7日目 十七

 ゴミハウスの清掃を始めてから七日目。当初立てた目標は一週間での完遂、つまり今日がその最終日だ。それはもちろん青木にも、高代にも木井にも分かっていることだった。だが、集まった三人の手は目標達成に向かって動いてはいない。何のために行動を続けているのか、自我を失いかけたゾンビみたいな頭になっているのは青木だけではないはずだ。当然効率は悪く、ゴミは減らず、どう見ても今日片づけ終えられる気配はない。

 昨日の夜、青木はシャンパーニュに改めて電話をかけた。遺書があったと聞いたシャンパーニュは、いたって静かだった。感情を見せないまま、警察に連絡しておきます、と大家の勤めとして必要なことだけを答えた。それ以上言うこともなく切った電話は、これまでのやりとりの中で一番短く事務的なものだった。

「青木くん」

 呼ばれて我に返る。青木と高代は、少しだけ開きかけた押し入れの中と対峙しているところだった。一つずつ荷物を運び出していけばいいものを、闇雲に戸を開けようとしては途方に暮れるを繰り返す有様だ。青木同様高代も、バツが悪そうに木井の方へ向き直った。

「どうも捗らなくて。ちょっと話してもいいかな」

 窘められるのではと身構えていた青木は、虚ろに「ああ」と返した。高代も意外そうに木井を眺めている。青木はまだ大して汚れていない手を叩き、埃を払う振りをした。仕事は中断、の合図だ。

「俺こそ仕事を続けられる気分じゃないところだった。話してくれ」

 木井が控えめに頷く。

「なんだか、自分はずっと何を勉強してきたんだろうって疑問ばかり考えるようになってしまって。学校で勉強した心理学も、カウンセラーの先輩から教わったことも、僕は嘘ばかりだと思ってた」

「嘘?」

 生真面目な木井の口から出たとは思えない言葉だった。

「そう。例えば、基本的にカウンセラーっていうのはまず相手を受け入れることが第一。そして相手のことを、肯定も否定もしない。中立的に話を聞いていくからこそ、相談者は自分の本心を自分で見つけ出していくことにつながる。そう教えられるし、実際のカウンセリングもまずはそこから始まるんだよ」

「なるほどねえ」

 興味があるのかないのか、判別しにくい伸びた相づちを高代が打つ。今となっては分かるが、あれで本人は真剣だ。

「だけど、それも僕は嘘だと思ってた。なぜなら僕が担当した人のほとんどは、決してその方法で良い変化は起きなかったから。僕がひたすら聞き役に徹していても、一言も話さない子どもはずっと話さない。拒食症の女性は何も食べようとしない。適応障害と診断されて働けなくなった人はずっと働けない」

 一人ずつ、例を挙げては首を振っていた。相手の顔が思い浮かぶ直前、慌てて苦い記憶の蓋をしているような仕草に見えた。

「先輩たちは、それでいいっていうんだ。僕たちが目指すのは問題の解決じゃない。相談者が、自分の境遇を見つめて折り合いをつけるための相手役だって。先輩だけじゃない。どの教科書にも似たようなことが書いてある」

 木井が、それらの教えに納得していないのは固く強張った横顔が物語っていた。

「でも僕はずっとおかしいと思っていた。明らかに判断を誤っている彼らに、どうして誤りを正すように仕向けてはいけないのだろう。客観的に見て彼らにとっての正解が分かったら、伝えてやればいいのにと思っていた。聞き手に徹するなんていうのは、正しく導いてやれないことへの言い訳だって」 

 話し続ける木井を横目に、腕組みをして急に顔を伏せた高代がいた。顔を上げたときにはいつものにやけ顔だった。顔を下げた一瞬だけは、違う顔をしていたのかもしれない。まるで青木に悟られまいとしたかのように、高代が目を細めたまま割って入った。

「キーくんはさ、やっぱいい奴だよ。なんだかんだ言いながら、人を助ける仕事してんだもん。学校行き直してまでしてさ」

「ごめん、それは違う」 

 今度は木井が、誰にも目が合わないよう床を見つめて言った。否定はしたものの、次の言葉を探しているのか視線を落としたままだ。ようやく意を固めたように口を結んだ。

「僕、別に誰かを助けようと思ってカウンセラーの勉強を始めたわけじゃない。ただ、昔から人の気持ちを考えなさいって言われ続けてきた。でもいくら考えても分からなくて。だから知りたくて心理学の勉強をしようと思ったんだ」

 だから、助けたいなんて思ってない。絞り出すような声のまま木井は続けた。

「言ったでしょ? 向いてないんだよ。学生のときだって、思っていることをそのままレポートに書いたら留年しかけた。それからは教科書や先生が言うままに答えを書くようにしたから試験は通ったけど」

 微かに苦笑し、すぐにまた顔を強張らせる。もっと落ち込むべきだと、自分に鞭打つ姿に見える。

「だからって僕は僕のままだ。結局昔も今も、ずっと人の気持ちは分からない。お笑い芸人なんて仕事を選んだ本人が悪いし、楽して生きていこうとしたリスクが返ってきただけだって、どこかでそう思ってた。本当は、自殺のリスクがある状態だって気づいていたのに。実際に遺書を目にするまで川端さんのことをちゃんと想像できなかった自分に、なんだかつくづく幻滅してしまって」

「それなら俺もだ」

 身を固くし、じっと木井の想いを聞いていた青木はようやく声を絞り出すことができた。

「この仕事を受けたときから、ここをゴミ屋敷にした奴はどうしようもないクズだと決めつけていた」

 シャンパーニュに窘められた日のことが蘇る。安易に川端を否定するのが不愉快だと、ありのままをぶつけられた。

「まあ、本当にクズなだけかもしれないけどねー」

 先に青木たちが言っていたとはいえ、クズという強い非難の言葉を使うのは高代にしては珍しい気がする。自然と高代に目が向く。

「いや、だってさー。結局のところ会ったことないしね。お笑い芸人でゴミ屋敷でいい奴かもしれないし、お笑い芸人でゴミ屋敷でクズかもしれないじゃん」

「確かにな」

 率直すぎる言い方に呆れながらも、青木も木井も顔には笑みが混じっていた。最後に高代もあははと能天気に笑い出し、青木は少しだけ心が軽くなった気がした。

 不意打ちのように鳴る金属音。何回目かにして聞き慣れてきた、この家のチャイムの音だ。頭の中を、考えうる来訪者の候補が巡る。残念ながら最初に浮かんだのは、一昨日来たメッシュ野郎だ。青木は何でもないような顔で立ち上がり、玄関へと向かった。後から二人が付いてくる。一人でいいと言おうかと思ったが、胸騒ぎが青木の口を噤ませた。

 玄関に迎え出て引き戸を開ける。途端に、開けなければよかったと後悔する。嫌な予感の通り、二日前と同じ厚かましさと無礼しかない二人がそこにいた。

「こんにちはっす」

 前回と同じくメッシュ男が前に陣取り、引き戸の隙間に体を滑りこませてもたれかかった。後ろの男は、これまた前回と同じ派手な赤地に黄色いラインのバンダナをしている。

「なんの用でしょう」

 できるだけ感情を殺して答えた。内心では、もたれかかっているメッシュ男を無視して戸を閉めようか考えていた。

「用ね。大した用じゃないんだけど。あんたらにクレームをつけに来たってとこかな」

「どういうことでしょうか」

「あんたら、嘘ついたでしょ」

「嘘?」

 思わず唾を飲みそうになり、ぐっと堪える。前回、清掃業者を装ったことを嘘と指摘されればそうかもしれない。それでも、清掃を依頼されてきていることは事実だ。後ろめたいことなどない、と青木は自分に言い聞かせた。

「そうだよ。管理人に許可をもらったって言ってただろ。俺らすっかり騙されたよ」

 眉を顰めることしかできなかった。どういう意味だろうか。管理人に許可をとっていることに偽りはない。答えに窮した青木を見て、メッシュ男は愉快で堪らないといった様子で手を叩いて笑い始めた。引き戸の古いガラスが一緒になってガタガタ音を立てる。

「なるほど、こりゃいいな」

 メッシュ男が馬鹿笑いをしている隙に、青木は後ろを振り返った。木井も高代も、怪訝そうに成り行きを見守っている。誰も、この男の言動の意味が理解できないようだった。

「あんたら、やっぱこの仕事辞めた方がいいっすよ。いくらもらえるって言われてるのか知らないけどさあ。相当ヤバいよ、あんたらの雇い主」

 シャンパーニュがヤバい雇い主。それは青木にも異論ないところだったが、メッシュ男が指すのは青木の考えとは全く違う意味合いを帯びているようだった。もっと邪悪で、意地の悪い何かを匂わせている。

「まあいいや、俺ら本当にクレームつけに来ただけなんでね。もう帰るよ。せいぜい頑張って下さいな」

 さんざん嘲笑した挙句、自己解決で去ろうとする。青木は男を帰していいものか迷ったが、何を問いかけていいかも分からなかった。モヤモヤした疑念だけが広がり、何を疑えばいいのかも見当がつかない。

「あー、ちょっと待って」

 踵を返そうとした二人を呼び止めたのは、高代だった。その目はメッシュ男に向けられてはいなかった。その先、お供みたいに立っているバンダナ男を見ている。バンダナ男も視線に気づき、強張る顔は祈りを込めているようにも見えた。余計なことを俺に言うな、そんな声が聞こえてきそうだ。それは間違いなく、メッシュ男の顔色を窺ってのことだ。

「きみもー、頑張れマン三世!」

 何が起きたのか誰にも分からない。あんなにガタガタ揺れていた引き戸さえ鳴らず、静寂なのに耳を圧迫してくるような、矛盾した騒がしさを覚えた。バンダナ男が微かに、口をパクパク開け閉めした気がした。戸惑いがそのまま出たような動きは声にならず、誰の耳にも届かない。微塵も動じる様子なく高代が口を開く。

「いやーなんか応援したくなっちゃってさー、嫌なボスの下は大変だろうなーと思って」

 嫌なボス、と称されたメッシュ男が僅かに頬を引き攣らせた気がしたが、すぐに余裕を漂わせた笑みに変わった。

「何勘違いしてるのか知らないけど。俺らはただの同僚だから。ボスって、センスが昭和なんだよ」

 鼻で笑い、まともに取り合おうとしていない。青木にはむしろ助かったと思えた。食ってかかってこられるようでは面倒事が増える一方だ。

「じゃあ、せいぜい無駄なお仕事頑張って下さーい」

 無防備に振り向き、手を振りながら去っていく。今度こそ呼び止める声はなく、青木たちだけの玄関に静寂が残された。

「何考えてんだよ」

 青木は高代に抗議の意を込めて言った。

「つい応援したくなっちゃったんだよ。ごめんごめん。あれがこの間来たっていう、感じの悪いやつら?」

 そうだ、と答えて青木は息を吐いた。感じが悪いと説明したか定かでないが、誰もが納得できる表現だ。

「ねえ」

 控えめに切り出したのは木井だった。

「さっきのってどういう意味かな。雇い主のことをヤバい奴だって言ってた」

 ああ、と虚ろに返す。シャンパーニュと直接やり取りしている青木はまだしも、二人は不安になって当然だろう。だが青木としては取るに足らないことに思えた。シャンパーニュに対する疑念より遥かに、メッシュ男たちへの不快感が勝り頭から離れないでいる。

「適当言ってるんだろう。俺らが雇い主から騙されるリスクがあるとしたら、報酬の未払いぐらいだろうけどシャン……大家はこの家がある以上逃げられないんだから」

 言葉にしたことでより確信をもつことができた。やはり、自分たちが騙されているなどありえない。木井と高代も、口々にそれもそうか、など納得の声を漏らした。

 三人は同時に耳を研ぎ澄ませた。今度はあの金属音が鳴る前に来訪者の存在が分かった。閉められたばかりの引き戸に向かって、足音が近づいてくる。すりガラスの向こうのシルエットで予測がついた。小柄で、ふわりとしたスカートのラインから伸びる華奢な足元。少し大げさなぐらい、女子らしさを強調したスタイル。麻子が訪ねて来たのだと分かった。


 昨日の続きのごとくリビングに四人、ウレタンマットの上に座った。四人が昨日と同じ場所に着くと、だんだんマットがそれぞれの席のようにも思えてくる。いつの間にか高代が持ち込んだというペットボトルのお茶と紙コップが、四人の前に注ぎ並べられていく。

「これだけ片付けば座って休憩もできると思ってさー、用意してよかった」

 客人である麻子に最後に注ぐあたり、世間的なもてなしとはズレているのかもしれないが、高代の意外なマメさを見た気がした。ありがとう、と会釈とともに麻子が受け取り、高代も座ったところで彼女は切り出した。

「一晩考えたの」

 言うべきことは決まっているのに、本当に言っていいものか迷う。そんな気配が麻子から感じられた。

「あの手紙に書かれた場所に、行ってみるべきだと思う」

 スカートの上に置かれた小さな拳が、ギュッと固く握られている。

「それって、あの遺書に書かれたビルのことですよね?」

 敢えて濁しただろう手紙という言葉を、木井が遺書と明言する。木井が普段、相談相手にも同様の接し方をしている気がして、青木は自分まで息苦しくなるのを感じていた。多分、木井は正しすぎる。

「そう、オカミネビルっていう所。私、マサくんが私に何をして欲しかったんだろうって考えた。正直、本当はよく分かってないんだけど。でも、あんなに大切な鍵を託されてる以上は何かやらないといけない気がして」

「だからって、行ってどうするんだ? 警察があの手紙を見ればオカミネビルを調べるだろう。俺らが行ってどうこうなるものじゃないと思うが」

 警察が調べる光景が思い浮かぶ。廃ビルの中、懐中電灯の光を頼りに歩く警官の視線の先に、首を吊った男の死体。青木は強く目を閉じ、無理やり嫌な想像を追い払った。

「それは、そうかもしれないけど」

「レンちゃん、気持ちは分かるけど俺もアオちゃんと同意見かなー」

 反対意見が増えたことで、麻子の細い肩がより一層絞られて見えた。これで諦めるだろう、という青木の予想はすぐに覆された。

「マサくん、生まれ変われるなら猫になりたいって言ってたの」

 何の話だ? という疑問が浮かぶとともに、麻子に引く意思が無いことが伝わってくる。

「自分は誰かと一緒が合わないからって。猫になって、一人気ままに生きていくのが自分に合ってる気がするって言ってたの。それと、そんな風に思う自分は、人間として生まれて来た価値が無いって」

 重い言葉に、聞く三人の誰もが口を挟むことを憚られた。私はそんなことないって、それだけしか言えなくて、と麻子の自白のような張り詰めた声だけが響いていた。

「でもマサくん、連絡が来なくなるちょっと前に言ってたの。最近ゴミを持って帰ってしまうって。それに、家のゴミも捨てられないんだって。頭ではいらないって分かってるのに、なんだかゴミがかわいそうで、助けたくなっちゃうんだって、そう言ってた」

 ゴミがかわいそう。俄かには信じがたい心境だ。このゴミハウスは、かわいそうな子たちを集めた結果だというのだろうか。

「やはり、ため込み症か」

 木井の呟きは、誰の返答も求めてはいないらしい。青木にはその結論を一人で口走ることが、どうにも自分勝手なことに思えて仕方がなかった。 

「それで、昨日の夜ずっと考えてやっと、ちょっとだけ分かった気がしたの。マサくんは本当は助けを求めてたんじゃないかって。本当は助けてほしかったのはマサくん自身なのに、誰にも言えずに苦しんでたんじゃないかって。だから、きっとあの鍵を私に託したのは、本当は一人で死にたくなんかないって意味なんじゃないかって思ったの。きっとマサくん、ずっと誰かに見つけてほしかったんだよ」

 一気に想いを溢れさせた反動からか、麻子の口元が小刻みに震えているのが分かった。震える唇から、か細く縋るような音が鳴っている気がする。

「お願い、私と一緒にあのビルに行って。私一人じゃ、怖くて行けそうにない」

「その心配はないですよ」

 木井の声。なぜか、そこに迷いがないことが不快だった。遅れて気づく。青木は迷ったからだ。麻子の訴えを聞いて、少なからずどうするべきか悩んだ。それが木井にはない。

「あなたが川端さんのことを心配する気持ちは分かります。でも、彼はかなりの確率でためこみ症という疾患に陥っていたと考えられます。ためこみ症の人が物を溜めるのは単に症状であって、そこにあなたの思うような意図はありません」

 まるで迷いのない答え。麻子の意思が入る隙間はどこにもない、診断書のような答えだ。気づいたときには青木は口走っていた。

「そんなこと決めつけんなよ」

 思っていたより語気が荒くなり、自分でも戸惑う。木井が痙攣するような不格好な瞬きをしたが、気づかない振りをして青木は続けた。

「自分で言ってただろ。お笑い芸人でゴミ屋敷の主だからって、川端のことを決めつけで見ていたって。だったらこれも同じことだろう。川端には何か考えがあったのかもしれない。何も考えずに物を溜めていただけなんて、言い切れないんじゃないか」

 ほとんど意地だ。ただただ、木井の言い分のまま通すのは違う気がした。 

「ちょっと待ってよ。僕はこの人を安心させようと思って」

「でも本当のところは、行ってみたら何か分かるかもしれない」

「お、アオちゃん手のひら返し? 意外な展開だね」

 でも意外なことは好きだよ、面白いから。と続ける高代はこの選択の場さえ楽しんでいるように見えた。こいつは本気で、面白いかどうかで日々を選択してきた生き方なんだと場違いな感想をもった。三人が短い主張を終え、判決を求める視線が麻子へと向けられた。彼女が口を開きかけたとき、木井が呟いた。

「行っても辛い思いをするだけだと思いますよ」

 それは、彼女がどう答えるか悟った上での言葉なのだろう。

「それでも行ってみたい。怖いけど、行って確かめたい」

 木井が力なく息を吐き、とるべき行動が決まった。

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