こえない、と客席からのヤジが聞こえて、声を少し張る余裕まであった。歌村が言っていたことを守る。自分はあくまで小声でツッコむから、歌村との対比で面白くなる。だから、大きくなりすぎず、でも客には届くように少しだけ声を張る。

 笑いが起こる。最初はまとまりのない、恐らく漫才を聞いてもいない人たちの声も混ざった乱れた笑い。歌村がボケるたび、川端がツッコむたび、徐々に笑いがまとまっていく。あれ、けっこう面白いかも。どこからかそんな声が聞こえ、もっと、もっとと笑いを求めている自分に気づく。あれ、間がズレる。川端が一瞬遅れたことを歌村が茶化し、それすら笑いにしてしまう。たまらない。もっと、もっと。笑いを起こしたい。笑いを浴びたい。

 後から思い返せば、このときほど自分たちを無敵の二人だと思えたステージは無かった。今なら一言で理由を説明できてしまう。身内の酔っ払いが相手だったから。

 二十歳のときに大学に休学届を出した。歌村は退学届を出していた。というより、川端も退学届けを出すものと思い込んでいたらしい。何かにつけて、お前は考えが甘い、と新入社員を値踏みするような目でなじるようになったのはこのときがきっかけだったと思う。

 どうにか川端だけ大学に籍を置かせてもらったまま、お笑いコンビうれたんずは誕生した。床に敷いたウレタンマットの上でデビューしたから、という安直な理由だ。その頃から、験を担いでウレタンマットの上で寝るようになった。家にベッドを入れるのは億劫だったので、キャンプ用の寝具やベッドマットなど、とにかくウレタンであれば敷いて寝た。もともと固いうえ、安物はすぐにヘタって寝ている場合じゃなくなる。その度に買い替え、古いマットが部屋に積まれるたびにうれたんずの歴史を感じて懐かしい気持ちになった。

 歌村に勧められるがまま二人でお笑い養成校に入り、一年後に事務所の新人オーディションを受けた。この頃の漫才より、訳も分からずウレタンマットの上で唾を散らした漫才の方がよほど出来が良かった。とにかく台本を間違えてはいけないと半泣きになっていた覚えがある。間違えてはいけない。間違えたら、歌村に怒鳴られる。一行でも、一文字でもいけない。多分、二人とも病んでいた。川端は怒られたくない病気で、歌村は怒鳴り散らしてしまう病気。そんな二人がオーディションで笑いをとれるはずもない。のだが、なぜか結果は合格だった。真相は分からないが、日本語が話せれば、とか、三分間立ってネタをする体力があれば、とかそのぐらいの低い合格ラインだったとしか思えない。

 ともかく、うれたんずはプロのお笑いコンビとして事務所に所属することが許された。そして、遊びまくった。サーカス、狂言、ストリップ、ゲイバー、メイドカフェ、乗馬、おっぱいパブ、寄席、歌舞伎。すべて歌村が指定し、金も払っていた。実家に住み、生活費は親持ちだという歌村がバイトで得た金は、大半が二人の遊びに注ぎ込まれていた。 

 歌村いわく、お前は世間を知らなさすぎる、エンターテインメントを勉強しろ。全てを笑いに活かせ、新しいものが出たら飛びつけ、未知の世界が芸を助けてくれる。とのことだった。ただ、世間の勉強、というものをするとき基本的に歌村は別行動だ。どれもこれも一人で行かされる身にもなってほしかった。

「二人で同じことばかりしてたら、コンビとしての感性が偏る」

 歌村はそう言って聞かなかった。

 言われるまま、スタンプラリーのように行った場所の証となる品を集める。戦利品が貯まり、歌村が感慨深そうに頷く。お前も一歩ずつ本当の芸人に近づいているんだな、と。

 歌村も金に余裕のある生活をしていたわけでは無いだろう。川端がよく分からずに買った馬券は賭け方に無茶があったらしく、外れ馬券の山を見た歌村の顎は外れそうなほど開け放たれしばらく閉じなかった。それでも歌村は川端に金を注ぎ込む。うれたんずにとっての先行投資だと言って注ぎ込む。

「本当は来たくなかったんだ」

 そう言われたおっぱいパブのビーチボールみたいな胸をした女性は、川端の手を自分の胸元に引き連れて、ごめんね。と謝って涙を浮かべていた。悪いのはあなたじゃない、歌村です、と言いたかった。ちなみに恋愛は禁止されている。女に時間をとられれば芸が鈍る、と歌村は自身も彼女は作らないと豪語した。

 歌村が入れた先行投資以外の日は、当然川端もバイトをしていた。合間を縫ってネタを合わせ、数を重ねるごとに歌村のボケる声が大きくなっていく。事務所の無責任な先輩が、怒鳴ってボケた方がお前のキャラが立つ、と助言したらしい。いつしか耳栓をしてネタ合わせをするようになったが、栓を貫通して聞き取れるので問題なかった。

 そんな生活を二年続けていたら、頭がおかしくなった。歌村が今怒鳴っていることが、漫才のネタなのかダメ出しなのか、幻聴なのか分からない。

 芸人を辞めたいと言った。歌村は止めなかった。川端が限界であることに気が付いたからなのか、意思を尊重したからなのかもよく分からない。大学に戻れと言われた。言われなくても、他に行く場所などなかった。休学可能な上限である二年間をぎりぎりまで芸人もどきとして過ごし、うれたんずは解散した。


 夫から暴力を受ける妻が、不合理な判断と分かっていながら夫の元に舞い戻ってしまう。うれたんずの再結成はそれとさほど変わらなかった。

 きっかけは、川端が大学の先輩から誘われた落語サークル主催の寄席だった。二十九歳で脱サラして大学に入り直したという、川端から見て学年でも年齢でも先輩にあたる、数少ない真の先輩からの誘いだ。芸人になるといって大学から去ったうれたんずは、落語サークル内では伝説OBの扱いになっていた。伝説は、良い評判よりも面白可笑しく脚色された悪い評判のものの方が多い。たかだか二年離れていただけで都市伝説のような存在になり、その都市伝説が帰ってきたとあっては寄席の目玉に据えるしかない。そんな風に真の先輩は、聞く側の気持ちも考えず熱弁していた。

 川端は引き受けた。理由はとにかく煩わしかったからだ。一人で大学に戻ってから気が付いたが、歌村が隣にいない川端は、後輩から見て接し方に悩む存在らしい。腫物に触るようであり、かといって無視もできないという距離感を壊すきっかけが欲しかった。

 コンビを組む相手がいないので一人でやるしかない。ピン芸という奴だ。歌村が書くネタを思い出しながら、歌村ならどう面白くするかを考えた。歌村がいない以上、声を張る役はいないのでボソボソ呟いても面白いものを考えないといけない。

 試行錯誤と迷走の挙句に披露したのは、落語家のように座布団に座り、客にひたすら語りかけるというものだった。なぜか、決め台詞の後は歌舞伎ポーズで締める。ツッコみ役がいない分、笑って下さいのタイミングを伝えるためだ。ほとんどは使い古されたあるあるネタだったが、合間におっぱいパブで謝られた話を入れたら少し笑いがとれた。川端の見た目と、振る舞いと、それまでのありきたりな話からの落差がツボに入ったらしい。

 全体で見ると悪くはない、といった程度の結果だったろう。それでも川端には革命的な瞬間だった。これかもしれない、自分が生きる道はピン芸にあるのかもしれない。

 そう思った矢先に、歌村に捕まった。一人で芸を披露した翌日には歌村から連絡があり、その次の日にはうれたんずを再結成させられていた。芸人をやるのなら話が違う、俺と組め、と奴は言った。血眼で川端のミスを罵倒していたときとは違う、静かな熱をもった目だった。川端はなんの話が違うのか、とツッコむのも忘れていた。

 川端がピン芸を披露し生き生きとしていた、と真の先輩の評を川端自身が聞いたのは少し後になってからだ。歌村は川端より先に、その評判を耳にしたらしい。どう解釈したのか分からないが、歌村が明確にネタの作り方を変えた。川端をボケにし、歌村がツッコむ。コンビの役目を入れ替えた。それも、川端の役が目立つようにし、ツッコみである歌村は自身を引き立て役に置いた。

 ネタも漫才からコントに変えた。漫才は自分のままで笑わせ、コントはその物語の登場人物として客に笑ってもらう。いつか歌村がそんなことを言っていたのを思い出す。川端からみれば、役に入り込めるコントへの変更はありがたい話ではあった。

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