7日目 二十

「同情した人間と、された人間です」

 自分と川端の関係を説明する一番の言葉はなんだろう。青木から電話を受けこの席に着くまでの間、真摯に考えてこの表現を選んだ。至って適切だと思っていたが、誰からも目ぼしい反応がないことで気が付いた。どうやらまた説明が足りなかったらしい。那菜は説明を加えることにした。

「私と川端さんの関係のことです」

 青木と、確か高代と名乗った金髪の陽気そうな男が反応を示したことで安堵する。那菜は言葉が足りない、とは昔からよく言われていた。親や友人が言っていたことは正しかったのだと、実感を伴ってきたのは大学を出て数年経った最近のことだ。

「悪いがもう少し、分かるように言ってくれないか」

 青木が首を捻りながら言う。そう来られた場合のために、説明はもう一つ用意してあった。ただ、こちらのパターンを使うのは気が引けた。どうやっても話が込み入ってくるのと、あの男の話題を出さなくてはならないからだ。

 ふう、と一つ息を吐き昆布茶を啜る。温かく優しい味に背中を押してもらい、観念した。話すしかない。

「私は、川端さんの相方さんが起こした事件の被害者、陽一の妹なんです」

「それって、念のため聞きますけど、例の話ですよね? ファンの人を殺そうとして失敗して捕まったっていう」

 麻子と名乗っていた気がする女の子の声を聞いたのは、最初に名乗ってもらって以来だ。フリルのついたブラウスに花柄のフレアスカートという女の子らしさ満載の出で立ちは、那菜の周りにあまりいない人種に見えた。青木の話では過去に川端と関りがあり、遺書入りの金庫の鍵を預かっていたという。

「そうなのか?」

 青木が確認を求めたのは那菜ではなく、麻子に対してだった。先に、坊主頭の男が表情も姿勢も崩さず言葉を並べる。

「僕らが調べたときには一般人に対する暴行事件という記事ばかりでした。相手がファンということや、殺意があったということは初耳です」

 テーブルの上で手を組み、まっすぐこちらを見てくる。不治の病を宣告する医師のようにも見えた。答えを待つ複数の視線を受けながら、那菜は麻子に向き直った。

「その話はどこで聞きましたか?」

「どこでって……よく覚えてないですけど多分マサく……川端さんから聞いたんだと思います」

「それはありえません」

 那菜は感情を表に出さないよう努めた。本当なら、鼻で笑ってやりたいような話だ。歌村拓がファンを殺そうとしたなどと、的外れなことを川端が言うはずがない。

「ありえないって言われても……だとしたらどこで聞いたんだろう」

「残念な話ですが、当時SNSなどではそうした書き込みを目にしたことがあります。それが現実とごちゃまぜになっているのでは?」

 つい責めた言い方になってしまう。当時、無責任な噂に憤っていた記憶が、また燻りそうになる。麻子が押し黙ったことで、少しだけ溜飲が下がった気がした。

「まず言っておかなくてはならないのは、事件の原因は私の兄にあるということです。私の兄が歌村さんを怒らせました。正確には、怒ったのは川端さんも同じだと思います。兄はうれたんずの二人に酷いことをしましたし、人としても最低で救いようがなくどうしようもないクズです。私とは、半分しか血が繋がっていないのがせめてもの救いです」

 言い始めたら息をつく間も惜しく、一気に吐き出してしまった。あの兄のことは、できるなら一秒だって思い浮かべたくない。本当はまだこき下ろし続けたいぐらいだが、目が合った青木が何か言いたそうな顔をしていたので止めた。

「どうかしましたかアオさん」

「いや、やっぱり後でいい。ひとまず続きを話してくれ」

 青木が手のひらを見せて先を促すので、気にせず続けることにした。

「私は当時、事件の裁判を傍聴していました。叶うことなら証人として兄がどれだけくだらない人間であり、恨みを買って当然であるかを証言したかったのですが。残念ながらお呼びがかかることはなく、私は歌村さんが無罪となることだけを願っていました。川端さんを見かけたのはそのときが初めてです」

 芸能人が起こした事件とは思えないほど、特別感の無い法廷だった。傍聴席は空席の方が多く、熱心にメモを取る記者や固唾をのんで見守るファンらしき姿があるわけでもない。端に固まって座っている数名は歌村の関係者なのか、その一帯だけが公判内で交わされるやりとり一つ一つを食い入るように見つめていた。それ以外は裁判の結果自体には興味のない野次馬か、よほどやる気のない芸能記者かのいずれかに思えた。

 唯一緊張感を漂わせている集団の中に川端の姿を見つけたとき、那菜は自分の目を疑った。川端は、自らの相方である歌村拓の公判中、遠目に見ても分かるほど頭を垂れて眠り込んでいた。那菜は思わずスマホで川端雅之という人物の顔を改めて調べたが、何度見比べても眠ってしまっている男と画面の中の川端雅之は同一人物だった。

「何度か公判中に姿を見かけて、気が付いたら私は川端さんが出演するライブを見に行っていました」

 その日も川端は傍聴席で眠っていた。開始からしばらくは首を振るなどの抵抗を見せるものの、十分もした頃には諦めたように口を開けて眠っていた。裁判の合間、那菜がスマホの画面で滑らせていた指は、気づけば川端雅之について調べていた。川端が出演予定のお笑いライブのスケジュールが並び、うち一つがその日の晩、裁判から数時間後に行われることに気づいた。人生の一大事に眠りこけている男が、舞台上でどんなパフォーマンスを見せるのか。那菜自身が、表現者として苦しんでいた時だからこそ無性に興味が湧いた。

「私はお笑いのライブというものを見るのは初めてだったんですが、なかなかに面白く愉快なものでした。テレビで見たことのあるような芸人さんは一人もいませんでしたが、皆さん面白くて驚きました。それで、ますます芸人さんというものに興味が湧いたんです」

「ますます?」

 青木が怪訝そうに眉を上げる。そうです、と那菜は頷き、忘れかけていた当時の自分の考えがより鮮明なっていくのを感じた。

「私は当時、自分の才能の限界を感じて悩んでいました。今でこそ生計が立つようになりましたが、あの頃は絵を描いては売れるのを待つという日々でしたから。毎日が雨を待つ砂漠の上のような生活でした」

「っていうことは、シャンパーニュは画家なのか?」

 そう尋ねる青木は呆れたような苦笑いを浮かべていた。相手を卑下するためではなく、この状況は自分の理解を超えていると、お手上げするような顔に思えた。

「当時は絵で食べていきたいと思っていましたが、今はそうではありません。今はお客さんの依頼を元にオーダーメイドの雑貨をデザインする仕事をしています」

「なんか素敵そうな仕事だね」

 高代の感想は雑ながら間違っていなかった。自身でも、なんだか素敵な仕事に辿り着けたと思っている。

「ありがとうございます。話を戻しますね」

 よろしく、と高代が目を細めて言った。

「川端さんに話しかけたのは、最初は同志を見つけたような気がしたからです。当時の私と同様かそれ以上に、川端さんはお客さんから理解を得られていないように見えました。舞台に上がった川端さんは、他の芸人さんが受けるような歓声にも似た笑い声を受けることはありませんでしたから」

 コンビで活動していた川端が、一人で舞台に立つ。それだけでままならない歯痒さが川端にはあっただろう。だが、川端が笑いを起こすことができなかった理由はそれだけではなかった。そう那菜が理解したのは、公演が終わって家路に向かう電車の中だった。

「私は正直、面白いと思ったんですが当時の客席は明らかに他の芸人さんとは違う空気感というか、独特のものがありました」

「問題を起こした人の相方だから、見る側も厳しい目になってしまう、ということでしょうか?」

 麻子が遠慮がちに、上目遣いで尋ねてきた。那菜は首を振って続ける。

「違うんです。なんというか、みんな川端さんの芸を見ている訳ではない感じがして。痛ましい事件のもう一人の被害者とも言える川端さんが、不慣れな一人コントをしている。その姿を見て、私たちは笑わないといけない、あの人を応援しなくちゃいけないって強要されているような感覚があったんだと思います。笑い声があったり、声援があったりもするんですけど、どれも心の底からではないような違和感がありました。違和感の正体に気づいたのは、ライブが終わってSNSの書き込みを見てからですけど」

 うれたんずの川端さんが一人でライブに出てた! 頑張ってたね川端さん! 川端さん、あんなことがあった後なのにライブに出るのすごい。

 そんな書き込みをいくつか見かけた。川端のコントの中身について触れているものはごく少数だ。あの時点で、川端雅之はお笑い芸人ではなくなったのかもしれない。客側は健気に逆境と戦う川端を求め、彼に笑いを届けてもらおうという見方はできなくなっていた。

「これは川端さんと話をするようになってしばらく経ってから聞いたことですが。川端さんは、どうして自分が応援されるのか分からないと言っていました。一人でやっているネタだって、元は歌村さんが作り二人でやっていたものを一人用に改変しただけだと。自分は何もしていない。だから、自分一人で舞台に立ったって面白いはずがないのに、お客さんが無理して笑っている、と」

「本人も気づいてたんだ。マサくんかわいそう」

 さっきは川端のことを苗字で呼び直した麻子が、今度はマサくんと呼んでいる。冷静でいるように見えて、心の中では複雑な思いと混乱があるのかもしれない。

 坊主頭の男と目が合う。口元に手を当て、考えを巡らせているらしい。

「川端さんからすれば、相方がしたこととはいえ被害者の妹さんから声をかけられたわけだ。相当驚いてたんじゃないですか? 人によっては後ろめたくて逃げ出してしまうかもしれない。でも、真面目そうな川端さんなら罪悪感の方が勝つんでしょうね」

 那菜は思い出していた。もう一度ライブを観覧した後、終電の時刻が近づいてくる駅前を、誰とも目が合わないよう俯いて歩いていた川端に声をかけたときのこと。

「まさしく、川端さんは罪悪感でいっぱいだったみたいです。私が名乗るなり、お詫びの言葉とともに去って行ってしまいましたから」

 正直に名乗ったことを後悔した。被害者の妹と知らなければ、立ち止まってくれただろうか。逃げ去ろうとする背中を引き止めたい一心で、場違いな疑問を投げかけた。他に何も思いつかなかった。

 裁判のとき、寝てますよね? どうしてですか?

 改札の向こうへ消えていこうとした背中が、一瞬振り返った。整わない息のまま、懸命に言葉を探しているのが見て分かった。

 申し訳ないです。

 ほとんど聞こえないような声で、辛うじて口の動きから読み取れた。進む足は止まらず、今度こそ川端は去った。那菜は悔やんだ。川端は那菜の問いかけを非難と受け取っただろう。そんなつもりじゃなかった。川端を傷つけようなどと、微塵も思っていなかった。

「私の言い方が悪かったんだと思います。それで、なんとか誤解を解きたくて二回目も話しかけました」

 裁判の判決が出た日、那菜は川端に再び声をかけた。殺意があったことを否認し続けた歌村側の主張が認められ、殺人未遂の適用こそ避けることができたものの、暴行事件として懲役二年の実刑判決が下されたあの日。後から思えば、那菜が川端と接触できる最後のチャンスでもあった。歌村が控訴をしなかったからだ。

 那菜は元よりその日が最後の機会だと分かっていた。二年という年月が裁判長の口から出たとき、大して面識もない川端を見て思ったのだ。彼はきっと、耐えられないだろうと。

 ぞろぞろと席を立つ人の列から離れ、座ったままの川端を見下ろして言った。

 私は、あなたも歌村さんのことも恨んでいません。

 顔を上げた川端は、まばらに生えた無精ひげのせいでみすぼらしく老いて見えた。

 駅で初めて会ったあの日、本当はこう聞きたかったんです。

 時間が止まったように目を開いたままの川端に向けて、あの日、自分が本当に言いたかった疑問を伝えた。

 裁判のとき、寝てますよね? どうしてですか? どうして、それでも裁判を聴きに来るんですか? あなたはきっとボロボロなのに。きっと誰よりも休息が必要なのに。

「二回目に話しかけて以降は、少しずつ相手をしてもらえるようになりました。川端さんの話を聞けば聞くほど、私は彼に報われてほしいと思うようになりました。つまり、同情していたんです」

 麻子をちらりと見た。目が合い、麻子は自分がなぜ注目されたのか気づいたようでハッと小さく口を開けた。那菜の想像通り、麻子にも似た感情に覚えがあったらしい。

「これが、私と川端さんの関係です」

 那菜は話の締めくくりとともに、冷めかけた昆布茶を啜った。さすがに話疲れた、というように顔を軽く手で仰ぎながら、本当は必死に息苦しさを追い払おうとしていた。

 川端が報われていないどころか生死も不明な一方で、あの兄は被害者としての立場を利用し、利益を得て暮らしている。那菜だけならまだしも、川端の人生までも食い物にしようとしている兄が許せず、喉の奥からせり上がってくるような嫌悪感があった。猛烈な苛立ちを帳消しにするべく、言葉にして吐き出した。

「川端さんの家に尋ねてきたという態度の悪い男が、私の兄であり事件の表向きの被害者、田上陽一です」

 意味が伝わらなかったのか、絶句しているのか、言葉が返ってくるまでに間があった。仰け反りそうになりながらも、この場を進める義務のように青木が口を開いた。

「どっちだ? 二人組だったぞあいつら」

「メッシュの方です」

 青木がジュースを口に含む。恐らく、肉親を前にして言っていい言葉を探している。

「確かにあいつはクズなのかもな」

 逡巡しながらもそう言葉にしてくれたことは、那菜にとって救いだった。

「クズかも、ではなくクズです。恐らく兄は、あの家のことを面白可笑しく取り上げて動画としてアップするつもりでしょう。ヘタをすれば、本でも書くつもりかもしれない」

 以前、青木が二人組が尋ねてきたと報告をくれたとき、すぐにピンときた。取材がどうのと言っていたあたり、那菜の予想は間違っていないだろう。あの男はうれたんず二人の未来を奪っただけでなく、残された者が生きる姿さえ嘲り、金に換えようとしている。

「その悪いお兄ちゃん、何者なの? マスコミ関係の人?」

 高代は、那菜が隠さず憎しみを表してもなお、変わらずのどかな調子だった。あるいは意図して、負の感情に巻き込まれることを避けているのかもしれない。

「兄は社会的にはフリーライターと名乗っています。実情は、ライターなどという高尚な仕事とはほど遠い存在です。あの事件があった当時、兄はろくに仕事もせず何をして生活しているのか知りたくもない状態でした。それが、あの事件の被害者になったことでそれをネタにしてお金を稼ぐようになったんです。ネット上でちょっとした話題の人になったことで気を大きくし、いつの間にか業界人だとか自称するようになって。芸能人もどきのような動画やブログの記事でお金を稼ぐようになっていったようです」

「途中で悪いんですが、ちょっといいですか」

 坊主頭の男が、言葉とは裏腹に悪びれる様子なく鋭い目を向けてきた。

「僕らは歌村さんが起こしてしまった事件について、ネットの書き込みはかなり調べたつもりです。その中に、今の話に該当するようなものが思い当たらなかったのですが」

 その言葉に、自然と頬が緩んだ。

「何よりです。兄は愚かなことに、アクセス数を稼ごうと段々と話に尾ひれを付け足していました。その結果、見かねたうれたんずの所属事務所から削除要請を受けていたようです。今残っていないということは、事務所の要望が通ったのでしょう」

 最近は、兄のフォロワー数は日ごとに減っていた。それを見るたび安堵し、兄の言動を批判する書き込みの中に削除要請に関する噂も見つけていた。そこに来ての、青木からの報告だった。取材と称し、メッシュを入れた男が川端の家に来ていると。収入に窮した兄が、川端の家を尋ねることで何かを企んでいるというのは容易に想像がついた。

「大体の話は分かった。あんたと兄貴と、川端さんの関係についてはな」

 青木が重く息を吐き、身を乗り出した。

「だがここまで聞いても分からないことがいくつかある。一番分からないのは、なんの目的であんたがあの家の片づけを依頼してきたかだ。二十万円だぞ。必要経費を入れて二十二万円だ。いくらなんでも、ただ片づけてやりたいとかそんな理由で払える金額じゃない。それも、家主だと嘘をついてまで」

「ああ、それならアオさん。答えは簡単ですよ」

 那菜は軽く笑い飛ばすように言いきった。本当は嘘をついていた。この感覚を言葉で伝えるのは困難な気がして、嘘の笑いでごまかしてしまいたかった。

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