4日目 十二

 シャンパーニュは毎回必ず電話に出る。

 青木が夕食を済ませ、シャンパーニュに電話をしようと決めたのは二十時を過ぎた頃だった。例に漏れずきっちりと電話に出たシャンパーニュを、青木は羨ましく思う。賃貸収入以外に職をもっているのかは知らないが、仕事に縛られずに生きているように見えた。同時に、今日の電話は青木にとってどうにも手が進まないものでもある。こちらの気など知らず、躊躇いなく電話に出ることができる身分も羨ましかった。

「もしもし、お疲れ様です。お掃除は順調ですか?」

 涼しい声が返ってくる。青木は木井の推測を聞いて以来、得体の知れない気の重さに参っていた。自分でも正体の掴めない、後ろ暗さのようなものが喉の奥を埋めている気がする。

「あの家の住人、川端雅之っていう名前だな」

 確かめてどうしたいのか、自分でも定かではない。

「ええ、そうです」

 短く、単純な答え。それ以上答えが無いことが、青木の気の重さをさらに増していく。

「相方が逮捕されて人生がめちゃくちゃになったらしいな」

「はい」

「川端がゴミを溜め始めたのはその事件がきっかけじゃないのか?」

「確かなことは分かりません。入居以来、私が家の中を見る機会はありませんでしたので。ただ」

「ただ?」

 スマホの向こうのシャンパーニュが、慎重に言葉を選んでいる気がした。青木が八つ当たり同然に忍ばせている感情を、すでに察しているのかもしれない。

「可能性はあるでしょう。それはもう、相当な出来事でしたから」

 その答えを聞き、青木は大きく息を吐いた。どういう答えであろうと、自分が納得できる返答ではないだろうと頭のどこかで分かっていた。

「なんで言わなかった? 言うチャンスはいくらでもあっただろう。あんた、俺をからかってるんじゃないのか」

 頭の中で、いつかのシャンパーニュの声がする。

『彼はそこまで極悪人ではなかった、と思っています』

『何も知らないわけでもありません』

 青木が、片づけもできないくせにギャンブルに興じるクソ野郎だと川端のことを批判していたときだ。だが現実は違ったのかもしれない。もし木井の推測が正しいとしたら、クソ野郎は相方であって川端もまた被害者と言っていい。あのとき、シャンパーニュが本当に川端のことを庇いたいなら事件の話をすることだってできたはずだ。説明をしなかったのは、的外れの罵倒を繰り返す青木を嘲笑っていたのではないかとすら思えた。

「アオさんがどう思われたか分かりませんが、私はからかうつもりなどありませんでしたし、今後もありません」

 オペレーターのような淀みない説明を、青木は黙って聞いていた。何も返事をしてやらないでいるのが、この場でできる精いっぱいの抗議になる気がする。

「アオさん」

 シャンパーニュの声は、安易に沈黙を埋めるためのものではなさそうだ。どうにかして青木に真意を伝えようと、訴えかけてくるものがあった。

「正直に言います。あのとき私がアオさんに川端さんの事情を説明しなかったのは、話しても理解してもらえないと思ったからです」

 耳につけているスマホと頬の間が、じっとりと湿っていく。

「あのときのアオさん、ちょっと怖かったですから。川端さんの事情を知っても、だからどうしたと言ってとりあってもらえないだろうと思いました」

 そんなことはない、と言い返すことはできなかった。あのとき説明を受けていたら、自分はどう思っただろう。今と変わらず、川端に起きた理不尽を嘆いただろうか。青木の自問の答えを待つことなく、シャンパーニュが続ける。

「もっとはっきり言うと、少し不愉快でした。川端さんのことをちょっと知ったぐらいで、全てを否定しようとするアオさんのことが」

 ああそうか、と納得する。のしかかるような後ろ暗さの正体。あのときシャンパーニュが感じたという不愉快さと同じものを、今自分自身にもっているのだ。あの部屋に飾られた賞状と、川端雅之という名とその柔和そうな顔、そして巡り合った災難を知っただけでもう川端を批判する気になれないでいる。ゴミ屋敷の主である売れない芸人と称したその男が、歴史をもった一人の人間であるということに気づいてすらいなかった。

「そういう意味では、アオさんは優しいのかもしれません」

 シャンパーニュの声は意図が分からないまま、青木の耳を通り過ぎていく。

「今となっては川端さんの身に起きた不幸を呪い、不満に思っているように感じますので」

 青木は自分の口が久しぶりに歪んだ笑みに変わっていくのを感じた。優しいという見当違いの慰めを、卑屈に笑う他なかった。

「もっとも、優しいといっても思っていたよりは、といったぐらいですが」

「あんた、何食って生きてたらそれだけよく口が減らないでいられるんだ」

 心底思ったがために、ようやく声が出せた。うーん、とシャンパーニュは悩ましく唸った後に答えた。

「餃子ですかね」

 ラーメンじゃないのか、と思うと少し笑えた。

 シャンパーニュとの電話を終えたその手で、青木はうれたんずについて改めて検索し直した。多くが事件後についての書き込みだが、遡っていけば数多のお笑い芸人の中の一組だった頃の二人について書かれたものにも辿り着けた。特にNGKお笑いグランプリに関しては、書き込みの履歴を追っているだけでもファンの盛り上がりがみてとれた。

『やっと面白さが認められた!』

『あんなに地味な見た目で二人とも面白いのヤバイ』

『うれたんずの時代がくる』

 中には十行以上にも渡って、うれたんずが如何に舞台で実力を磨いていったかを語っている熱心なファンもいた。業界での評価も高かったらしく、隠れた才能としてちょっとした神格化をされているような記事さえあった。

 それらの書き込みが希望に満ちたものであればあるほど、それを見る青木の目は険しくなっていった。このファンたちは、歌村拓が起こした事件をどう受け止めたのか。どこの誰とも分からない、一つ一つの書き込みの主に尋ねてみたい。歌村拓を恨んでいるのか? それとも、もう自分たちの日常からうれたんずという存在はすっかり消え失せたのか。

 川端雅之はどうなのだろう。彼は、歌村拓を許しただろうか。調べていくと、歌村逮捕直後の川端についての書き込みもいくつか見つけられた。それによれば、川端は一人でお笑いライブを中心に活動を続けていたらしい。だが長くは続かなかったようで、どのステージが最後であったかを知る者もいないまま、川端は芸能界から姿を消した。そして、あのゴミハウスからも失踪し行方が分からなくなっている。

 青木は昨夜と同じく、部屋のカーペットで寝転んでいた。ベッドに移動してしまえばいいのだが、ゴミハウスの環境に慣れてきたせいか地面が平らであれば寝るのに不自由はしないような気さえしている。

 目を閉じ、川端について考える。これまで、川端の失踪は借家をゴミ屋敷にしてしまったがための無責任な逃走だと考えていた。だが実際はそうとも限らないかもしれない。木井の推測通り、川端が精神を病んだ状態だったとしたら。その失踪が意味するのはもっと切迫したものなのではないか。

 体は疲れているはずなのに、眠ることができない。ただ床に横たわり続けるまま、現在の川端雅之について思いを巡らせ続けた。

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