3日目 八

 作業三日目は最悪だった。良かったことといえば、恐れていた台所の清掃が思いのほかあっさり片付いたことぐらいだ。ゴミハウスの救いは、これまで生ゴミの類に一切遭遇していないことかもしれない。清掃業務を受ける際に最初に青木が想像したのが、吐き気を催すような異臭との戦いだ。だがどういうわけか、前の住民は物は散らかし放題であっても食べカスやなま物の処理だけは徹底していたらしい。ある意味、別のなま物が見つかったことで三日目の作業終了が告げられたとも言えるが。青木たちの手に余るなま物は、ひとまず見つかった場所のまま、流し台の中へと戻してある。

 最悪だったのはそいつが見つかる一時間ほど前だ。木井の感情が爆発した。 

 きっかけは高代のおしゃべりだ。

「俺、お笑い芸人を目指してたんだよね」

 シャツの山で雪崩を起こしながら呟いた。青木も木井も、返事はしなかったが互いに耳が高代の言葉へ向いていることは分かった。何しろ他に目新しいものもない。

「大学の頃だったな。周りの奴らがみんな就活していくんだけどさ、サラリーマンになるってあんま意味分んなくて。そりゃ何かして生きていかなきゃいけなかったんだろうけど、スーツ着て働くのは違うっしょ、って思って何もしなかった。そしたらさー、誰も遊んでくれないからテレビばっか見るようになってさ。でもテレビって言っても飽きるんだよなー。同じようなことを毎日毎日やって、テレビすら見るの無駄だと思ってさ、マジでなんもしなかったんだよね」

 就活しろよ、と青木は思ったが口には出さなかった。

「そんとき、誰かがお笑いのDVDを貸してくれたんだよな。あの時に知ったんだけどさ、人間どんなにやる気がなくてもできることランキング一位なんだよ、お笑いを見ることって。起きるのがダルくて、飯食うのも面倒で、あーこのままソファで横になって死体で発見されないかなーとか思っててもさ。そのDVDだけは見れたんだよ。そっから新しいの借りたり、自分で買ったりしてさ」

 木井がひとまとまりになったゴミ袋を投げ捨てる音がした。木井が口酸っぱく言った成果か、もう誰も分別を間違えなくなっていた。

「とにかくさ、あの時の俺にとってヒーローだったんだよ芸人は」

 誰からの反応もないまま、高代の短い独白は終わった。青木は初めて、高代の話の続きを聞いてみたい気がした。奴にしてはしおらしいように見えたからかもしれない。

「それで、芸人をやってみたのか?」

 青木はようやく思い出した。初対面のはずの高代を、どこかで見たことがある気がした理由だ。大学の文化祭で、一人でコントだか落語の真似事だかをしていた男がいた。あれは今思うと高代だったのではないか。

「親に反対されたんだよ。そんで諦めて終わり。初めてなりたいと思ったものを反対されてさー、他になりたいものなんかなかったから。後はニートまっしぐらだよ」

 悪びれもなく言うその声に、青木は何かを否定しておきたい気がした。踏みとどまったのは、自分が説教臭い親父らしきものに成り下がる気がしたからだ。

「これから先は? 一体どうするつもりなの」

 とげとげしく言ったのは木井だ。木井は高代がいる廊下に背を向けて作業をしていた。改めて顔を向けることはなく、声を大きくして言った。

「誰がきみを養うんだよ。親? 親が死んだらどうやって食べていく?」

 距離がある分、深刻さが伝わっていないのかもしれない。間延びした声が返ってきた。

「さあねー、生活保護でももらうのかな。正直そこまで考えてないよ。その時になったら働くかもしれないし」

 高代の答えにはまだ続きがありそうだったが、青木には聞き取れなかった。木井が持っていたゴミ袋を床に叩きつけ、高代のいる廊下へ向かっていったからだ。歩くたびにナイロン袋やペットボトルが音を立てるおかげで高代の言葉は聞こえない。ただならぬ気配を感じて後を追うと、木井は高代の胸倉を掴む勢いで近寄っていた。

「いい加減にしろ! なんで将来のことを考えておかないんだ! きみにしろここの住人にしろ、なんでまともに生きてる僕たちが尻ぬぐいをしなきゃならない! 芸人だかなんだか知らないけど、夢を追うなら責任をもてよ!」 

「ちょっと待ってくれよ、俺とこのゴミ屋敷は関係ないでしょ。俺の人生をキーくんに助けてもらおうとは思ってないよ」

 高代にしては珍しく狼狽えた様子で、諭すように返した。青木と同じく、急な木井の激昂に面食らっているのだろう。

「一緒なんだよ。いいか、僕の職場にはきみみたいなのが毎日のように来る。仕事が無くて鬱だ、金が無くて鬱だ、相談できる相手がいなくて鬱だ、そうやって相談に来る。でも聞いてみれば自業自得が多すぎるんだよ。ちゃんと未来を考えて、準備をしておけば回避できたものがいくらでもある。それなのになんでそうしない!」

「それは、分かる気がする」

 思わず青木は呟いていた。木井ほど明確な意思はなくとも、この依頼を受けてからずっと感じていたことだ。自分たちは、誰かが無責任に放り投げた人生の尻ぬぐいをさせられている。こんな惨状になる前に、何かできたんじゃないかと住人を責めたくなってくる。

「そうは言ってもさキーくん、そういう人の相談に乗るのがキーくんの仕事なんでしょ」

 木井をこれ以上興奮させたくない。高代の意図は十分すぎるほど声から滲み出ていた。ゆっくり、根本を思い出させるような。だがどうやら、木井にとっては封じ込めた感情を吐露させるスイッチになってしまったらしい。

「分かってるんだよ! この仕事に向いていないなんてことは分かってる! クライエントを批判するのも、僕が感情的になるのも間違っているってことは分かってる。だから」

 続きを言い淀み、木井は声を詰まらせた。恐らく言いたくないだろうその先を、言わずに済む術はなさそうだった。さっき聞いたばかりの自業自得、という言葉が皮肉に思える。 

「だからこうして、仕事を休まさせられてるんだよ。本当は夏休みなんかじゃない。一度休んで頭を冷やせ、上司にそう言われたから休職してるんだ」

 廊下の奥側に立つ高代の頭上を、天井に張り付いた蜘蛛の残党が通り過ぎていった。一センチほどの小さな蜘蛛にさえ、人間どもの言い合いは煩わしいものなのかもしれない。

「本当は、向いていないことも、やりたい仕事じゃないことだって分かってる。それでもやるんだよ。それが与えられた役割なんだから。やるしかないんだよ。やらなかったら、僕はあの人たちと同じになるから」

「キーくんすげえよ」

 え、と木井の漏らした声が聞こえた気がした。茶化すでも投げやるでもなく、まっすぐ相手を見据えている高代は初めて見る真剣な目をしていた。

「俺、ここに住んでた芸人はマジでさっぱり売れなかったんだろうと思う。でも、きっと何年も続けたんだよな。それってすげえなってずっと思ってたんだ。キーくんだってすげえじゃん。やりたくない仕事でも続けてきたんだ。ここの芸人と同じぐらいすげえよ」

 木井がすぐに何かを言い返そうとしているのが分かった。強く高代を見つめる目は、赤みがかっている気がした。

「一緒にするな」

 木井が告げたのはそれだけだった。本当はその何倍も頭を巡っただろう感情が、木井の肩を震わせているのが分かる。木井が青木の横をすり抜けて行こうとする。また粛々と、塵と埃にまみれる作業に戻るのだろうと思いきや、木井は青木に向けて振り返った。

「だから僕は乗りかかった船は最後まで乗るよ。このゴミ屋敷の掃除もだ。簡単なことだよ、与えられた仕事をきちんとこなせば誰も困らない。人間はもっと規範に沿って生きるべきなんだ。規律を守って、他人に迷惑をかけなければいい。僕が今の仕事をして学んだのは、世の中にはそれだけのことができない残念な人が多すぎるってことだ」

 言い終わった木井の体はすでに小部屋のゴミの方へと向かっていた。唐突に強い言葉を浴びせられたが、青木は自分に向けられたものではないと理解できた。

 まだ言い足らないとでも示すように、木井は朽ちた額縁だかなんだかの木片を力任せに折り畳んでは派手な音を立てていた。


 仲良し三人組で仕事をしたかった訳ではないが、雰囲気は良いに越したことはない。その意味で後の時間は重たかった。交わす言葉はもともと大して無いにしろ、昨日までと違う緊張感に包まれている。高代がラップの芯を踏んでこける。はずみで傍の分別済みゴミの中身が混ざると、木井は足元のノート類と思われるゴミをもの言いたげに踏み鳴らした。

 ぎこちなさからくる凡ミスと八つ当たりが錯綜する中で、例の生ものは見つかった。トカゲだ。それもヤモリとかイモリとかそんな小物ではない。四十センチはあろうかという大トカゲが、台所の流し台の中に陣取っていたのだ。ツチノコのような扁平な形に茶色とオレンジの縞模様が入ったこのトカゲは、なんの奇跡だか生きていた。見つけた木井が乱暴に胴体を掴んだところ、跳ねる魚のように身をよじらせ逃れたのだ。木井はまさか本物だとは思わなかったと言った。そりゃそうだ。

 冷静になって見れば、流し台の底には砂粒が敷き詰められている。どういう神経か理解しがたいが、こいつは台所の流し台の中で飼育されていたらしい。流し台の上は台所から外が見える小窓がついている。考えられるとしたら、窓の僅かな隙間から入ってきた虫や雨水で凌ぎ生き延びてきたのか。尊敬すべき生命力だ。トカゲの相場は分からないが、特段痩せたり弱ったりしているようにも見えない。

「わけ分からないよ、この家も住人も」

 青木はなぜか、木井がその先に『僕たちも』と言うような気がしたが声はそこで終わった。今日の作業を打ち切るには十分すぎるほど、疲れと戸惑いのこもった言葉だった。

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