1日目 五
電話のコール音が続く間、青木はシャンパーニュが逃げたんじゃないかと勘繰っていた。冷静になって考えれば、前金まで払っているシャンパーニュが逃げる理由などどこにもない。異常なゴミハウスの空間からの帰還が、青木の神経を昂らせていた。あれを素人に片づけろと依頼する女がいるなど、全て悪い冗談だったんじゃないかと思えてくる。
「もしもし」
涼し気なシャンパーニュの返事があり、青木は自分の落胆に気づいた。いっそ逃げていてくれたらと、どこかで期待していた。
「なんなんだあの家は。あれを素人がどうにかできると、あんた本気で思ってるのか? 家に帰ってからも臭いがとれないし喉は枯れるし、片づけきる前に体か頭のどっちかがおかしくなりそうだ」
いかに自分たちが苦労し絶望したか伝わるよう、青木は何か言われる前にまくし立てた。
「すごいんですよね、あの家。でも大丈夫です、初見のインパクトが一番すごいですから。私も何回か見て慣れましたから。アオさんもきっと、次回には少し慣れてますよ」
まるで質問の答えになっていない。そして、青木たちの苦労もまるで伝わっていないようだった。改めて、自分の体に積もった強大な疲労感と向き合わさせられた気がする。
「どうですアオさん。ゴミハウスは何日ぐらいで片づけられそうですか?」
「一週間が目標だ。あくまで目標だから保証はしない。そもそも、最後まで片づけられるかも分からない」
「なるほど。なかなかに早くて助かります。もしキャンセルするときは言って下さいね」
「なんだ? キャンセルしてもいいのか?」
「はい、いつでも悪評を立てられるよう、マイナスレビューの文章はもう作ってありますので。コピーペーストアンドクリックで全て終わります」
あくまでにこやかに。電話の向こうでマウスを持つ顔が浮かんだ。やはりいけ好かない。
「なああんた、あのゴミ山に住んでいたゴミみたいな住人はどんなやつだ。いくつぐらいだ? どういう育ち方をしたらあんな暮らしを平気でできる?」
「うーん、どんなやつと言われましても。ほとんど貸しっぱなしでしたから。おかげで気づいたらゴミハウスで。ゴミルームぐらいで気づけたらよかったんでしょうけど」
「確かにな。あんたに関しては自業自得だよ」
本当は違うことを考えていた。態度が気に入らないとはいえ、シャンパーニュはあくまで被害者だ。物件をボロボロにされ、家賃を払わずに逃げられたのだ。損害額は支払われなかった家賃に、青木に払う予定の二十二万円、さらにこうしている今、物件を貸し出せないことも痛いだろう。そこまで考えて、青木は引っかかるものを感じた。
「よく冷静でいられるな。相当ダメージはあるんだろう?」
資産である物件を滅茶苦茶にされた挙句、住人はどこかへ逃げたというのに、ここまで動じずにいられるものなのか。その程度では痛くもないほど規格外の金持ちなのか。だが一方で、プロへの依頼をコストを理由に断念しているのだ。シャンパーニュが極度に寛大な女だといえばそれまでだが、腑に落ちないのも事実だった。
「冷静ですかね? だって、今さら喚いても泣いてもどうにもならないですし」
「ゴミハウスの主、競馬に金を注ぎ込んでいたみたいだぞ。馬券が大量に見つかった。一回万単位で賭けているものもあった」
「競馬ですか。それは意外です」
「意外?」
「はい。そんなお金があるようには思えませんでした」
青木は苦笑した。寛大とかそういう問題ではなく、何も考えていないだけなのか。
「本気で言ってるのか? ギャンブルに注ぎ込んだから金が無くなったって考える方が自然だろう」
「それは微妙なところですね。うーん、ありえるとしたらなんでしょう」
珍しく言い淀み、何やら考えた様子の後でシャンパーニュは言葉を続けた。
「お金が無くなったので最後に一発大逆転に賭けた、とかどうでしょうか」
自分の言葉に対し、いやそれも違う気がするんですよね、とシャンパーニュは呟いた。
「確かにそれは違うだろうな。細かくは見てないが、あれは一日で賭けたものじゃなかった。違う日付のものがあったのは間違いない。認めたくないかもしれないが、あんたはギャンブル狂の男に騙されたんだよ。あのゴミの溜め方だと、最初から逃げるつもりだった可能性すらあるんじゃないか」
「アオさん。店子の名誉を守るために言うのですが」
シャンパーニュの声はどこまでも静かだ。語気を強めたわけではないのに、青木の言葉を止め、耳に当てたままのスマホに意識を向けさせる力があった。
「彼はそこまで極悪人ではなかった、と思っています」
「貸しっぱなしで何も知らない相手なんだろう? なにか根拠でもあるのか?」
「何も知らないわけでもありません」
シャンパーニュが次の言葉を発するまで少し間があった。ラーメンをすすっていたときの顔が浮かんで、今も何か食べているのではないかと疑いたくなる。だが黙った理由は違うらしく、青木は初めてシャンパーニュの迷いを感じた。観念したような吐息のあと、シャンパーニュは続けた。
「たとえば彼の職業なら知っています。彼はお笑い芸人をしていました」
「お笑い芸人? 誰だ?」
「言って分かるとは思えません。私もテレビで見たことはありませんし、見た目もごく一般的な男性という印象でした」
こめかみの辺りに力がこもってきていることを感じ、深く考えないよう努めた。店長になって身を粉にして働くようになってからというもの、気ままに自由を謳歌しているような連中を見ると虫酸が走る。人前でヘラヘラして金を得るような奴らの何が面白い、とお笑いの話で盛り上がるバイトたちに言ったら曖昧に笑ってやり過ごされたのを思い出す。
「それで? お笑い芸人のそいつがギャンブル狂のクソじゃないと思う根拠はなんだ」
「それは分かりません」
「分からないって」
「アオさんが、私が店子のことを何も知らないと言ったので知っていることを答えました。それだけです」
馬鹿らしくなり、青木は再度考えることをやめた。シャンパーニュがどう捉えようと、ゴミハウスの主は社会不適合者であり擁護する余地も必要もない。
「お笑い芸人としての収入は芳しくなかったようです。バイトもして生計を立てていたと。そのように必死に生きていた人が、ギャンブルにお金を注ぎ込むでしょうか」
「どこまでお人好しなんだ。金に困っていたなら普通はあんな一軒家に住まずにアパートでも探すはずだ。余計はっきりした。そいつは始めからゴミを放棄するだけして、あんたの前から逃げるつもりだったんだよ」
言葉にすればするほど、その感触は疑いようのないものになった。
「ルームシェアでもしていたのではないでしょうか。聞いたことはありませんか? 売れる前の芸人さんが何人かで家を借りる。一人暮らしをするよりも安上りになるケースが多いそうです」
「あの家で生活できる人間がこの世に何人もいるとは思えないな」
言いながら青木は、新たな疑問に気づいた。
「あんた、その芸人が一人で住んでいたかどうかも知らないのか?」
「はい。何人で暮らすかは契約で指定していませんので」
電話を終え、青木は肩をすくめた。これで大家が勤まるというのだからたまらない。どうせ親の資産か何かで得た物件を貸しているのだろう。
青木はパソコンを開き、ゴミハウスの片づけ以降の仕事依頼が無いことを確認した。このまま依頼が無ければ、また貯金を切り崩すだけだ。その先は? 少し休めばまた定職にはありつけるのかもしれない。そしてまたこき使われ、時間と体力を注ぎ込み誰に助けられることもなく、時限爆弾みたいに再びパンクする日を待つのか。行くも無味、帰るも無味のすり減らすだけの地獄。仕事を募集している自分のページの見出しが見えた。
「なんでも承ります。まずはご相談下さい」
なんにもできないからなんでも屋をする。とんだ皮肉に思えて、青木は画面を消した。
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