7日目 二十五

 一つだけ分かるのは、自分たちは助かったらしいということだ。田上とバンダナ男が引き上げた家の中、とうとう六枚目のウレタンマットが引っ張り出されリビングに並べられた。六人目が座ることを知っていたかのように、重ねて放置されていたウレタンマットの最後の一枚だった。

 なんとなく決まってきたそれぞれの定位置に座り、追加された六枚目に川端が腰を下ろす。

「すごいですね、こういう使い方ができるとは思っていませんでした」

 他人事のように自前のウレタンマットに座り、部屋の隅々まで眺めてはへえ、とため息に似た声を漏らしていた。六枚目は長年敷かれていたためか見た目にもかなり薄っぺらく、畳の上に直に座るのと大して変わらないように見えた。

「あの」

 青木は恐る恐る声をかけた。自分たちは、本人の意思確認なく家に上がりこんでゴミと思われるものを大量処分したのだ。木井の指摘では、ためこみ症の患者が溜めたゴミを捨てられれば酷いショックを受ける可能性もあるという。前後を顧みず、信じるままに動いてきたその審判が下される気がした。

「勝手に家に上がりこんで、勝手に片づけてしまいました」

 詫びの言葉を続けようとしたところでシャンパーニュが割り込んできた。

「私がお願いしたんです。私の責任です」

 川端は口を半開きにしたままシャンパーニュを見ていた。純粋に、その意図を汲み取りかねているらしい。ややあってから、ぎこちなく笑みを浮かべて言った。

「すみません、大変だったでしょう。恥ずかしい話ですが、気が付いたらあんな家になってしまっていて」

 その顔からは、ショックや病的なものは感じられなかった。祈るような気持ちで改めて問う。

「あの、俺らがやったことって迷惑だったんじゃないですか」 

「迷惑?」

 川端が首を傾げ、腕組みをする。あぐらで腕組みをする真ん丸い頭は、幼い顔立ちもあって修行が足りない坊さんに見えた。

「そう……ですね、家にたくさん人が出入りしていて驚きましたが、片づけてくれたことにはこちらが申し訳ないなって思っています」

「よかった」

 呟いた木井が目を閉じ、深く長い息を吐く。自分たちがしたことの危険性を知っているからこそ、誰よりも強く心配していたのだろう。木井の様子が、もう安堵していいのだと物語っていて青木も気を緩めることができた。

「当たり前です、迷惑なのはこっちです」

 鋭く麻子が声を上げて続けた。

「何考えてるんですか、遺書の入った鍵を預けていくなんて。預けられた方の身にもなって下さい」

「すみません、まさしく血迷っていたんでしょうね。あのまま死んでいたら……と思うとゾッとします」

「それはさっきも聞きました。一体今までどこで何をしてたんですか。きっちり説明して下さいね」

「なあ、ちょっと待ってくれ」

 喋るほど熱が入っていく麻子を、青木は慌てて止めた。聞きたいことは青木も山ほどあったが、その前に確かめたかった。麻子に一瞥されたが、何も言わないのは譲ってくれた、ということらしい。

「先に高代に聞きたいんだ。さっきのあれはなんだったんだ」

 あれ、以外に表現のしようがなかった。まるで催眠術でもかけられたかのようにバンダナ男が従順になり、田上を追い払うに至ったあの寸劇、のようなもの。

「あれはねー、うれたんずのコントだよ」

 高代が得意げに親指を立てる。その親指と目線は、川端へと向けられていた。

「そうです。つい懐かしくなって、嬉しくて、気が付いたら僕も参加していました」

「まさか川端さんが入ってくれるとは思ってなかったんで、相当ビビったよ。本物とコントができるなんて、一生の思い出になりました。謹んでお礼を奉りたい所存です」

「いえいえ、こちらこそありがとうございます」

 丁重に頭を下げ合う二人には、本人たちにしか分からない連帯が生まれているらしい。青木は曖昧に頷きながら、話を戻す役に徹する。

「で、なんでお前は急にコントなんかやり始めたんだ」

「それはねーアオちゃん。あのバンダナくんが、うれたんずを知ってるみたいだったから」

 なんだそりゃ、と思わず口に出た。高代一人が、全能の神にでもなったようにこの時間を楽しんでいる。

「前に来たときも思ったんだ。あのバンダナ、芸人養成所の生徒に支給されるやつなんだよ。昔さー、養成所に見学に行ったときに、そこの生徒がみんな持っててさ。ダセえって陰で笑ってたから覚えてた」

「そうです、あの養成所は僕も出たところですから。これですよね」

 川端がポケットから布切れを取り出した。薄汚れて縮れているそれは、言われなければ到底バンダナには見えない。だが男が頭に巻いていた黄色いラインと同じものが、確かにそこにあった。

「死ぬときは一緒にいたいと思って、これだけは持って行ってたんです」

 死ぬ、という言葉に素早く反応した麻子が唇を尖らせた。察して川端が、いえ今は死のうとは思っていませんので、と口元で小さく弁明をしている。

「参ったな。ダサいって言っちゃった」

「当時からデザインは不評でしたから。ただ知っている人は知っているので、あれを着けているとアピールにはなるんですよ。自分は芸人の卵です、仕事を下さい、と。そういう使い方を意図して作られたみたいです。実際にやっている人はほとんど見たことないんですけど」

 川端の言う通りの意図であの男がバンダナを巻いていたのであれば、健気な話だと思う。一方で、涙ぐましい精いっぱいの主張をしていた彼が、なぜ田上のような下らない人間に従っていたのか。青木の疑問に気づいたように、高代が答えてみせた。

「シャンパーニュちゃんのお兄ちゃんは、バンダナを着けてたから声をかけたのかもしれないねー。例えば、動画に出してやるから仕事を手伝え、とかさ」

 まじまじと高代を見ていたら、え、何かヘン? と不審がられた。青木は手を振って応じた。

「いや、やたら冴えてるなと思って」

「そりゃあねー、なんか気持ちが分かる気がして。俺も芸人になりたいって思ったとき、一発当ててすぐ有名になりたいって思ったからさー。藁人形にもすがる思いなんだと思うよ」

 藁ね、と木井が呟く。さすがキーくん、コンビ組む? と浮かれる高代を木井は無視していた。

「あー、えっと、それで?」

 ひとまず先を促す。話の行き着く先は依然見えないままだ。

「それだけだよ」

 高代は何が分からないのか分からない、と言いたげに肩をすくめた。よくよく話を聞いても、確かにそれで全てと言ってよかった。初めて男のバンダナを見たときに高代が、頑張れマン三世という、うれたんずのコントの中のフレーズを使ってエールを送った。その反応から、高代はバンダナ男がこのネタを知っていると確信したらしい。

「だから、うれたんずが活動再開してまた活躍を見れる可能性があるなら、全部水に流してくれるんじゃないかって思ったわけ」

 恐らく、何度聞いても理解はできないのだろう。にわかには信じがたいが、凡人には理解できない高代の策は見事に成功したということだ。

「うれたんずは結構、若手芸人の憧れの存在になってたってことっす」

 心から敬うように、高代はそう川端へ向けて結論づけた。当の川端は相変わらず起伏が乏しく、そうですかねえと薄い笑みを浮かべただけだった。

「ただそうは言っても、うれたんずが活動再開するって、決まってるわけじゃないんですよね?」

 迷ったが、聞かずにはいられなかった。川端にとって歌村は自殺を考えるほど追い込まれることになった原因を作った相手であり、実刑判決を受けて服役中でもある。その歌村とコンビ活動をする日が、本当に来るのかどうか。

 青木が見たとき、川端はぼんやりした顔から、自分が答える番だと気づいて色の灯った目に変わる瞬間だった。青木は、川端がなんと答えるか分かった気がした。

「うれたんずはいつか必ず活動再開します。僕はそのために帰って来ました」

 静かに宣言した川端の顔は、芸を生み出すものとして生きる決意で綻んでいた。生きることを止めようとした一人の人間が、鮮やかに蘇る瞬間を見た気がした。

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