大ちゃんへ

佐々井 サイジ

大ちゃんへ

 大ちゃん、お元気ですか? 大学三回生から三年間付き合っていた美奈です。私はいま育休中です。子どもは今日、八ヶ月を迎えました。昨日の昼から発熱で保育園を早退してきてずっと機嫌が悪いです。夜も激しい咳と鼻づまりで泣き喚き、苦しそうな子どもをほとんど寝ずに面倒見て朝を迎えました。


 この子は大ちゃんと別れたあとにすぐ付き合って結婚した人との子どもです。息子です。かわいいです。でもこの子が成長していくのと反比例して夫への愛情がだんだん冷めていっています。一晩中子どもの面倒を見ていたのに、夫はグースカ寝てるだけでイライラしました。お前の子どもでもあるんだよって。


 少年のように寝癖をたくわえて起きた夫の顔を見てさらに苛立ちました。「まだ熱下がってないの」とまるで私のせいで子どもの体調が回復しないような言い方をされたときには思い切りビンタしてやりたかったのですが、子どもを抱っこしていたので「そうだね」と怒りと失望を込めて言い放っただけです。


 私の機嫌が悪いことに気づいて「今日は早めに帰ってくるから」と言い残して夫は出社していきました。育児において、夫がいてもいなくても私の労力は変わりません。むしろ休日に子どもと遊ぶだけ遊んでおいて、おむつや離乳食づくりという面倒なことをすべてしないことには辟易します。


 大ちゃんと結婚していたらなと最近よく思います。大ちゃんは大学生のときから勉強熱心でしたね。誰でも聞いたことのある自己啓発本や話題のビジネス書を買って読み漁っていましたね。その知識をうまく活用できずに勉強不足というズレた原因分析をもとにまた本を買い込んでいたことが懐かしいです。


 大ちゃんは勉強不足なんかではありませんでした。仕事ができないのは飲み込みが遅いのとアウトプットができていないことが原因のはずです。付き合っているときに柔らかいニュアンスで伝えましたが、全然気づいていませんでしたね。この鈍さは家庭を築いたときにイライラの根源になると思い、別れようと決心した瞬間でした。


 別れを切り出すと大ちゃんはすんなりと了承してくれましたね。私はそういう理由で別れた手前、絶対に大ちゃんより先にライフステージを駆け上がることにこだわりました。会社の先輩で言い寄ってきた人と付き合って、人格的、金銭的、仕事のできに大きな問題はなかったのでプロポーズを受け入れました。


 顔から下のウェディングドレス姿の写真をアイコンにしたところ、「結婚したんだね! おめでとう!」と大ちゃんはメッセージをくれましたね。まるで人生の大半を一緒に過ごしてきた親友のように。「ありがとう!」と一言だけ送り、大ちゃんを切り捨てたことは正しかったのかと一瞬頭によぎりました。


 出産後も体中が痛むなかで指を動かして、しわしわの赤ちゃんの顔をアイコンにしました。大ちゃんは同じように祝福のメッセージをくれましたね。下心のない、真面目な大ちゃんの人柄が短いメッセージに詰まっていました。でも私は大ちゃんより二つもライフステージをリードしたことに満足していました。


 ですが、このアイコンマウントは意味があったのでしょうか。もちろんこんなかわいい子どもと出会えたことは後悔していません。ですが今の夫と結婚してよかったと思えることは子どもと出会えたことだけです。それ以外はありません。パーソナルスペースに入ってこないでほしいとさえ思ってしまいます。


 大ちゃんにマウントを取ることにこだわって焦って結婚したことに意味はあったのでしょうか。大ちゃんはどんな思いで私にメッセージを送ってくれていたのでしょうか。自己啓発本で学んだのでしょうか。「別れた元恋人にも優しくせよ」みたいな感じで。聖書ですよね。大ちゃんなら読んでそう。


 これから小児科に行ってきます。夫は小児科にも保育園の送迎にも行きたがりません。「ママばっかりで浮くだろ」別に周りの人と喋らないんだから関係ないのに。大ちゃんなら行ってくれましたよね。私のライフステージは上がったけど、上っていく階段はこれで良かったのかなという気がします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大ちゃんへ 佐々井 サイジ @sasaisaiji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ