0日目 一
シャンパーニュという、いけ好かない名前をした相手のいけ好かない用件に対して返事をしなければならない。
シャンパーニュは青木にとって絶妙に苛立ちを掻き立てる名前だった。中指と親指でワイングラスの脚を挟み、冷たい底の上を黄金色のシャンパンが滑る。うっとりと目を細め、口先に運んだ香りとともに髪の長い男が含み笑いをする。
「そうだ、ニックネームはシャンパーニュにしよう」
青木にはそんな姿が思い浮かんでいた。もちろんシャンパーニュとは会ったことも無いし顔も知らない。ただ叶うなら。ふざけた名前のこの軟弱野郎のもとに出向き、ろくでもない仕事して買ったに違いないワインボトルを鷲掴みにしたい。香りとお戯れ中の後頭部に振り降ろしてやりたい。ゴン、と緊張感の無い音を立てて男はテーブルに突っ伏す。血は出ない程度でいい。さすがにそこまでは恨んでいない。
青木の頭の中で、会ったことのないシャンパーニュは一人の男に置き換えられていた。さっきから男の名前を思い出そうとしているが、どうしても出てこないことに驚く。だが名前は思い出せなくとも。ヤツに対する感情は勝手に湧き出てくる。苛立ち、苛立ち、苛立ち。
たかがバイトが。大学生が。好き勝手に店の方針に口を出してくる。ある時は休憩時間で、ある時はパート職員の送別会で。ある時は閉店後の店内で。閉店後、ヤツとはよく店の安物シャンパンを開けた。シャンパンはヤツが好んだからだ。青木にとっては酔えればなんでもよかった。
俺が店長なら、バイトの時給を上げるけどなー。辞めたやつのロスを取り戻す方がよっぽどお金がかかるじゃん。店長、ドリンクバーのジュースにタピオカ入れられるようにしようよ。タピオカって安いんでしょ。絶対インスタで話題になって客が来て店長も出世して、休みがもらえたりして彼女ができますよ。
だまれ山田!
頭の中でワインボトルを振り降ろしたら、一緒に名前を思い出した。そうだ、山田だ。
バイトの時給は一介の雇われ店長が独断で決められるものではない。タピオカを導入したいなら俺ではなくてエリアマネージャーに言え。バズーカ砲みたいな頭の悪い見た目の扇風機を肩につけ、厨房で汗だくの俺に
「いやー、外と違って中は涼しくていいね」
と言ってくるあのアホがエリアマネージャーだ。誰だ、真夏の新メニューに『汗を出しきれ鍋焼きパスタ』なんて狂ったものを考え出したヤツは。馬鹿しかいないのかこの会社は。どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。
エリアマネージャーは厨房の入り口から声をかける。決して厨房の入り口のタイルをまたごうとはしない。その扇風機をよこせ。置いていけ。そこはさぞかし空調が効いているだろう。
近所の系列店で風邪が流行っているので応援のスタッフをよこしてくれ。そんなことを言っていた気がするが青木の頭には入らない。煮立ち続ける鍋焼きパスタの前で突っ立っていた。入れるべき薬味の代わりに汗が鍋の中に落ちる。ああ、汗を出しきれというのはスタッフに向けた言葉なのか。そう思うと可笑しくて笑えてきた。笑った拍子に唾も鍋に入った気がして嬉しかった。これを食った客が会社を訴えて、この店もエリアマネージャーも山田も消えてなくなればいい。汗で前が見えなくなり、眼球を伝って雫が落ちる感触ばかりがする。目が痛い。それが青木が最後に考えていたことだ。
熱中症か過労かストレスか胃腸炎かあるいはその全てかによって、青木は六年勤めたファミレスから足を洗うことができた。
青木が再び画面に目をやると、それなりに返事のメールが出来上がっていた。一体どの瞬間から前の仕事のことを考えていたのか、自分でも理解できない。見直しはせずそのまま送った。会社をやっているわけでもないし、何より受け手がシャンパーニュなのだからどう思われようが構わない。
『大丈夫ですよ。体力を提供するということで仕事を引き受けていますので、多少の負担は覚悟しています。もちろん、報酬額を相談させて頂いた上で仕事の受領となりますが。まずは気軽に、シャンパーニュ様のご希望を教えて頂けると幸いです』
打ったばかりのメールを見返す。たかだか数行程度の上辺だけの文を打つ間に、山田とエリアマネージャーと新メニュー開発担当者をぶん殴りたくなった。大手ファミレスチェーンの雇われ店長という、ありがたくもない身分を卒業してから三か月。ヤツらの存在自体を忘れていたものだが。菩薩みたいに憎しみも苦しみも忘れ、ついでに楽しみや愛着といった感情も薄れていた日々は、シャンパーニュという変なニックネームの依頼人との遭遇で終わるのかもしれない。少なくとも憎しみは蘇ってきた。
『お願いしたいのはゴミ屋敷の掃除です。受けてもらえますか?』
「はあ?」
思わず眉をひそめた。声を漏らしたまま開いていた口元が、片側だけで非対称な笑みを作る。理解に苦しむぜ、と蔑む笑み。
『こちらが言うのもおかしなことかもしれませんが、ゴミ屋敷の清掃には相応の専門業者があります。そういった業者に相談はされましたか?』
『それは仕事をお願いする上で必要な情報ですか?』
『恐れ入りますが、ネット上で金銭のやりとりをする以上、依頼者の方のことをできるだけ理解して進めたいと考えております。シャンパーニュ様のことを疑うわけではありませんが、事情は教えて頂きたいところです』
返信を打ちながら、青木はこのやり取りが無駄に終わる予感がしていた。まず、シャンパーニュの印象が最悪だ。名前が悪いことと、情報量の少ないメールの中身と、回答を渋る不可解さと。
その上でゴミ屋敷清掃ときた。力仕事、体力仕事をなんでも引き受ける、と確かにネット上の自己紹介ページにはそう書いている。これまでも何件か、引っ越しの手伝いや庭の掃除、十匹以上のセントバーナードの散歩など所帯じみた仕事をいくつか引き受けてきた。だがゴミ屋敷となれば素人が手を出せるものではないだろう。ワイドショーなどで見たことのある、空間という空間にゴミが積まれた家。どう対処するべきかなど、多くの住民や役場がそうであるのと同じく青木にも想像がつかない。
『業者には相談しました。ですが、代金が高くて払うことができません』
じゃあ諦めろよ、と青木が悪態をつくより先に追加のメールが来た。
『ゴミが無くなればそれでいいです。業者のようにスピードや完璧な清掃を求めてはいません。その代わり、業者よりも安く受けてもらいたくてお願いしています』
青木の返信を待たずに来たメールは、少しだけ今までのものとは様相が違うように見えた。優雅に構えていたシャンパーニュが、こちらの空気を察知して初めてパソコンに顔を近づけたような。向こうは向こうで、それなりに切迫しているのかもしれない。青木の返事を待たず、続けて三通目のメールを着信した。
『報酬は二十万円でお願いします。それ以上は払うことができません』
ぷはっ、と乾いた笑いが出た。絶妙だった。いけ好かない相手が一瞬だけ見せた脆さと、ゴミ屋敷という無謀な対局相手と、ファミレスを辞めて以降で稼いだ全収入を優に超える二十万円。少なくとも、与太話として切り捨てられるほど簡単ではなくなっていた。
目を閉じ、額を軽く叩いて続けた。
『説明ありがとうございます。ですが、高額のやり取りが発生する可能性がありますしメールだけでは判断が難しいところがあります。シャンパーニュ様がよければ、一度会ってお話しませんか?』
一息で文を打ち、送信をした。躊躇ったらその途端、指が断りの文書を打ち始めてもおかしくなかった。常識的な判断よりも、久しぶりにスーパーの惣菜以外のものを食べても許されそうな金額に胸が躍った。
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