7日目 十八

 オカミネビルは川端の家から車で四十分ほどの場所にあった。車から降りて見渡した周囲は、二車線の道路の端に駐車しておくのは憚られる程度の交通量がある。近くの駐車場を探し、数分歩いて改めてビルの前に立つ。

 黒っぽい外観は、何気なく歩く通行人には潰れかけの零細企業が入っていそうな暗いビル、程度の存在感しか感じさせないだろう。だが青木たちにはただの薄汚れたビルではなく、にじり寄ってくる悲壮感のようなものが蠢いているように感じられた。先頭に立つ青木が力をこめると、重いガラスの押し扉はあっさりと開いてしまった。中はカルチャーセンターや貸事務所などが入っていたらしく、廊下からも各部屋の中が見える造りになっている。緊張感からゆっくり進んでいたが、目的のフロアはすぐに辿り着いた。川端の遺書に書かれていた、オカミネビルの三階。青木は改めて遺書の文面を思い出した。

『うれたんずが生まれた、オカミネビルの三階で自分の人生の幕を閉じたいと思います』

 当時、うれたんずはカルチャーセンターでお笑いを学んだりしたのだろうか。青木はそんなことを考え、差し迫っている可能性を頭から追い払おうとした。まだ警察も来ていない様子である以上、自分たちは遺体の発見者になりに来ているようなものだ。迎える光景に耐えられるのか。冷静になるほど無理な話に思えてしまう。青木は遺体などあるはずがない、と自分に言い聞かせて進み続けた。そして、着いてしまった。あっさりと、狭い三階の中を廻り終えてしまったのだ。途中、放置されたパーテーションの裏側や何かの受付らしきカウンターの奥なども見て廻ったが何もなかった。念のため他の階も歩き、とうとう十階すべてを探し終えても遺体はおろか、川端が来たらしい痕跡も見つからなかった。


 ビルから駐車場の車まで歩く間、ぽつり、ぽつりと考えを口にし合ったりもした。言葉は変わっても意味するところは同じだったように思う。遺体が無かったことへの安堵感と、川端の現在を知る手がかりが途絶えたことへの無力感が駄々漏れるばかりだ。

 車内に戻ってからは無言だった。ビルへ向かう車内も無言だったが、状況は同じでもそれぞれの心境はまるで異なっている。

 助手席に体を預けていた青木は、耐えきれなくなってリクライニングのレバーを引いた。一気にシートが倒れ、悪い、と後ろの高代に詫びる。いいよー、と大らかで味気のない返事があった。高代の隣の麻子も、運転席の木井も、何も喋らない。連日の清掃による肉体的な疲れと移動の疲れ、そして徒労に終わったオカミネビルでの探索の疲れが車内に充満している。文句も言わず健気に運転を続けてくれる木井だけが背筋を伸ばし続けていた。

 青木は目を閉じ、腕を組んで寝たふりをすることにした。本当は寝られるはずもないと思っていたが、予想に反してまどろみ始めていた。川端の遺体と対面せずに済んだことが、全身から気を抜けさせたのかもしれない。

「そういえば、うれたんずがコントしてる動画を見つけたよー。一本だけなんだけど」

 後部座席から高代の声がする。それは始め、前の席の二人にも向けられたものだったのだろうが、青木も木井も返事をしなかった。青木が無視してしまったような居心地の悪さを感じたところで、ようやく木井が答えた。

「あ、ああ、そうなの?」

 木井が返事をしたことで、青木は再び安心して眠りへ気を向けた。木井は木井で、よほど運転か考えごとに集中していたのか驚いた様子だった。

「今見れる? 私、マサくんがお笑い芸人やってるところ見たことない。見てみたいな」

 麻子の声は、微かに明るくなっていた気がした。車内で会話が始まったことで、青木はより眠りへと傾く。遠くから聞こえてくる二人の会話と、高代が流しているらしいコント動画の中のうれたんずの声。客の笑い声も入っており、反応は上々らしい。ん、と微かに疑問に思う。ほとんど内容の聞き取れない後部座席の動画から、一瞬だけ知っているフレーズが聞こえた気がした。実はテレビでうれたんずを見たことがあったのだろうか。だとしたら、もっとよく見ておけばよかった。そう思いながらも不思議と、今そこにいる動画の中のうれたんずを見る気はしなかった。

 肩にシートベルトが食い込み、頭がぐらついて目が覚めた。ごめん、と木井がハンドルから小さく手を離して詫びたのが見えた。前の車と近くなりすぎ、強めのブレーキになったらしい。といっても大きく揺れたわけではないようで、後ろの二人は会話を続けていた。

「面白いんだね、うれたんずって。笑っちゃった」

「でしょ。テレビまで出てたのに。もったいないなー。もったいないオバケが出る」

 言葉にしてはいないものの。二人が言いたいことは分かる。あの事件さえなければ。二人の会話には常にその意図が隠れているように感じられた。悔やめば悔やむほど、自分たちは知りもしなかった過去の話であり、当時何かできただろうことも、今からできることもないという事実が浮彫になる。青木は耳を塞ぐため、再び眠ってしまうことにした。


「警察だ」

 木井の呟きに、青木は眠り込んでいたのが嘘のように目を見開いた。川端の家の庭先には二人の警察官の姿があり、青木たちの車は旋回してパトカーの隣に停まるところだった。

「やっと来たか」

 目を覚まそうと頭を振り、ふらつく体のまま助手席から這い出た。

「どんな感じですか?」

 車から降りた青木は、近くにいた若い女性の警官に尋ねた。

「恐れ入りますがあなたたちは? ここの住民の方と知り合いですか?」

 平日の昼間の成人男女四人という並びはそれなりに怪しい集団のような気もするが、警官は一般的な確認事項として尋ねているようだった。

「えっと、住民の知り合いというか、家主の方から清掃依頼を受けてここに来ています」

「家主さんですか?」

「はい、そうです」

 警官が首を傾げ、背後を気にした。先輩らしき男性の警官がおり、何かを確認するべきか考えているようだった。

「念のためですが、家主さんのお名前を言ってもらってもいいですか?」

 返答に窮したことで、不穏な空気が流れた。青木は雇い主の本名を知らない。だがそれを言えばますます不審に思われる可能性も高い。警官が今にも振り向いて先輩を呼び出しそうな気がした。その前に疑いを晴らすため、知っている情報を伝えることにした。

「ここの住民、川端雅之さんですよね。元お笑い芸人で、遺書を残していた。それで、遺書が見つかったことと川端雅之さんが行方不明ということで通報があって警察の方が来てくれたんですよね」

「ええ、そうです。おっしゃる通り、匿名の女性から通報があって来まして。家の中を調べさせてもらっています」

 どこか腑に落ちない反応だった。青木の話に誤りは無いはずなのに、何かを思案しているような。家主の名前を言えなかったことを懸念されているのかもしれない。青木は警官に見つめられ、目を逸らすとさらに疑われそうな気がしたので見返していた。その警官の目から、スイッチが切り替わるように緊張の色が抜けた。

「すみません、言葉の行き違いがありましたかね。つまりその、家主さんというか住民というか、とにかく川端さんから依頼を受けてあなた方は来られているということですね」

 再びなんと言っていいのか分からなくなる。木井も高代も麻子も、不安そうに青木の顔を見るばかりだ。ようやく高代が

「どういう意味?」

 と話に加わってきたが、青木にも答えようがない。

「あの、まさかとは思いますが」

 今度は木井が警官に話しかけた。はい? と木井を見る警官からは、先ほどまでのような疑いの目はなくなっている。

「この家の所有者は川端雅之さん、ということですか?」

 勘弁してくれ、と心の声が出そうだった。突拍子もないことを言って、あらぬ疑いをかけられたらどうするんだと問い詰めたくなる。案の定、警官の表情が微かに曇った。だがそれは青木の予想とは違った意味だった。

「何かそれでおかしなことがありますか? あなた方、川端さんから依頼を受けてこちらに来ていたんですよね?」

 青木はせり上がってくる声を抑えるのに必死だった。そんな馬鹿な、そんなはずはない。警官に縋り付きたかった。心拍数が上がり、耳が直接鼓動を打っている気がする。

「川端さんのことについて、いくつかお尋ねしたいことがあります。よろしいですか?」

 淡々とした警官の声だけが、機能を停止した頭の中で廻り続けている。

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