6日目 十六
青木は気づいていなかったが、宮城麻子という客人を迎えるにあたって、木井がリビングを本当にリビングとして扱えるように準備していた。ほうきで掃き掃除をし、ここに座れと言っているかのように畳の上に四枚のウレタンマットが並べられている。座布団代わりのウレタンマットの上、四人が腰を下ろすと不思議と茶会でも始まりそうな錯覚を覚える。だが互いの足元に目を向ければ、それぞれの背中側にウレタンマットが余分に伸びている。間の抜けた構図が、本来あるだろう緊張感を吹き飛ばしてくれているとも思えた。
宮城麻子は迎え入れられるままにマットの意図を察し、素直に手前のマットに座りこんだ。正座からすぐに両足を崩し、ぺたりと床に腿を着ける恰好で青木たち三人を見上げた。
「すげー汚かった所だけど、俺ら何日もいても生きてるからさ。そこは安心していーよ」
と高代が冗談めいて声をかける。幸い、麻子は微かに表情を崩して頷いた。
「汚かった頃のことは知ってる。私、絶対にこの家には入れないって思ったもん。ここまで綺麗にできるんだ、すごいね」
そう言って部屋の隅々を見渡す麻子は、裏表なくただ感心しているように見えた。その姿が、青木がこれまでのやり取りの中で描いていた麻子の印象のどれとも合わず、すぐに本題に入ることを躊躇わさせた。
「ここに入ったのは初めてということですか?」
「うん、そういうことになるね。入ったことはないの」
木井と話す姿に、青木は麻子の印象が変わった要因に気づく。口調とともに、声も変わっている。前はもっと、わざとらしいほどに聞く耳をくすぐるような撫で声をしていた。
「でも、家の外までは何度も来てるよ」
今は、明確に方針転換したような、これまでと違う話し方をしている。抑揚を控えたその話し方こそが、麻子の本来の姿なのだろう。
「何度もって、川端に会いにか?」
聞きながら無意味な質問だと思った。他にゴミハウスを訪れる理由があるはずもない。だから、麻子が当然のように首を横に振ったのには驚かされた。
「ううん。マサくんとここで会ったのは一回だけ。それも、家を教えてもらうために来たときだけ。私は、マサくんに頼まれて来てたの」
「頼まれた? 何を?」
「これ、おこわさんの餌」
彼女がバッグから取り出して見せたのは、爬虫類用のフードだった。青木はそんなものが世の中に存在することを知らなかったが、手のひらサイズの菓子袋のようなパッケージに『爬虫類の主食』と書いてあるのだからそうなのだろう。そして、何種類か載っているトカゲの写真のうちの一つに見覚えがあった。
「トカゲザウルスじゃん!」
真っ先に高代が目を見開く。今も台所の流しの中に収まっているはずの、ツチノコみたいな仏頂面と同じ顔がパッケージの中にいた。
「ということは、あんたが糞を片づけたりしてたのか」
流し台でトカゲを見つけたときのこと、その晩のシャンパーニュとの会話。トカゲの世話をしている人間がいるのかもしれない、と話しシャンパーニュはその相手と会ってみたいと言っていた。あの日のことが怒涛のように青木の頭の中で蘇っていた。
「そうそう、水と餌やり、それとあの流しの中の掃除を頼まれてたから。一週間に一回は来てたよ。あの日もそうだった。いつもみたいに、おこさわんの世話をしようと思って来たら、家の中から人の気配がするからびっくりして。マサくんでも無さそうだし、確かめるために間違えたふりをして様子を探ったの」
あの日、は麻子が初めて青木たちと遭遇した日のこと。おこわさん、は恐らくあのトカゲの名前。麻子の話を、青木は頭の中で確かめながら聞いていた。
「でもさー、じゃあレンちゃんまた嘘ついてることになるよ。この家に今日初めて入ったってさっき言ったじゃん。でもトカゲザウルスの世話で家に入ってるってことでしょ」
「え、あ、レンちゃんって私のことだね。それはねチャラ男さん。あの流し台は、窓から手が届くの。外から、踏み台を使って手を伸ばせば家に入らずに世話はできちゃう。だから私が家に入ってないのは本当」
「なにそれ、パチンコ屋の景品交換所みたいだ。発想がぶっ飛んでていいね」
互いに適当に呼び合う二人のやり取りが、異国の文化を見ているように思える。
「えっと、なんの話だったっけ」
青木に向けて、麻子が薄い笑みを浮かべ助けを求める。危うく青木も話の行方を見失うところだった。
「一旦話を戻そう。あんた、結局川端とはどういう関係なんだ? ただの常連客なら、本人がいなくなった後までトカゲの世話をする義理なんてないだろ」
「そう? でも私たち、マサくんから指名をもらう以外で会ったことないよ。それってなんていう関係?」
「それは」
常連客とお相手役、という関係に他ならない。青木はどう答えるべきか言い淀んだ。麻子は高く離れた天井あたりを曖昧に見つめ、青木の動揺を楽しんでいるようにさえ見えた。
「私、鍵を預かったの」
「鍵?」
まさか、と一つの箱を思い浮かべたのは青木だけではないだろう。それでも誰も尋ねなかった。あまりにも、それを預ける相手としてはそぐわない気がしたからだ。
だが、預かった鍵とやらが三人の前に出された途端、まさかは一気に現実的な可能性に変わった。麻子が摘まんで揺らす小さな鍵は、大きさといい形といい青木たちが思い浮かべた姿そのままだった。とうとう青木が口にする。
「それ、もしかして金庫の鍵か?」
なぜか勝ち誇ったように麻子が口の端を吊り上げた。
「そう。よく分かったね。もしかして探してた?」
「すげーじゃん、宝箱の鍵だ!」
高代は興奮を隠さず、弾けるように廊下へと飛び出していった。戻ってきたその手には、何日か前に高代が見つけた金庫があった。やはり今見ても金庫と呼ぶには重厚感がなく、鍵穴が無ければドライバーなどを入れるツールボックスだと言われても疑いはしない。
「ちょっと待て」
青木は慌てて制した。ウレタンマットの上に戻った高代は、今にも鍵を受け取ろうと手を伸ばしたところだった。
「川端はなんて言ってあんたに預けたんだ?」
「なんてって、なんだっけ。たしか、何かあったときのために預かっててほしいって」
「何かってなんだ」
「分かんないよ。でもマサくん、いなくなっちゃってるんでしょ? それこそマサくんに何かあったんじゃないかって思って。昨日だって本当は鍵の話をしようか迷ったんだよ。でもなんていうか、彼氏さんから聞いた話を他の人にするなんて本当はありえないから。私たち、彼氏さんの話を他に漏らさないっていうのは会社からかなりキツく言われるの。だからどうしようって思ったけど、どうするか決める前に呼び出されちゃったから。私だってマサくんが心配だし、それで鍵を持ってきたの」
宮城麻子は誰かが話に割り込むのを恐れているような早口で語った。
不思議な関係だと思う。あくまで一人の客だと言いながらも、麻子は川端の身を案じ、川端は金庫の鍵まで預けている。二人の関係に納得したいが、これまでの情報では理解できそうにない世界だった。
「ひとまず、中身を見てから考えよう」
そう切り出したのは、黙って成り行きを見つめていた木井だった。
「みんなで中身を確認しよう。それでいろいろ、分かることがあるかもしれない」
「いろいろ、か」
青木が声を漏らす。確かに、分からないことが多すぎてそう形容するしかない気がした。どういう代物が出てくるにしろ、金庫の中身は川端がこのゴミだらけの家の中で人の手を使ってでも守りたかったものだ。ことが起こる予感は少しずつ四人に伝播し、身動きさえ取りづらくさせた。
「これ、川端から預かったのはいつだ?」
中身の意味する重大さを感じるからこそ、青木は開封を先送りにする。
「三か月ぐらい前かな。この家のことを教えられて、そのときに渡されたの」
静かに麻子は答えた。他に今聞くべきことも思いつかず、青木は観念した。誰と目を合わせることもなく俯いた。
「開けよう」
麻子が頷き、鍵を渡そうとしてくるので青木は首を振った。
「あんたに預けられたものだ。あんたが開けた方がいい」
鍵を差し出したままその手は止まり、身を固くする気配とともに頷いた。
「大丈夫、だよね?」
何を恐れての確認なのか、分からないまま空気だけが張り詰めていた。どんな類のものが出てくるかも分からないのに、勝手に悪い想像をしてしまう。
麻子の手で鍵が差し込まれると、金庫はカチャリと軽い音を立てて開いた。安っぽいバネ仕掛けで、蓋が勝手に跳ね上がり中身が露わになる。縦長の茶封筒の中に紙を折りたたんで詰め込んでいるらしく、円筒状に膨らんだ姿で入っていた。
一瞬麻子からの視線があり、青木は頷いた。麻子が封筒を手に取り中身を取り出す。
あ、と強張った顔のまま声が漏れる。幾重にも折りたたまれた白い紙を、青木たちの視線から隠すように手元に引き寄せてから広げる。
「手紙みたい」
自然と青木たちは目を逸らした。麻子へ宛てたであろう手紙を、彼女が読み終えるまで待つほかない。見まいとしても時々目に入る彼女の顔は、終始真顔で感情が読めなかった。
「どうぞ」
唐突に沈黙が破られ、青木は一瞬返事に詰まった。麻子は、遊び飽きたおもちゃに対して向けるような、つまらないものを見る目で手紙を差し出していた。
「読んでいいのか?」
「はい。誰に向けたものでもないみたいだし」
受け取った青木の肩越しに、高代と木井が手紙を覗きこんでくる。真っ白なコピー用紙らしい紙に、ボールペンで書かれた字が横書きで並んでいる。行もない白紙に書いたからだろう。字は大小整わず、右肩下がりになったりして一目には金庫に入れるような重要なメッセージが込められているものとは思えない。そしてそれは、麻子が読んでいた時間からすると意外なほど簡素で短かった。
『お世話になったみなさんへ。今までありがとうございました。
川端雅之として三十五年間。うれたんずとして十五年間。
やるだけやってきたつもりですが、そろそろ休んでもいいかなと思ってしまいました。
勝手ながら、うれたんずが生まれた、オカミネビルの三階で自分の人生の幕を閉じたい
と思います。
歌村のことを、どうか見捨てずよろしくお願いします。
歌村へ。どうか、元気で』
文末には、うれたんず川端雅之と署名が記されていた。体温が抜け落ちていくような感覚がする。これを書いた主は、もう生きてはいない。微かな輝きの賞状と、ネット上の書き込みと、麻子という妙な存在に縁取られた一人の人生は、青木たちの手の届かないところでとうに終わりを迎えていたと。人の命に見合わない紙切れにそう告げられた。
「マサくんがいないって聞いてから、ちょっと疑ってたんだ。遺書でも入ってるんじゃないかって」
遺書、という言葉がより青木の呼吸を浅くさせた。まさか本当に入ってるなんて、と麻子は消え入るように呟いた。
「でもさー」
高代がいつもと変わらずあくびでも堪えていそうな抜けた声を上げる。前向きな発見をくれそうな期待と、空気を読まず場を台無しにしそうな不安が混ざる。
「死んだのかな本当に。案外、気が変わってどっかで元気にやってるかもよ」
すぐにその疑問に答える者はなかった。それぞれに、川端が生きている可能性につながる材料を探しただろう。だが、青木には川端が麻子と最後に会ってから三か月経っているという事実が重く感じられた。賃貸契約を残したまま、三か月間も家を離れるだろうか。ゴミ屋敷になって契約を解除するなどの手段がとれなかったにしてもだ。それで三か月もどこかで生きているとしたら、世捨て人になるつもりでもないと話しが成り立たない。だが一方で。三か月、という期間に違和感もあった。
「もしこの手紙通りに実行したなら、ビルで死んだことになるよな。だったらとっくに、死体が見つかってニュースにでもなってないとおかしくないか」
青木が言うとほぼ同時に、木井がスマホに何やら打ち込んでいた。画面に出たらしき答えを見て、木井は力なく眉を上げた。
「残念だけど、そうとも限らないかも。オカミネビルっていうところ、今は廃ビルになって封鎖されているらしいよ。どうにかしてそこに忍び込んでしまったとしたら、見つかってなくても不思議じゃない」
また沈黙。何も考えられず、バタッと人が倒れるような音が響いたところで我に返らされた。麻子が、ウレタンマットに尻もちをつくように身体を投げ出した音だった。
「とにかく、ここの大家に連絡してくる」
青木は立ち上がろうとした。連絡以上に、この場を離れたいの本音だった。
「なんで私だったんだろう」
自分に向けられた言葉ではないと分かりながらも、青木は足を止めた。ぼんやりと宙を仰ぐ麻子は、幽霊でも見たような実感のこもっていない顔をしていた。
「こんな大切なこと。私よりもっと他に相応しい人がいたはずじゃない」
青木は顔を伏せ、今度こそ部屋を出た。耳に残る麻子の声をかき消したくて、立ち止まらずシャンパーニュへの電話を発信した。初めてシャンパーニュは電話に出なかった。ただそれだけのことなのに、神も仏も、救いも無いと突き放されているような気がした。
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