一章 月下の邂逅 ⑤

    ◇◇◇


 かぐやの部屋をあとにした零月は、そのまま屋敷の出口ではなく、おうなの部屋へ向かっていた。北のたいにある一室に掛けられたの前で立ち止まると、そこに正座をして声をかける。

「ありがとうございました、絹様」

「いいのよ、他ならぬお前の頼みだもの。それより、かぎを返してくれないの?」

 甘ったるい声で自分を誘う媼の影を御簾越しに冷めた目で見つつ、零月は足を踏み出す。御簾を持ち上げて中に入れば、すでに薄いしろそで姿で帳台に横たわっている媼が手招きしていた。

「お前も律義ね、かぐや姫の本当の兄ではないというのに、傷の手当てしたさに私を拒まないのだから。それとも、お前もかぐや姫にそうしているの?」

「もしそうだと言っても、あなたは私にかぐや姫を譲ってくださる気はないのでしょう? ですから束の間の逢瀬を、こうしてあなたから買っているのです」

 零月は笑みを貼り付け、格子の戸の鍵を媼の手のひらに載せる。媼の腕が首に回り、零月は一瞬表情を消すも、すぐに笑みを取り繕った。

「絹様、お疲れのようですね。ほぐして差し上げますよ」

 零月はさりげなく首から媼の腕を外し、しとねにうつ伏せになるよう促す。

 かぐやと会うのに情交を求められるようになったのは、零月が讃岐家に来てすぐのことだ。貴族のあいしようになる花娼が多いせいか、花楽屋が春を売る店だと勘違いしているれつやからがいて困る。そのたびにこうしてあんにすり替えては、やんわりかわしてきた。

「わかるかい? かぐや姫が縁談のことで少しごねてね」

 愚痴をこぼしながら、媼は言われた通りに褥に横になる。その背を冷ややかに見下ろし、淡々ともみほぐしていた零月は胸中で毒を吐く。

(汚らわしい。数多あまたいる人間の中でも、この家の者たちの汚さは抜きん出ている。かぐや姫は、お前たちが飼い慣らせるような存在ではないというのに)

 軌道に乗る前は、この見目を使って仕事をとってくることもあった。讃岐家からの依頼も、その縁が結んだものだ。毎度のことながら面倒な時間でしかないが、なにを成し、なにを得るにも人間の欲に付け入るのが手っ取り早い。

 とはいえ、かぐやが黒鳶大将に嫁ぐとなれば、この応酬も長くは続かないだろう。かぐやのそばにいるための別の方法を考える必要がありそうだ。

 耳障りな声を漏らす媼にけんを寄せつつ、零月は今後の動きに思考を巡らせた。


    ◇◇◇


 都の宮城にあるみかどや皇族の私的な在所である内巣に、帝が日常を過ごす『ようおう殿でん』がある。帝が日中にしゆつぎよする平敷の御座──『ひのまし』の前に隆勝は座していた。

 隆勝は礼冠を頭にかぶり、青みがかった長い黒髪を赤のくみひもで後ろにひとつに束ねている。あいいろの小袖の上からまとっているのは赤いえりひもがつき、背に金色のとび──きんの紋がしゆうされたこくほうだ。袖は鳶にちなみ、翼のような切り込みが幾重にも入っている。腰に巻いてしろばかまの前に垂らした平緒の色は階級ごとに分かれており、大将である隆勝は金色だ。この黒鳶装束一式を身に着けるのが隊の決まりなのだ。

「隆勝、黒鳶での活躍は聞いている。その調子で成果を上げよ」

 御簾越しに対面しているのは、ほうぎよした先帝の第一皇子であった天誠帝だ。おんとし三十七歳になる。

 隆勝のけいにあたるが、帝の母は祇王家の出身。先帝が気まぐれにはらませたはしたの子である隆勝とはしんうんでいの差がある。

 だが帝は端女の子でなんの後ろ盾もなく、宮中で微妙な立場にいた自分に目をかけ、それどころか祇王姓をし、黒鳶隊の官人に任命した。隆勝は臣下の籍に降りたとき、そうして居場所を与えてくれた帝を生涯をかけて守り支えると決めていた。

「はっ、ご期待に添えるようまいしんいたします」

 隆勝は低頭する。

「うむ、期待している」

 帝の返事から少しの間があった。げんに思い、隆勝が顔を上げると、帝はふうっと憂いを含んだため息をこぼし、きようそくにもたれかかる。

「どうかされたのですか?」

「いやな、お前を後継にできたらどんなによいかと、改めて思ってな……」

 その覇気のない声で思い至る。帝の悩みの種など、ひとりしかいない。

しばしんのうですか」

 帝はすぐに気づいた隆勝に、ふっと苦い笑みをこぼした。

「わかるか」

「はい。帝を悩ませるのは、大抵あの方ですから」

 帝は「違いない」と、またも苦笑混じりに言う。

「もうひとりの弟の方も、お前のようにしっかりしていればな」

 鵜胡柴親王はこうたいていで、隆勝の異母兄にあたる。

 親王の母親も二大の蘇芳家出身で帝同様に高貴な身であり、崩御した先帝以上に血縁をなによりも重んじる。逆を言えば、貴族以外の人間は軽んじていた。

 当然、端女の子である隆勝も数え切れないほど嫌がらせを受けた。下男のように雑用を命じられ、茶を入れてくればまだ湯気立つそれをかけられ火傷やけどを負ったこともあれば、池に突き飛ばされたり、食事に毒を盛られたり、武術のけいではつかに肌がかぶれる葉汁を塗られ、しばらく木刀を握れなくされたこともあった。それゆえ生傷が絶えなかった。成長してからもそれは収まることなく、隆勝の悪評を流し、交流のある貴族と共に『卑しい血』だの『れの子』だのとそしり、汚物でも見るような目を向けてきた。そのたびに帝が隆勝の肩を持つことが、親王は面白くないのだろう。

「また、私をかばったしわ寄せが主上おかみにいってしまったのでは?」

 帝を煩わせてしまったのだとしたら、心苦しい。そんな隆勝の心情を察してか、帝はきっぱりと告げる。

「お前のせいではない。だいたいは鵜胡柴の一方的なやっかみだろう。お前は才知にあふれているからな」

 隆勝の気持ちを軽くするための言葉だとわかっている。だが帝のこういうところに、いつも救われてきた。

「とはいえ、お前にも関わることだ。実は鵜胡柴が、自分も妖影かげ狩り部隊を作りたいと言い出してな」

「は……鵜胡柴親王が妖影狩りを?」

 耳を疑った。皇太弟は帝に皇子が生まれなかったときのための後継者なのだ。最も危険な仕事である妖影狩りに名乗りを上げるなど、正気のとは思えない。考えられる動機はひとつだろう。

「血筋で劣っている私が、国の重要官職である黒鳶隊で功績をあげることをよく思っていないのですね」

「ああ、お前は理解が早い。ゆえに苦しみも多いだろう。先に言っておくが、気負うな。鵜胡柴はお前への劣等感を暴走させている。いつまでも子供のようで困る」

 理解が早いのは帝の方だ。隆勝が口に出さずとも、こちらの心の機微をみ取ってしまう。気苦労が絶えないはずだ。

「だが、現実問題として今は妖影の数が増え、それに比例するように黒鳶隊の隊員たちも命を落としている。過酷ゆえに志願者も少ない。鵜胡柴はその点を突き、再び説得に来るだろう」

 志願者が現われても、黒鳶隊の隊員が育つまで妖影は待ってはくれない。新人もすぐに現場に送り込まれ、命に関わる怪我を負う者は多く、隆勝が大将となってから減ったものの、討ち死にする者も出る。それが黒鳶隊が過酷な職場と言われる所以ゆえんでもある。入隊しても、その日のうちに辞めていく者がほとんどだ。

「加えてひそかに大臣らに接触し、自分に同調するよう外堀を固めている。大臣らは一体でも多く妖影を排除できればそれでいいと思っているゆえ、止めはしないだろう」

 鵜胡柴親王は悪計をたくむことにおいては、よく知恵が回る。その能力を帝のために役立てればいいものを……と思わずにはいられない。

「こういうわけだ。一度は無駄死にする人間を増やすわけにはいかないゆえ提案を突っぱねたが、次に進言されれば私は断ることができない」

 事の次第を語り終えた帝は、疲れた様子で深く嘆息する。

「……隆勝、私は血筋で自分が帝になったこと、皇族として人格が伴っていない鵜胡柴を皇太弟にしなければならなかったことを憂えている」

「なにをおっしゃいます。主上ほどのこくはおりません」

「この地位に就いたからこそ、わかるのだ。今ここに座しているのがお前ならば、臣下も御しきれる。お前の努力を見てきたからこそ、民は心強く思うだろうとな」

 帝が悲観的になっているのは珍しい。それほど憂いの種が大きいのだろう。

「私もずっと主上を見てまいりました」

「隆勝……」

 帝が自分に信頼を寄せてくれるように、隆勝も帝を信頼している。それをわかってもらうべく、隆勝は言葉を紡ぐ。

「主上は血筋ではなく能力を重んじてくださる。下流貴族であろうと高官に就かせ、下級の兵に平民を雇用するなど、能力のある者を積極的に採用し、国政の風通しをよくしてくださいました。主上がこの世を変えてくださらなければ、私を含め多くの者が努力する機会すら与えられなかったでしょう」

 帝はあいづちも打たずに、隆勝の話に静かに耳を傾けている。

「私は町を駆け回っておりますので、革新的なまつりごとをされる主上が民や臣下に名君とたたえられているのを知っております。妖影の脅威はあれど、主上に守られる民は幸せです」

 だからこそ隆勝も知識を深め、剣術を磨いてきた。それが帝を支え、守るために必要だと思ったのだ。

(この方は絶対に死なせてはならないお人だから)

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