3日目 九
トカゲという得体の知れないものが出てきた以上、家主に報告するのが義務だろう。帰宅した青木はシャンパーニュに電話をかけた。実際には恨み言の一つや二つ聞かせてやりたい気分の方が大きかった。ひとまずトカゲについて伝えると
「飼ってたんでしょうね。ペット禁止物件ではないので問題はありません。保護してあげて下さい」と憎たらしいぐらい平静に言われた。
「しかし、大変だったでしょうね」
続いたシャンパーニュの言葉に、青木は突き動かされるように口を開いた。
「本当だよ、あんたに言ってもしょうがないかもしれないが、あんな家に長くいると人間はストレスでおかしくなるんだろうな。一人発狂しかけて雰囲気が最悪だ」
「いえ、それはよく分かりませんが。そのことではなくです」
「は?」
「トカゲです。流しの中では、食べ物はどうにかなったかもしれませんが、糞やオシッコは溜まる一方だったでしょう。気の毒に、生きて発見されて良かったです。清潔にしてあげてください」
青木はスマホを持ったまま動けなくなった。まさか、と声に出そうになるのを堪えて懸命に頭を働かせる。流しの中は砂しか無かった。その周りは? いや、そもそもあのトカゲは流しの壁を登れないからあそこで飼うことができたのだろう。
「もしもし?」
一瞬の絶句を挟み、ようやく青木は事実だけ答えることができた。
「糞も小便らしいものも、何も無かった。トカゲは汚れてなかったぞ」
「それは……」
一体どういうことでしょう。と、小さくなっていく声が聞こえる。気に留めるようなことではないのかもしれない。だが、説明できない現象というのはなんとも気味が悪い。
「まさか、住人がときどき帰ってきて世話をしてるんじゃないか?」
「どうですかね。見つかるリスクを考えると、トカゲを連れて逃げる気もします」
「じゃあ他に誰か、出入りしている可能性は?」
そこでシャンパーニュが沈黙したのは青木にとって意外だった。鼻で笑われるぐらいだろうと思っていた。少し間を空けてからシャンパーニュは
「ありえないとは言えませんね」とこぼした。
「考えたこともなかったですが、ほとんどあの家に行くことはありませんでしたので」
何かを思案し、また黙る。シャンパーニュという人物について深く知っているわけではないが、違和感が離れない。何か、この女らしくない気がした。
「もしそのような人物がいるのなら、大変興味深いです。つまりアオさんは、その人物がトカゲの世話をしていると言いたいわけですよね」
「そうだ。トカゲ自身が片づけたんじゃなきゃ、誰かが片づけたって考えるのが自然だ」
青木は聞き逃さなかった。受話器の向こう、誰に向けたわけでもないはずのシャンパーニュの笑んだ吐息を。
「会ってみたいですね、その人に」
「あんたの考えはよく分からないよ。会ってなんの得があるんだ」
「得、ですか。まあ単純に、店子の連絡先や居場所を知っているかもしれませんし」
それに、どういう目的でトカゲの世話など請け負っているのか気になります。そう続けたシャンパーニュに、青木は自分が感じていた違和感の正体に気づいた。前に電話をしたときには、店子のことを庇いはしたが失踪後の行方に関しては遠い国の話のような薄い反応に思えた。それと比べると、今回は真剣に考えている気がしたのだ。
「なああんた、あんたみたいな仕事をしているとこういうことはよくあるのか? 家賃を滞納して逃げられたり、家の備品を使い物にならなくされたり。それで、そこに誰だかよく分からない奴が出入りしていたり」
経験や傾向というもので疑問が片付くなら縋りたかった。それほどに、ゴミハウスとシャンパーニュは不条理であり疲弊している青木の頭をかき乱した。
「分かりません。私は、ゴミハウス以外の物件を所有していませんので」
そこから先、何を話したかよく覚えていない。気付けば家の前の、ビールだけ売っている偏った自販機に小銭を突っ込み、缶を呷って一日溜めに溜めたげっぷを放っていた。
一気に缶を空け、昂った頭で考える。若い女が一軒家を賃貸として貸出し、ゴミ屋敷にされた挙句、家賃を滞納されたうえトカゲの世話人が往来している可能性がある。さらに女は他に物件を所有していないという。資産家の娘でもなければ、投資家というわけでもない。親族か誰かから相続した家なのだろうか。だとしたら復旧に費用がかかり続けている現状の被害は甚大であり、あんな余裕をもって人と接していられるものなのか。
異様だ。黙って片づけを済ませて得るべき報酬を得る、それでいいはずなのだがどうにも心地が悪い。問題ない、という結論にしたくてビールを呷る。青木はそのままカーペットの上で寝てしまうことにした。自販機に出向くより、突っ伏してしまう方が楽だった。
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