4日目 十

 ここからの作業が新たな難題になりそうな気配を、青木以外の二人も感じていたかもしれない。三日かけて玄関左手の小部屋と台所を片づけた。そして廊下も、ひとまず四メートルほどは進み出ることができるようになった。だが右手には一番大きなリビングと思われる部屋があり、入り口の引き戸を解禁しないといけない。引き戸は木枠の間がすりガラスで向こうが透けて見え、うんざりするほど物で溢れていることは十分伝わってきていた。

 背後の高代から、戸の向こうを確認したいような逃げ出したいようなという及び腰っぷりが伝わってくる。木井はむしろ早く開けるよう、無言の主張をしているようにも思えた。

 青木は今日、二人のどちらか、あるいは両方が来ない可能性を考えていたが何も変わりはなく、三人でゴミハウスに立ち向かっていた。

 引き戸に手をかけ、倒れかかった荷物の重みと戦いながらこじ開ける。思いきり開けた弾みで天井でも落ちてくるのではないかと不安になったが、開いたのは大人一人が身体を横にして通れる程度のみだ。青木を先頭に一人ずつリビングの中に入っていく。中は予想通り、これまでのどのスペースよりも広く、物も散乱していた。

 軽く見回しただけでも今までは無かったローテーブルや布団、ペアになるべき机の無い椅子、タオルらしきものが掛けられたテレビなどの大型の物が多く見えた。八から十畳ほどのスペースと思われるが、ほぼ余すことなく物で埋め尽くされている。ただ、今までと違うのは破綻していながらも微かな生活感が感じられたことだ。部屋の真ん中に、ゴミの上に敷かれた肌色のマットレスがある。通常、それ単体で寝具として使うものではないだろう薄さと汚さだが、そこを中心にゴミが少ないエリアがあることで察しがついた。

「あそこで寝ていたのか」

 青木が呟き、後ろから高代も肩越しに覗きこんでくる。足元が悪いために、高代が青木の背中に寄りかかるような恰好になったのは決して大げさなものではなかった。

「では、失礼しまーす」

 マットレスを確認するなり、高代はそこに飛び込んだ。いち早く、木井の「馬鹿だ」という嘆きが聞こえた。青木も木井も、もはや疑問を投げかけることはせずただ待った。 

「うん、意外と寝れる。そしてテレビも見れる。そしておやすみなさい」

 目を閉じた高代に耐えかね、青木は背中に軽く蹴りを入れた。

「やっとツッコんでくれた。スルーはよくないよ、二人とも」

「悪いが遊んでる心の余裕は無い」

「遊びとも限らないよー。相手の気持ちになるのは大事だからね。こんな発見もあるし」

 うつ伏せでマットに飛び込んだ恰好から、高代は右手で何かを鷲掴みにした。捨て置かれた段ボールの山の下から見つけたそれを、高々と掲げて見せた。

「お宝発見」

 黒にラメが入っているらしいそれは、ひもの先に三角の布地の部分が見えた。高代がご丁寧に両手で広げて形を露わにしたので女性用下着なのはすぐに分かった。前面の最小限にしか布が無く、本来は男を誘惑してやまない逸品なのかもしれない。だが男の一人暮らしの家から出てきたという事実が、不穏な想像を一気に掻き立てる。

「よく素手で触れるな」

 青木が言うと、なんで? と首を傾げた高代がパンツを指にひっかけて回し始めた。青木が思わず一歩下がったのを見ても平然としている。

「なんでって、何に使ったか分からないだろ」

「使うってそんな、卑猥だなあアオちゃん。こんなの笑いの小道具かなんかに決まって」

 言いかけて高代は口を開けたまま止まっていた。開いた口に埃が吸い込まれていくんじゃないかと思うほど止まっていた。視線はパンツがあった段ボールのさらに奥に注がれていて、立っている青木たちからは見えない位置に何かがあるらしい。おもむろに屈みこんだ木井が手を伸ばし、手探りで段ボールの奥から紙束をむしり取った。

「汚いな、ほんと」

 蔑みを隠すことなく、木井は言いきった。握っていた紙を青木に渡してくる。

「これは……なんだ?」

 チラシだとは分かる。白黒映画のような劇画調のレイアウトと、口ひげと汗をやたら強調させた半裸の男が紙面の大半を占めている。青木が知っている中で近い感性の世界が無い。何かを察したらしく、高代はお宝と呼んだパンツを指先でつまんで静かに置いた。

「ゲイバーかなんかのチラシだろうね。そういう趣味だったのかな、住人は。チラシはもう捨てよう。そういうのが好きなら二人に譲るけど」

 木井がかぶりを振る。青木には細かい文字が見えなかったが、どうやらそれなりに木井と高代の気力を奪うような内容の、自分たちとは違う趣向の単語が並んでいるようだ。

 高代が手先についた何かを飛ばすかのように手首を振り、四日目の作業は始まった。リビング自体は広いが、足を上げるごとに何かを引きずる。初めて一部屋に三人入ることができたが、入り口の引き戸が満足に開くようにしないことには廊下との行き来の時点で不自由だ。ひとまず青木と木井で、引き戸の周りのゴミを片づけていくことにした。高代は流れのまま、マットレス周辺の段ボール類を折りたたんで一か所にまとめる役割になった。

「これはどうするの?」

 途中、段ボールとの押し合いに飽きたのか高代がマットレスを指して尋ねた。

「ウレタンマットって検索したら捨て方が出るんじゃない?」

 高代が尋ね木井が答えたにも関わらず、結論は青木がスマホで調べた。木井はゴミ集めに夢中で、高代は段ボールを潰す作業が堪えたのか腰に手をやって宙を仰ぐばかりだ。

「細かく切って燃えるゴミに出していいらしい」

 実に心穏やかな検索結果だ。想定外の手間が発生する事態は極力避けたい。

「ていうか、捨てていいの? ここで寝てたんならゴミじゃないんじゃない?」

 高代に言われて改めてマットを見る。細かい部分を見れば見るほど、なんの類か分からない汚れが染み込んでいた。コーヒーにも血液にもカビにも見えるものが、マットの外側から内側へと浸食していくように色を着けている。

「悩むぐらいなら残そう」

 作業の手を止めずに木井が言った。

「考える時間がもったいないよ。それに確かに、唯一の寝具だとしたら住人にとってはゴミじゃないだろうし」

 捨ててしまいたいのが本音だったが、青木は何も言わなかった。迷っている時間がもったいない、という点だけは同意できたからだ。

「じゃあこれは端っこに寄せとくね」

 高代が壁に立てかけてあった、自分の背ほどもある段ボールを引き摺り倒し、代わりにマットレスを立てかけた。ヘタって部屋側にもたれてくるばかりだったが、二つ折りにしたことでなんとか隅に追いやることができた。

「それにしても段ボールだらけだね。何買ったらこのサイズの箱で送られてくるんだろ」

「なんでもいいが、片づけられないなら買うなよな」

 青木の愚痴を合図に、三人は作業へと戻った。リビングはペットボトルと空のカップヌードル容器、スーパーの総菜のパック、たまに菓子類の袋や箱、あとはやたらとパン屋の袋が出土されてくる。マットレスの下、つまり寝床の下さえもゴミで埋まっていた事実が、つくづく同じ人間とは思えない衛生観念の持ち主だと感じさせる。マットレスの上に居座り、食べては残骸を投げる生活。青木の頭の中で、住人は世話をしてくれる人を失った家畜になっていた。マットレスは藁であり、住人は牛だと思った方がよほど理解しやすい。


 昼休憩を挟み、リビングの入り口側半分程度は床が見えるまで作業が進んでいた。奥側の隅にも辿り着くことができ、床に置かれた本棚を発見した。青木がそれを本棚だと思ったのは本の背表紙が見えるよう中に並べられていたからだが、見ると棚にしては小さく、本来別の用途のプラスチックケースを使っているらしい。散らばった落語の本や、有名お笑い芸人の著書などを眺めて青木は何度目か分からないため息をつく。

「本棚ぐらい買えよな」

 お笑い芸人という職業柄か、本は芸能人が書いたものが多いようだった。あるいは、あがり症の治し方やメンタルコントロール、人を魅了する話し方、伝わるプレゼン力という売り文句が並んだ自己啓発本の類もある。どれも読書で解決できるようなものには思えず、才能が物を言うだろう芸能界で淘汰された男の惨めさが並ぶコーナーに見えた。ゴミと言い切れない以上、やむなく保管物としてまとめておくことにした。

「あのさー」

 誰にともなく高代が声を上げた。両手を腰に当て、壁側を向いて作業している青木たちの方を向いているのが横目で分かる。

「俺、明日来ないわ。ごめんけど」

 木井はしゃがみこみ、この家では珍しいステンレス製のフォークを捨てるか迷っているようだった。返事をするべきはこの場の責任者である自分かと、青木は遅れて気が付いた。

「払う報酬を調整させてもらえれば、会社じゃないんだし構わないが」

「ありがとう。さすがアオちゃん。おかしな話だけどさー、俺ちょっとこの仕事休んで仕事探してこようと思う」

 木井がフォークをゴミ袋に投げ入れ、振り向いた。高代の顔をまっすぐ見つめていた。

「仕事探すって、仕事探すってこと?」

 よほど予期していなかった事態なのだろう。なんとも間の抜けたオウム返しだった。

「そう。俺気づいちゃったんだよ。案外働くのって悪くないなって」

 二人は続く言葉を待った。青木同様、木井もなのだろう。高代の心境の変化が信じられず、その真意を図りかねている。

「ハローワークっていうの? デビューしてみるよ。行けばなんとかなるっしょー」

「ああ、受付で大体説明してくれるよ」

 心なしか、木井の声は柔らかかった。見知らぬ夜道で灯りを見つけたような、静かな期待が混ざる感覚。

「いきなりいい仕事は見つからないと思った方がいいよ。職歴が空いていれば空いているほど、応募できる仕事は限られる。でも、ゼロっていうこともない。まずは職歴を作ることが大切になってくる。年齢を考えても幅広く探せば募集しているところは必ずあるよ。何より、まず行くのが肝心だから。明日行けるなら、行けただけで収穫だと思っていい」

 思わずといった様子で言葉を溢れさせた木井を見て、休職中とはいえやはり人を助けたい性分の職業なのだと青木は思った。他人の心境の変化に胸を躍らせ、世話を焼かずにいられないでいるのが分かる。一方で、その純粋さと熱量が裏切られたとき、受け止めるだけのタフさも受け流す老獪さも持ち合わせていないのかもしれない。

「サンキューキーくん。十年ぶりぐらいにやる気出たよ俺」

 本当だか冗談だか分からない台詞の後、そうだ、と今度は何かを閃いた様子でリビングを出ていった。慌ただしい足音とともに戻ってきた高代を見て、青木たちは後ずさった。

「俺、こいつ連れてくよ。トカゲザウルス!」

 高代の両手に胴体を掴まれたトカゲが、脱出しようとジタバタもがいている。初めて流し台の外で目にしたトカゲは存在感のあるサイズと眼力をしており、高代が口走ったトカゲザウルスの意味がなんとなく分かる気もした。

「痛え、痛い痛い痛い」

 いよいよ本気の抵抗にあったのか、高代は慌ただしく去って行った。戻って来た高代の手にトカゲはおらず、猫とやり合ったような傷が三本入っていた。

「諦めたよ、トカゲザウルス」

「その方がいいだろうね。多分、人の家のペットだし」

 木井が苦笑を隠すように、高代から視線を逸らす。

「守ってくれそうな気がしたんだけどな。まだ主人として認めてもらえてないみたい」

「そりゃそうだ」

 青木も苦笑し顔を宙に向けた。束の間訪れた解放感を味わうための、何気ない動きのつもりだった。その視線の先に、強烈に目を惹くものがあるなど、思いもよらなかった。

「あれ」

 声につられ、二人も青木の目線を追う。部屋の奥、まだ物が散らかりっぱなしのエリアにあるそれは、天井に近い位置に貼られており今まで気づかなかった。四隅を止めるセロテープが、茶色い土壁に似て黄ばんでいる。それでも仰々しい達筆と、金色の縁取りから称賛のこめられたものだと分かる。青木はその中でも一番目立つ部分を読み上げていた。

「第二十二回NGKお笑いグランプリ、審査員特別賞……うれたんず」

 堅い賞状の中に現れたひらがな五文字を、青木は一瞬どう読んでいいのか分からなかった。読み終えて、恐らくそれが受賞した芸人の名前であり、この部屋の住人のことなのだろうと察しがついた。

「うれたんず」

 三人、互いに目を見合わせたが誰も合点がいった様子はなかった。初めて聞く名だ。

「すげー、NGKお笑いグランプリって若手が出る賞の中じゃ、まあまあ大きいやつだよ。確かテレビでやってるの見たことある」

 テレビ、という単語の登場に青木は驚いた。この部屋の住人が、テレビという光の当たる世界に出たことがある人物だとは思ってもみなかった。

「テレビ番組で表彰されるような奴のわりには、全然聞いたことがない名前だぞ」

「ま、テレビって言っても昼間にテレビ見てたらたまたまやってた気がするってレベルだし。そこから売れて有名になる芸人の方がレアだとは思うよ」

 言いながら高代はスマホを操作していた。出てきた、と呟き画面を青木たちに向けようとしたところで手を止めた。スマホに再び目をやった顔は、いつになく険しいものだった。

「マジかー」

 何度か指を上下させてから、自分の望む情報は存在しないと悟ったように高代の手が止まる。無言のまま、高代が画面を青木たちに差し出す。画面にはうれたんず、という名称と二人の男の写真、そして二人についての説明文が書かれていた。

『うれたんずは、もみあげカンパニーに所属し活動していたお笑いコンビ。川端雅之と歌村拓の二名で活動していたが、歌村拓の起こした不祥事に伴い活動を休止している』

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