7日目 二十一

 客の入店を知らせるチャイムが鳴り、誰も言葉を発しない空白がいくらか紛らわされた。広い店内に客がいるテーブルはまばらで、夕食には早い時間帯ということもあり新しい注文をする客もいない。いつの間にか裏手に引っ込んでいた店員が飛び出してきて、新しい客を出迎えた。懐かしくすら思えるありふれた光景を横目に、青木はシャンパーニュの答えを待っていた。答えは簡単です、と不敵に笑ったシャンパーニュは、笑顔を携えたまま、もったいぶるようにゆっくり口を開いた。

「臨時収入があったんです」

「臨時収入?」

「ええ、きっかり二十万円」

 先ほどまで兄について語っていたときの辛辣な口ぶりが別人のようだった。まるでたった今二十万円を受け取ったばかりのような笑顔を見せ、満足げにしている。

「だからってそれを他人の家の掃除に使おうと思うか?」

 疑問を口にしながらも、いつかのシャンパーニュの言葉が思い出される。清掃費用に相応しいのは二十万円であり、その費用で受けてくれる業者が見つかるまで探すと。

「他に方法が無かったものですから。いなくなった川端さんを見つけるために、どうしても手がかりが欲しかったんです」

「それじゃあ、最初から川端を捜索するのが目的で家の片づけを依頼したってことか」

 はい、とシャンパーニュは笑みを絶やさず続ける。

「川端さんは高校生の頃にご両親を亡くされていて、あの家でずっと一人で暮らしていたんです。親戚の方とも、高校を出て以来は疎遠だと話していました。だから、あの家は川端さんの行方を知る上で唯一の手がかりだったんです。幸い、川端さんが家の鍵を玄関のポストに入れていることは知っていましたので。拝借して合鍵を作らせてもらいました」

 方法に倫理的な問題があったことは認めますが、悪くない案だったと思っています。とシャンパーニュは軽い調子で付け加えた。青木にはシャンパーニュと川端の関係性が、これだけの労力と費用をかけてでも繋ぎ留めたいと思えるものなのか分からなかった。

「いい加減にして下さい」

 静かだが、昂る感情を押し殺そうという意思を感じる声だった。それぞれに俯き、物思いに沈んでいた視線が木井へと集まる。

「あなたは何を考えているんですか。人の家に不法侵入し、無断でその家の物を捨てさせるなんて。そしてそれを、自分の手を汚さずに僕たちにさせたんですよ。自分のしたことの意味を分かっていますか」

 木井の目は赤く、抑えきれない怒りの色が滲んでいた。

「あなたたちは私の依頼を受け、騙されて動いていただけです。あなたたちに責任はありません」

「そういう問題じゃない!」

 思わず周囲が気になって店内を見渡した。近い席に客がいなかったお陰で、このテーブルの殺伐さが嘘のように店内は穏やかなままだ。

「数々の不法行為をしているだけでなく、ためこみ症の患者が溜めたゴミを無断で捨てるなんて。本人があの家を見たら、ひどいショックを受けるかもしれません。あなた、その責任までとれるんですか」

「なんですか、それ」

 木井の剣幕に圧されたのか、シャンパーニュの滑らかだった声が微かに揺れた。

「その、ためこみ症がどうとかって、どういう意味ですか?」

「心の病気です。川端さんはこの病気だった可能性が高い」

 質問に答えながらも、木井の言い方は相手を突き放すためのものだった。

「その人にとって、ゴミが無くなると大変なことなんですか?」

「大変なことになる可能性はあります。どんな心の病にしろ、治療過程は本人の精神状態を最優先にしないといけない。無断でゴミを捨てるなんて、ためこみ症の知識が少しでもある人間なら絶対にしません」

 木井の説明を聞いて動揺しているのは、シャンパーニュだけではなかった。青木自身、取返しのつかないことをしてしまったのではないかと血の気が引いていく。だが。

「ちょっと待ってくれ」

 青木は手元のコップを見つめたまま声を上げた。誰かと目が合ったら怖気づいてしまう気がして、誰の顔も見ないようにした。

「川端さんがどう思うかは、今の段階じゃ分からないだろ。本人があの家を見たら案外、シャンパーニュに感謝して終わりかもしれない」

 自分でも希望的観測が過ぎると思う。木井の指摘はもっともで、シャンパーニュは迂闊な行動を反省すべきなのだろう。だがそれでも、川端雅之という人物なら自分たちの心配など超え、全て許してくれるのではないかと思いたかった。川端は、相方が突然いなくなるという苦境に置かれても一人で舞台に立ったのだ。ゴミすらもかわいそうに思えてしまうと言っていた。きっと、麻子が以前言っていた通り川端は誰にも助けを求めなかったのだろう。誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、誰も傷つけようとしなかった。そんな川端を信じてみたかった。

「川端さんと会う方法を考えよう。きっと、会えばなんとかなる」

「そんなに簡単なものじゃないよ。僕はこれ以上勝手なことをするのは反対だ。警察が動いているんだから、警察に任せるべきだと思う」

 木井が頑なに首を振った。

「無理にとは言わない。木井だけじゃなく、反対したい奴はそれで構わない。でも俺は、ここまで来たら川端さんに会ってみたい。勝手にゴミを捨てたことも、直接謝りたい」

 高代は否定も肯定もせず、珍しく真顔のまま脇の通路に向け目を伏せていた。麻子は顔も肩も強張らせているのが、テーブルを挟んだ位置からでも伝わってくる。忘れ物に気づいたようにシャンパーニュは膝を叩いた。

「アオさんは謝らなくて大丈夫です。でも、私が謝りたいので川端さんを探すなら協力させて下さい」

 忠告してくれたあなたに申し訳ないとは思っているんですけど、と木井に向けて肩身の狭そうな小声で呟いた。返事の代わりに、木井の失望を伴ったようなため息が聞こえた。

「探す、かー。どうやって探すか、作戦が必要そうだね」

 高代がため息の余韻をかき消すように言う。

 手当たり次第というべきか闇雲にというべきか、それぞれが思い当たる手段を挙げていった。もう一度川端のスマホの中の連絡先を当たる、SNSを使って目撃情報を募る、川端の家の中から手がかりを再度探してみる……。案が上がっては、どれも決定打に欠ける気がして却下を繰り返す。

 皆、どこか投げやりでもあった。それはきっと、青木も含め迷いがあるからだ。本当は木井の言い分の方が筋が通っていると分かりながら、ただ川端を信じたいという一方的な期待を押し通したこと。三人掛け席の端に座る木井は、氷同然に固まったまま、時折思い出したように瞬きをしていた。青木は縋る思いで木井の目を見た。

「なあ木井、一緒に考えてくれ、頼む」

 木井は微動だにしなかった。もっともな反応だと、青木も納得するしかない。だから、硬直したままのその口が告げた言葉に驚いた。

「シャンパーニュさん、お兄さんが憎いんですか」

 突然呼ばれたシャンパーニュが、あ、はいと上ずった返事をする。珍しく動揺しているらしかった。同時に青木も動揺し、木井とシャンパーニュのやり取りに釘付けになった。

「どうして憎いんですか?」

「正確には、憎いというより嫌いです。皆さんが見ての通りの人間ですので。兄の良いところは裏表が無いということぐらいです。裏も表もなく、相手が大統領でも閻魔様でも、兄は自分が一番であって自意識過剰で意地汚く、想像力もない。私が何かをされて恨みがあるというより、人として嫌いなんです」

「いない方がましなぐらいですか?」

 すぐに答えるのは躊躇ったようだが、間もなくシャンパーニュはええ、と頷いた。それからは早かった。

「一度、川端さんに言ってしまったことがあります。どうせなら、本物の毒を使ってもらっても構わなかったと。ですが事件は未遂に終わって正解でした。兄なんかのために、歌村さんが手を汚すことになるのはおかしいですから」

 この問いかけになんの意味があるのか。口を挟むべきか青木が迷っていたところで木井の声がした。いつ言ったのか分からないほど、木井は一点を見つめたままだったが確かにその口から発せられた。

「殺す、とか」

 急に出た強い言葉に息が詰まる。

「あなたのお兄さん、本当に殺してしまったらどうですか。僕たち、もうここまで法律や倫理を侵してきているんだから、とことんやったらどうですか。お兄さんを殺して、川端さんの家で遺体が発見されるようにしたらニュースになりますよね。それを見たら、川端さんもさすがに出てこざるを得ない。生きているなら、ですが」

 本気の口ぶりだった。だからこそ、聞かなかったことにしたい。いち早く動いたのは高代だった。

「キーくん、それはさすがにヤンチャすぎるでしょ。殺しちゃダメだよ」

 あえて軽く言っているのが分かる。

「そうですよね、そうすればマサくんも動くかもしれない、っていう喩え話であって、実行するわけじゃないですよね?」

「じゃあ川端さんに会えなくてもいいんですか?」

 木井が顔を上げ、麻子と高代を順に見た。久しぶりに動いた木井は、今度は口を真一文字に結んだまま二人の返答を待っている。自分を落ち着かせるようにスカートの端を撫でながら、麻子が答える。

「会いたいけど、殺すなんて無理に決まってるでしょ。真剣に考えてよ」

「どう受け取ったか分からないですが、僕は真剣に考えましたよ。会いたいなら、とことんまでやるべきです」

「キーくん、さっきまで警察に任せるべきだって言ってたじゃん。前言撤回?」

「今でも警察に任せた方がいいと思ってるよ」

 じゃあなんで、と理由を問いかけた高代が言葉を止めた。青木の目からも、木井の目が赤く潤んでいるのが分かった。さっき見せた怒りの色とは違う、失望や屈辱に満ちた色。

「僕はキミたちと違うから」

 転んだ子どもが泣き出す前のような、何かが張り裂ける直前の感覚があった。大人が張り裂ける寸前のとき、周りができるのは黙って待つ以外にない。

「僕だって、川端さんのことを理解しようと頑張っているつもりだよ。でもキミたちほど同情できない。むしろ、どうしてそんなに簡単に川端さんの味方をしようって思えるのか不思議なんだ。でもやっと分かった。今さらになって分かった。やっぱり変なのは僕の方で、キミたち普通の人と同じようには考えられないんだよ。だから、僕は僕としてアイデアを出したまでだ。間違ってはいないでしょ? 僕の言った通り実行すれば、川端さんからアクションがある可能性は高いと思う」

 木井は青木と高代に向け、睨むように目を見て言った。誰の意見も出ないよう、早口で言いきってしまうことで自分を守っているように見えた。

 青木は全員を見回して言った。それが、木井にとって逃げ道になる気がした。

「どうする、殺す? 殺さない?」

 誰も何も答えなかった。唯一シャンパーニュと目が合い、何か言いかけた気がしたが小さく首を振っただけだった。青木がもう一つ問いかける。

「殺さなくてもいい方法があるかもしれない」

 静かに青木の元へ視線が集まった。青木は自嘲気味に笑い、そんなにまともなアイデアじゃないが、と断りを入れた。

 木井が苦しみ抜き、自分の限界を察した上で挙げただろう提案。そこに、局面を打開するヒントを見つけた。

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