7日目 二十四

 いつ田上を解放すべきか。ウレタンマットの上で仰向けに寝転がる奴を見下ろし、青木は考えていた。川端が仮にメッセージを見たとする。だがそれで川端が戻ってくる保証はなにもない。あるいは、戻ってこようにも遠方ですぐには動けないケースもあるかもしれない。一番最悪なのは、遺書とは違う場所で自殺を決行してしまっていた場合だ。考えたくはないが、遺書まで書いて家を何か月も空けている以上、その可能性は否定できない。

 メッセージを発信してから二時間は経とうとしていた。他にすることもなく、順番で田上を見張りながら残りの四人で廊下や浴室の清掃を行っていた。やがて日没がやってくる。川端がすぐに現れなかったとしても、田上はできる限り引き止めておきたい。解放した途端に警察に駆け込まれるかもしれず、青木たちのメッセージもすぐに消してしまうだろう。

「おーい」

 青木の気配に気づいたらしく、仰向けのままの田上が呼びかけてきた。抵抗も罵倒もする気が失せたのか、顔見知りを呼び止めるような気安い声だ。青木が田上の視界に入るようにし、顎をしゃくって続きを促す。

「しょんべん」

 田上と目が合う。青木は潮時を覚悟した。

「漏れる。それともここで漏らせってか?」

「そういうことかもな」

 八つ当たりも込めて言い放った。ふざけんなよ、と仰向けのままの口から小さく聞こえる。青木への恨みより、現状への嘆きの方が上回っているような声だ。

「お前、なんでコント中にスマホを鳴らしたりしたんだ?」

 あ? と顔をしかめ、覚えが無い顔をしている。青木がうれたんず、という名を出してようやく問いの意味が分かったらしい。ああ、と鼻で笑い口を閉じる。青木が解せないでいることを愉しんでいるのが伝わってくる。無視して黙っていると、早々に田上はやり方を変えた。この方が面白いからと、決めてしまえば矜持は無いらしい。青木があからさまに興を失っていても構わず喋り始めた。

「あいつら、ムカつくんだよ。俺のスマホはお利口ちゃんだから、持ち主の気持ちを読んだんろうな。タイミングのいいところでデカい音が鳴っちゃった。かわいそうにな。鳴ろうが鳴るまいが結果は変わらなかっただろうに、そんな理由で俺を逆恨みするんだから」

 青木が汚いものを見る目で一瞥すると、それを餌にしたように饒舌さが増した。

「俺らはドリルこんにゃくを見たかったんだよ。大学の文化祭でな。彼女連れて馬鹿みたいな混み具合の会場に行ったら、いたのはあの二人だ。誰だようれたんずって。ドリルこんにゃくが来れなくなったからって、ゴミみたいな芸人よこしてんじゃねえよ。彼女ともケンカして最悪だろ。まさか、数年ぶりに再開して恨みを晴らすチャンスが来るとは思わなかったよ。やったのはお利口なスマホちゃんだけどな」

 寄りかかっていたふすまから体を離すと、反動で大げさな音が鳴った。その音を置き土産に青木は部屋を後にした。これ以上傍にいたら、腐った思考回路が感染る気がした。

 田上から離れ、トカゲとゴミ袋がいるだけの冷えた台所に立つ。戦況は一番確率が高く、もっとも収穫のない展開を迎えようとしている。なんの音沙汰もないまま、田上を解放せざるを得なくなるという展開だ。改めて田上のSNSを開いたが、何事かと心配するフォロワーや新しい企画なのではと推測をはたらかせるコメントはついていたものの、川端を連想させるものは一つもなかった。

「お前らあっ、マジで殺す! 社会的に殺してやる!」

 ずれたタイミングで田上が叫んだ。改めて怒りが湧いてきたらしい。聞きつけてシャンパーニュがやって来た。

「アオさん」

「ああ」

「あとは兄と私で話をつけます。皆さんに迷惑がかかるようにはしません」

「どうだかな。気持ちはありがたいが、あれは面倒そうだ」

 肩をすくめ、叫びのあとまた押し黙った田上を見やる。いくら同情しようのない性悪男が相手でも、これ以上の拘束は青木たちの方が耐えられそうになかった。

 よし、と小さく声に出し自分を奮い立たせた。作業している木井たちに、田上を解放することを伝えに行こうと決めた。そのときに。すっかり耳慣れた金属音が響き渡った。期待よりも戸惑いの方が大きい。川端が帰ってくるとしたら、呼び鈴は鳴らさず鍵のかかっていない引き戸を開けて入ってくるだろう。なにせここは川端本人の家なのだから。

 音に誘われるがまま、青木とシャンパーニュは玄関へと向かった。玄関から見て一番奥にあたる浴室周辺で作業していた高代たちもドタドタと慌ただしく付いて来た。

「ついにマサくんのご登場?」

 高代がいつの間にやらマサくんと呼び、弾んだ声を上げた。その奥で、機転を効かせた木井が田上のいる部屋へと入っていくのが見える。見張り役を買って出てくれたらしい。

 青木を先頭に、麻子とシャンパーニュ、後ろに高代と狭い玄関に並んだ。青木はすりガラスの向こうの人影を川端と重ね、似ているか考えたが分からなかった。そう簡単にいくはずがないと自分に言い聞かせ、肩透かしを喰らう準備をしてから慎重に引き戸を開けた。

 男が立っていた。最初に思ったのは、川端ではないということだ。坊主頭は木井よりも皮膚寸前まで剃り上げられ、いくらか青白さも感じる。顎や鼻に無精ひげが散乱し、幼い顔立ちと似合わずに浮いた印象を受ける。ただ、潤んだ丸い目を見たときにまさかと思った。その丸い目は、感情で潤んでいるわけではなく、もともとそう見える目なのだ。いつか写真で見た、子犬のような目も潤んでいた気がする。

「あの、あなたは」

 男が青木を見上げ、戸惑いの色を浮かべる。その反応で確信した。

「お久しぶりです、川端さん」

 シャンパーニュが返事をする。青木は横にずれ、出迎え役を譲った。

「あ、那菜さん。すみません、心配かけましたか」

 川端が誰に呼びかけたのか一瞬分からなかった。青木は自分の雇い主の本名が那菜であると、今さらになって知った。

「ええ、とっても。もう生きて会えないかもしれないと思いました」

 そう言ったシャンパーニュが少し苦笑いしたように見えた。すぐに満足そうな笑顔に変わり、眼鏡を外して目元を拭った。

「マサくん」

 今度は麻子が声をかけた。川端はようやく気づいたらしく、おお、と平凡な声を漏らした。青木は初めての対面だが、川端という人間の勘の悪さを味あわされている気がした。 

「何考えてるんですか。遺書を遺していくなんて。死んでたらどうしようって本気で心配したんですよ」

「え、あ、ああ、はい」

 なんだその気が利かない返事は、と野暮を承知で責めたくなってしまう。と同時に、川端が麻子に対して困惑しているのが伝わってくる。それで気づいた。恐らく麻子は、初めて川端に対して素の自分で接しているのだ。レンタル彼女として男に都合よく作られた麻子ではなく、本来の話し方と考えで川端を迎えている。

「とりあえず、中で話したらどうでしょうか?」

 青木は川端を見て言った。川端が何と言うのか、少し興味深くもあったが返事は一番ありふれたものだった。

「ああ、そうですね」

 青木は思わず苦笑していた。青木がしたのは、家主を差し置いて言われる筋合いはないはずの提案だ。それに気づく様子もないあたり、お笑い芸人という職業に必要であるはずの機転とは対極にある人物に思える。だが、この短いやりとりで納得できもした。シャンパーニュと麻子が言っていたことに間違いはないのだ。川端雅之はきっと、優しい。

 シャンパーニュと麻子に促され、川端が数か月ぶりだろう自宅へと足を踏み入れていく。

「あれ、片付いてる」

 異国の地に降り立ったかのように辺りを見渡しては感嘆していた。声はなく、ただ仕切りに首を振る。変わり果てた自宅を見てあの反応なのだから、もともと感情の起伏はほとんど外へ出てこないらしい。ますますお笑い芸人とは似つかわしくない気がして、不思議でもあり可笑しくもあった。シャンパーニュが川端を田上がいるウレタンマットの部屋へと連れていく。他にゆっくり座れる場所もないのでやむを得ずといったところだろう。

 その光景を見ているうちに、青木は自分が笑っていたことに気づいた。安堵と達成感から、といったところだろうか。止めようと思っても次から次へ笑みがこぼれてくる。同じような顔で部屋に入ろうとする高代を、慌てて呼び止めた。

「高代、待て」

 何事かと青木の方を振り向いたところで、高代も異変に気づいたようだ。足音を立てないよう慎重に玄関まで戻ってきた。二人ですりガラスの前に立つ。川端を迎え入れ、閉めたばかりの引き戸の向こうには、再び人影が近づいてきていた。何者か考える猶予もなく、コンクリートを踏む足音が迫ってくる。ガラス越しの服の色が見え、青木は相手を予感する。間もなく呼び鈴が鳴らされるだろうところで、青木は自分から戸を開けた。

「うわっ」

 面食らった相手が大げさに見えるぐらい仰け反る。やはり、予想した通りの相手だった。派手なバンダナが目立つ、田上の後にくっついてた男。間近で見る男は想像していた以上に若く見えた。二十代前半か、あるいは十代と言われても違和感はない。

「あの、田上さんここに来てないすか?」

 声を上げてしまったことをごまかすよう、口を尖らせながら尋ねてくる。なんの恩があるのか、律儀に田上を探しているらしい。一瞬、なんと答えるか迷ったが覚悟を決めた。

「ここにいるよ」

「あ、なんだそうなんすね。いくら連絡しても田上さん連絡つかなくて、こんなこと初めてだったんで」

 バンダナ男からは尋ね人を発見した喜びは感じられなかった。なんとなくバンダナ男の田上への感情が想像できた気がしたところで、決定的な呟きが聞こえた。

「別に、いなくなったままでもよかったんすけどねー」

 田上が待つウレタンマットの部屋へと案内する間も、その口から次々漏れるため息は再会を憂いている以外の何ものでもなかった。

 ものの数歩で着く部屋の入り口までの廊下を、青木はことさら時間をかけて歩き、バンダナ男へ田上を引き渡した後のことを考えていた。田上は自分たちに何かしらの仕返しをしてくることは間違いない。そのときに備えるために、明言しておかなくてはならない。主犯は自分だと。事実、計画を提案し実行したのは自分自身であり、他の四人は口車に乗せられただけなのだから。たとえ裁判になったとしても他の四人からは目が逸れるよう、自分が田上の憎まれ役になる。そのぐらいのことしかもう、できることは残されていない。

 いくらゆっくり歩いたところで部屋には簡単に着いてしまい、バンダナ男は捕らわれの田上や川端たちと対面することとなった。

「お前を探しに来たんだそうだ」

「よく来てくれたよ。これであんたら、全員前科者確定だな」

 バンダナ男は手錠をかけられた田上の姿に怖気づいたのか、何も言わず傍観者となって立っていた。

「とりあえず誰でもいいからこれを外せよ」

 だらんと垂れさせた両腕を振り、手錠を鳴らす。

「聞こえねえのかよ!」

 身動きがとれずにいる青木たちに向かって、荒々しく声を上げた。手錠の鍵を持っているシャンパーニュが歩み出たところを、青木は制した。

「外すな」

 鍵は俺が持つ、と言ってシャンパーニュから半ば強引に奪い取った。田上の手錠を手に取り、力任せに引っ張り上げた。

「いてえ、いてええなおらあっ」

 田上も抵抗してきたが、両手が固定されている分うまく力が入らないらしい。引きずり出すようにして立たせ、首根っこを掴んだ。

「忘れんな。お前が自由になれるかは俺が決める」

「はいはい、せいぜい今だけエラそうにしてろよ」

 あとは田上が青木を主犯として訴えを起こし、青木もその主張に同意すればいい。田上が乗ってきた車まで、奴を連れて行こうとしたが足がもつれそうになる。頭も痺れてろくに考えられる気がしない。とにかく田上を連れ出して今日を締めくくろうとした。

「あのさー」

 いつだって空気に迎合しない高代が、田上を連れて行こうとする青木の背中に向けて言った。鈍った頭で思い出す。以前も、こんなことがあった気がする。

「そこのキミ」

 高代はなぜかバンダナ男に向けて呼びかけた。青木は思い出す。以前も高代がバンダナ男を呼び止めたのだ。なんだったか、応援したくなったとかの理由で急に声をかけていた。

 バンダナ男がわずかに身を固くしたのが分かった。何を言われるのかと怯え、何事もないことを念じるように高代を見つめている。

「知ってる? ここはうれたんずの家だよ」

 全員が高代を見ていた。突拍子が無さすぎて、その意図が明らかになるまで誰も口を挟めない雰囲気があった。唯一、指名されたバンダナ男だけが、知ってます、と返事をした。

「キミさー、またうれたんずのネタを見たくない?」

 嫌な予感がする。以前もそういえば、高代はこのバンダナ男とやり取りをしたときに妙なことを言って場を台無しにした気がする。ただ意外にも、バンダナ男の目は真剣なものに変わっていた。何かに心惹かれ、希望を見出しているような。

「見たいすけど」

「おい、いつまで話してんだよ」

 田上が横やりを入れるも、バンダナ男は高代だけを見ていた。

「きみもー、頑張れマン三世!」

 まただ、と思った。また、高代にやられた。実物を目にして思い出す、全く同じ光景。緊迫感が急激に弛緩し、白けたものに変わったいく。今日積み上げたものが無に帰るような感覚だ。なんなんだこいつ、と青木がつきかけた悪態を打ち消す声があった。

「ああーそりゃダメっす、即ボツです」

 聞いたことが無い声に動転して、狭い部屋の中を何度も目を走らせた。と、部屋の隅で頭をかく川端と目が合った。

「すみません、つい反射的に」

 反射的、という言葉に理解が追いつかない。追い打ちをかけるように高代が声を張った。

「失礼だな! 一応キミはADで私は作家だぞ! 立場をわきまえろ!」

 今度は川端が一歩前に進み出る。

「ね? どうです、この栄養ドリンク。試しに飲んでみたら元気が出てこんなことも言えるんですよ! もっとCMさえ良ければ化けますよ!」

 もう川端は頭を掻いてはいなかった。何者かに体を乗っ取られたように、話し方から立ち姿、顔つきまで別人のように揚々としている。

「飲んだのか? そのおかげだっていうのか?」

 相乗するように高代も両手を広げ、見たことのない大きな身振りで返した。

「すごいですねこのドリンク。飲んだから言えるんですけど、頑張れマン三世ってキャラは面白くない上に意味が分からなくてダサいです。三重苦です! あ、頑張れマン三世の三は三重苦の三ですか? それならそこだけ面白い!」

 そう早口でまくし立てる川端は、きっと誰の意思でもなく衝動のまま動いている。止めてはいけないと直感し、川端自身が誰にも止めさせないと全身で叫んでいるように見えた。

「あ、すみません次の台詞なんでしたっけ」

 高代が申し訳なさそうに会釈し、急に始まった寸劇の、終幕もまた急に訪れた。

「急に怖いよ、本当にドリンク飲んだからなんだろうな、です」

 憑き物が落ちたように真顔になった川端が言い、ふっと表情を緩めた。

「でもすごいです。これだけ台詞を覚えて下さっている方がいるなんて驚きました」

「面白かったんで、何度も見たっす。このあと、川端さんがどんどんおかしくなっていくところとか、めっちゃ好きです」

 そう言って目を輝かせる高代もまた初めて見る顔をしていて、どこまでが寸劇の一部なのか分からなくなってくる。誰が、どこまでこの状況を承知していたのか。青木は舞台上のエキストラのように息を殺して周りを見たが、田上は巻き込まれたくないと一歩引いているように見えた。唯一、バンダナ男の視線だけが食い入るような真摯さを保っていた。

「な、分かったでしょ。うれたんずはきっと戻ってくる。でもここで訴えられたり面倒事を起こされたりしたら、コンビで二回目のスキャンダルだ。さすがに活動再開の可能性は無くなっちゃいそうだよね」

 高代が説き伏せるように言ったあとの光景は、青木の理解をすっかり超えたものだった。

 バンダナ男が田上に対して関係を無かったことにすると言い出し、田上は何やら喚いた。臆する気配もなく、弁解をするでもなくバンダナ男は冷淡に告げた。

「全部無かったことにして下さい。じゃないと田上さんが取材しているときの動画、ネットに全部流します」

 いかにそれが田上に致命傷を与えるものなのかは、田上が黙り込むまでの素早さで理解できた。自分たちが受けた、取材と称した悪ふざけのような訪問も非常識極まりなかったのだ。似たようなことを各地でやってきているのは明白だった。損得の計算の早さのみで世間を生き永らえてきたのだろう。田上は即座に方針を変えた。

「おい、お前らのことは忘れてやるからこれを外せ。あとお前はクビだ」

 それが捨て台詞だった。

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