2日目 六

 シャンパーニュから聞いた情報を青木が伝えると、高代は驚く様子もなく頷いた。

「そんなことじゃないかと思ってたよ」

 高代が蜘蛛が行き交う廊下のゴミに手を伸ばす。四方八方に散っていく蜘蛛も、見慣れてしまえば転がっているゴミと対して変わらない気がした。

「ほらこれ」

 高代がゴミ山からノートを取り出し、青木と木井が覗きこむ。比較的汚れは少なく、古くて端の破れや折れ曲がったところはあったがそれが何かはすぐに分かった。

「台本って書いてあるんだよね」

 高代が手早くページをめくっていくと、確かに中には台本らしく台詞が延々と書き連ねられている。青木は昨日大量に見つけたボールペンを思い出していた。

 ページをめくり終えたところで青木が受け取り、表紙を開く。台詞がびっしり書きこまれた中のページと違い、一ページ目の字は乱れ、紙面からはみ出る勢いで書かれていた。

「全ネタ新作でいく」

 そのままを青木は読み上げた。衝動のままに書いただろう、跳ね上がりたいとうずうずしているような字。

「これは捨てていいものなのかな?」

 木井が首を傾げた。このノートがもつ意味ではなく、ゴミとして処理してよいかを気にしている。青木も倣い、余計なことは考えないようにした。いちいち詳細を気にしていては、このゴミハウスの物量に押し負けてしまう。

「万が一後から何か言われると面倒だからな。迷うものはこれを保管箱として入れておこう」

 幸い、段ボールの一つや二つは簡単に調達できる。廊下左の小部屋でひっくり返っていた段ボールに手を伸ばし、木井に渡した。青木がノートを箱に入れると、高代も何かを入れようとした。

「それはなんだ?」

「サプリらしいよ」

 当然のように言って似たような袋を次々入れようとするので、たまらず青木は制した。

「待てよ、それは取っておかなくていいだろ」

「芸人ちゃん、帰ってきてサプリ無かったら悲しむよ? ほら、これも、これも、たくさん買ってる」

 まとまって置かれていたらしく、高代が次々に手のひらサイズの袋に入ったサプリを取り出す。青木も薬局やコンビニで見た覚えのある、市販のサプリメントだ。記憶力増強、アガリ症に効果アリ、胃腸の調子を整える、などそれぞれ違った効能が大きく書かれている。どれも触ると中に錠剤が残っている感触があって、中途半端に開けられたものらしい。

「飲まないなら買うなよな」

 いない芸人に対し、つい呆れて言葉が出た。

「消耗品は捨てる。こんなもん置いてたら一生片付かないぞ」

「りょうかーい」

 特にこだわりもない様子で、高代は手を挙げ返事をした。木井はもう、聞いてすらいないらしく段ボールがあった小部屋を覗いている。

「今日はここだね」

 木井の変わらぬ能面のような声で、二日目の作業は始まった。

 廊下左手の部屋はやはりゴミで覆われているものの、すり鉢状に積み重なっており真ん中は膝より下までの高さに保たれていた。代わりに壁沿いの山は高く、特に右奥は勉強机らしきものに本やプラモデルの箱、ボロボロになったシャツなどが重なっている。シャツは机の手前にも散乱しており、どうやら机の上から滑り落ちた後のようだ。雪崩現場の中、片手で余るぐらいの大きさの物体を見つけた。拾うと軽く、プラスチックに金メッキを施したトロフィーだと分かる。台本のノートを入れた箱に放り込み、一つ動作を終えただけでまた途方に暮れる。どう作業を進めていくか、ぼんやり部屋を眺めている青木の脇をすり抜け、木井はすり鉢の底の部分へと進んだ。迷いなく動き出す姿を見て気づく。

 どう進めるもなにも、考える必要はない。片づけられるゴミを、ひたすら片づけていくしかないのだ。青木も木井のいる手前のゴミを集め、自然と高代が廊下側に残ってゴミ袋の移動や、手の届く範囲のゴミを片づける役となった。

 三人とも昨日の段取りに沿うことで大きなロスは無く進められるようになってきた。ガムテープは燃えるゴミ、段ボールは資源ゴミ、蛍光管は有害ゴミ。初めて出会うものは分別を確認しながら、ゴミの山を掘り進む。十数分ほど作業した頃だろうか、廊下にいる高代が声をかけてきた。

「アオちゃん、その芸人ちゃんってさー芸歴何年ぐらいの人なの?」

 青木は振り向いたが、廊下からはガサゴソ物を動かす音が続くばかりで、高代の姿は見えない。時々ゴミ袋の音がするので、一応手は動かし続けているらしい。見えない高代に対して聞こえるよう、青木は声を張った。

「知らねーよ、どうでもいいだろう」

「なんでー? どうでもいってことはないじゃんー?」 

 高代も声を張っているようだ。興味のない話題の上、埃や塵が舞う空気の中で喉を使わされる。早々に切り上げないと頭痛がしてきそうだ。

「芸人が何年目だろうがぁ、俺らのやることは片づけるだけだっ」

 青木が大声で返事をすると、案の定喉が痛くなってきた。

「でもさー、俺思うんだけどさー」

 高代は青木のしかめ面など気づかないようで、まだ話続けている。ザラザラした感触の痰が口の中で絡み、それがまた青木の苛立ちを誘った。いよいよ黙らせなければと、廊下に向けて叫んだ。

「うるせえなあっ、いい加減にしろ!」

 言い終わるとともに、青木は反射的に口を手で覆った。

 二人だけではなく、木井も丸い目をさらに見開かせ、何事かと青木を見た。家の中に、鍵の曲がったオルゴールが一瞬鳴ったような音が響いていた。一度短く鳴り、息を潜めていると今度は存在を強調するかのように、ゆっくりと長く鳴った。

 二回目の音でようやく確信がもてた。この家の呼び鈴が鳴らされているのだ。青木と木井は目配せで短い会議をした。

 出るべきか? ただ自分たちはこの家の者ではない。とはいえ大家の許可を得ている。ありえるとすると来訪者は誰だ? 近隣の住民が青木の大声を聞いて苦情を言いに来たのか。だとしたら出て詫びるべきか。

「はいはいー、どなたー?」

 考えがまとまらないうちに、高代が進み出た。止める間もなく、能天気に玄関の引き戸を開ける音がした。渋々、青木も高代の後ろに立った。応対を高代に任せるぐらいなら、自分が出てしまった方が数倍マシに違いない。

 高代の肩越しに見えた来訪者の姿に、青木は気が抜けるのを感じた。女だ。それも、恐らく大学生かそこらの若い女。諍い事を嫌いそうな、小ぢんまりとした背と鼻をしている。くるりと肩の高さで揃えられた明るめの髪が、人懐こい印象を醸し出していた。

「こんにちはっ」

 女が微笑み、軽く手を振ると仄かに甘い香りがする。思わずこちらも笑ってしまいそうな、上品だけど愛嬌も忘れていない仕草。青木は合点がいった。セールスだ。仕事中には見えないカジュアルな出で立ちをしているが、それを売りにした商売も存在するのだろう。

「ようこそ! ゴミしか無いけどまあ上がってよ」

「じゃあ、お邪魔するねぇ」

「おい、ちょっと待て。知り合いなのか?」

 訳が分からない。セールスを招き入れる高代を止めるつもりが、女も違和感なく入ろうとしてくるのだから。

「人類はみな知り合いなんだぜ、アオちゃん」

 つまり、知らないという意味だ。青木は女に助けを求めた。

「あんたどういうつもりだ? 何しに来た?」

 女は不思議そうに首を傾げた。異常事態にも物怖じしない態度は、どことなくシャンパーニュを思い出させた。

「えっと、ソラくん、だよねぇ?」

 青木ではなく、高代に向けて女は言った。高く囁くような声なのに、はっきりと耳に届く声だ。

「俺は純くん。よろしくね」

「あれ、そうなの? じゃあーキミがソラくん?」

 目を向けられ、青木は首を振った。

「じゃーあ、あなただ」

 青木が振り向くと、真顔のままの木井がいた。黙って見ていたらしい。

「木井直と言います。ソラくん、ではないと思います」

「んん? どういうことですかぁ?」

 なぜだか女の方が首を傾げ、ゴミハウスの玄関に立つ四人が全員順に顔を見合わせるというおかしな現象が起きていた。青木も木井も、高代が何かしたのかと疑いの目を向けたがそれも違うらしい。

「ああ、もしかしてっ。ソラくんがここにいないということは」

 女は目を見開き、ポンと手を叩いた。芝居がかってみえるのは気まずさを紛らわそうとしてのものだろうか。

「間違いですね、私の。失礼しましたぁ」

 えっへっへと笑い、回れ右をして去ろうとするので思わずその細い肩に手をかけた。

「待て待て、この状況を説明してから行ってくれ」

 振り返る女の横顔が、慌てて表情を取り繕ったように見えた。何か、不都合をごまかしたような。

「間違いなんですー。とにかく私の間違いでしたぁ。あはは」

 無理のある乾いた笑い声が残る。

「その間違いっていうのはなんのことだ」

「どうしても説明しないとダメですか?」

「むしろ、よく説明しないで行こうと思えるな」

「だって、ねえ。相当お恥ずかしい話なのでぇ。納得してくれないっぽいので言っちゃいますけど私、レンタル彼女なんです」

「マジで? 実物に初めて会った! 今日はレンタル彼女記念日だ」

 いち早く高代が反応し、目を輝かせた。その背中に冷たい視線を浴びせながら、青木は相手がレンタル彼女だということの意味を考えていた。そういうサービスがあるのは聞いたことがある。金を支払って彼女を借りるという、いかにもきな臭そうな商売。

 話を先へ進めたのは木井だ。 

「なるほど。レンタル彼女というものは漫画で見たことがあるだけですが、察しがつきました。つまりあなたはレンタル先の家を間違えてここに来てしまったと、そういうことですか?」

「ええっ、レンタル彼女って漫画になってるんですか? 読んでみたい! 題名を教えて下さいっ」

「結構ですよ。その日だけ彼女は名作です。六巻で完結していますが、あの短い中で織りなす人間関係の儚さが、さもレンタル彼女の現実とリンクしているようでもあり作者の方は天才だと思います。なんだったらお貸ししましょうか?」

 驚きのあまり口が開いたままになっていたのは青木だけではなかった。見れば高代も口を閉め忘れ、人語を話し出した犬でも見たような顔をしていた。木井の口調はこれまでのどの瞬間よりも軽く、生き生きとしていた。

「タイトル覚えました! ありがとうございます。あ、借りるのは遠慮しておきます」

 明快で嫌味の無い返事だ。変に濁すより受け手は悪い気はしないだろう。さすがはレンタル彼女、接客のプロか。ファミレス時代、常連の老夫婦に声をかけられるだけでも億劫だった青木からすれば住む世界が違う人間に思える。お断りをもらった木井は小さく、名作なのに……と呟いて青木の背後に戻った。

「あの、私そろそろ行かないと。近所に本物の彼氏さんがいるはずなんでぇ」

「本物の彼氏さん?」

 青木が聞き返すと、女は頷いた。

「そうです。いや、そうじゃないかな。私に指名をくれた人が近所にいるはずです。もちろん今日初めて会う方ですよ? とにかく、もう約束の時間なので失礼しますっ」

 慌てているらしく、繰り返し頭を下げると女は駆け出していった。

「なんだったんだ」

「要するに、呼ばれた客の家を間違えたってことだねー。しまったなあ。俺がソラくんですって言えばよかった」

「バカ、遊んでる時間はないぞ」

「でもさーアオちゃん。いっそレンタル彼女に掃除手伝わせればよかったじゃん」

「なんだ? そんなことしていいのか?」

「多分ね。ああいうのって多分、レンタル中はこっちの言うこと聞いてくれるはずだよ。ねえキーくん?」

 木井はすぐには自分が呼ばれたことに気づかなかったようで、もう一度高代に声をかけられてようやく顔を上げた。

「あ、うん。漫画の中でも遊園地に行きたいとか、主人公の希望はちゃんと聞いてくれてたよ。お母さんと会ってほしいなんていうのもあった。デートっていう体裁をとれば希望は聞いてもらいやすいから、清掃デートとでも言えば可能じゃないかな」

 青木は説明を聞きながら、指はすでにスマホの画面を操作していた。人手は少しでも多い方がいい。比喩でなく、このゴミたちを持ち去ってくれるなら猫の手だって借りたい。レンタル彼女で検索すると、すぐに業者のホームページが画面に並んだ。

「ダメだ、全然」

 料金一覧を見て青木は諸手を上げた。一時間八千円。十時間借りれば八万円。二十時間借りれば十六万円。

「舐めた値段設定しやがって」

 十六万円といえばファミレス時代、昼夜も休日も問わず店に尽くして得た月給の手取りと同程度だ。片や、適当に愛想を振りまいていれば容易く、その額を手にしてしまえる世界がある。

「木井、くん? あんたは仕事は何してる」

 同級生をさん付けで呼ぶのも妙かと思い、仕方なく高代に倣って呼んだ。あまり親しくない同級生をどう呼ぶのが適切か、正解が思い出せない。

「僕の仕事? なんで急に」

「深い意味はない。ただ、芸人、無職、レンタル彼女とおかしい奴ばかり出てくるからまともな話し相手が恋しくなっただけだ」

 青木が言うと、木井は頬を強張らせてから口を開いた。

「僕の仕事は説明がしにくいんだ。一言で肩書を言うならカウンセラーで終わりだけど」

「カウンセラー? あの大学からそんな仕事に就くやつがいるのか」

「いないよ。必要な資格がとれないからね。だから僕は、卒業してから学校に行き直して心理学を勉強したんだ」

「すごいじゃん。ということはキーくんはエスパー能力があるの? 人の心が読めちゃうぞ、みたいな」

 高代が自分の頭を指さし、ふざけ半分の顔で笑ってみせた。木井の答えは、呆れを含んだため息一つだけだった。

「さあ、作業に戻ろう。時間がいくらあっても足りないよ」

 その言葉に青木も我に返った。手早くゴミ袋を手にし、入り口左手の部屋へと戻る。すり鉢状のに積まれたゴミの瓦礫を前に、未だまともに立てるスペースすら作ることができていないのだ。動くと紙が潰れる音とペットボトルが転がる音が耳障りに響く。耳に被害を浴びながら、青木は持ち場へと急いだ。

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