一章 月下の邂逅 ④
「かぐや姫……私は感謝されたくて、この世界を見せたわけではなかったのですが……」
零月は感情を覆い隠すような貼り付けた笑みを浮かべる。
かぐやがかける言葉を探していると、零月は桶の中に浮かぶ血のついた手拭いをちらりと見て、格子の戸につけられた錠の鍵を開けた。
「かぐや姫、薬を塗ってあげましょう」
そう言われ、無意識に部屋の入り口を確認するかぐやに、零月は気づいたのだろう。
「大丈夫です。翁方には、着想の妨げになるので姫とふたりにしてほしいとお願いしましたから、ここにはしばらく来ないでしょう」
露骨にほっとしてしまう。依頼された髪飾りを作るためだと言えば、ふたりきりになっても怪しまれない。だが、それが可能なのは零月が格子の戸の
かぐやがされていることを知っている彼は、翁と媼をうまく丸め込んで幾度も手当てをしてくれた。その気遣いを
「また、愛らしいお顔が
悲しそうに
傷口に触れられるたびにひりっとして唇を
「かぐや姫、あなたはこれだけのことをされても、屋敷から逃げ出そうとは思わないのですか? 私なら隙を見て、あなたを連れ出せるのですよ?」
そう言われるのは、もうこれで何度目だろう。自分を逃がそうとしてくれる零月の気持ちは嬉しいけれど……。
「おじいさまとおばあさまを裏切ることはできません」
「なぜ、そこまでふたりを想えるのです? あなたへの仕打ちを思えば、恨んでいいくらいだ」
理解できないという顔をする零月に、かぐやは首を横に振る。
「ふたりは誰に後ろ指をさされようと、私を捨てないでいてくれました。私がふたりから職も里での居場所も奪ったのです。その罪滅ぼしもせず、自分だけ自由になるなんて許されません」
「あなたは優しすぎる」
「いいえ、優しさなどではないのです」
口では立派なことを言っているが、心の中では許されない願いを抱いている。
ふたりのために尽くせばいつかは愛してもらえるのではないかと、浅ましい望みを抱いている。
けれど、尽くせば尽くすほどかぐやの自由はなくなった。ここから逃げたいと思ったこともあったが、そのたびにふたりを不幸にした罪がかぐやを戒める。そこで気づいた。自分はどこにも行くことはできないのだと。
わかってはいても、心を殺して生き続けるのに、もう疲れていた。
存在するだけで、そばにいる者に不幸を運んでしまうのなら。自分がそんな妖影憑きならば、いっそ黒鳶隊に退治されてしまいたい。
黒鳶大将である隆勝が会いに来ることを聞いて恐ろしく思う反面、自分を終わらせてくれるかもしれないと期待もしていた。
ただ、罪滅ぼしもできないまま逝くことは、やはり許されないだろう。死ぬ自由すらも自分にはないというのに、解き放たれたいと、もうひとりの自分が叫んでいる。
「その優しさが、姫の身を滅ぼさなければいいが……」
零月の低い呟きに、かぐやは「え?」と振り返る。けれども零月はいつもと変わらない優しい笑みを浮かべ、「終わりましたよ」と薬を懐にしまった。
「姫が望まないのなら、私が強要するわけにはいきません。ですが、姫が助けを求めたそのときは、力になる者がここにいることをお忘れなきよう」
「零月兄さん……はい、ありがとうございます。ですが……もうじき嫁ぐことになりそうなのです。そうなれば、零月兄さんとも会えなくなってしまいます」
もし隆勝の目的が本当に婚姻の申し込みならば、かぐやは遠く離れた都に移り住まねばならないだろう。相手が隆勝でなくとも、翁たちはそのうち恋文を送ってきた貴族の誰かにかぐやを嫁がせるはずだ。いずれにしても、この里を出ることになる。
「それで翁方は、私に新しい髪飾りを依頼なさったのか……嫁ぎ先は決まっているのですか?」
「それはまだ……ですが、祇王隆勝様から文が届いたそうで、おじいさまたちはなにがなんでも、私を祇王家に嫁がせようとするはずです」
媼は隆勝との
「祇王隆勝様といえば、黒鳶の……」
零月は思案するように視線を落としたあと、かぐやの両肩にそっと手を乗せた。
「姫がどこへ嫁いだとしても、会いにゆきますよ。それに近々、都の
「零月兄さんは本当に人気の
「ふふ、そうなんです。求められれば、どこへでも行きます。ですから、そのように寂しそうなお顔をなさらないでください」
気心の知れた相手は零月だけだというのに、寂しくならないわけがない。かぐやは
「零月兄さんなら、私がどこへ嫁いでもふらっと現われそうです」
「ええ、いつだって姫を見守っています。約束の
耳の上に、すっとなにかを挿し込まれる。手鏡を渡されて確認してみると、かぐやの垂髪に白い花の髪飾りがついていた。
「
(私にぴったり……それは月が? それとも月下美人の花が?)
月を見上げると、どうしようもなく泣きたくなること。
彼に他意はないはずなのに、自分が秘密を持ちすぎているばかりに過敏に勘繰ってしまう。
「かぐや姫、気に入りませんでしたか?」
悲しそうな声に、物思いに沈んでいたかぐやははっとする。
「あっ……とても、とても嬉しいです。他ならぬ、零月兄さんからの贈り物なのですから」
「前々から、かぐや姫に私の作った髪飾りを贈りたいと思っていたのです。随分と前に出来上がっていたのですが、改まって渡すのはどうにも照れ臭く……ですが、姫が嫁ぐとなればそうも言っていられませんから」
「零月兄さんが私を想って作ってくれたこの髪飾りがあれば、どこにいても零月兄さんを感じられますね」
髪飾りに触れて笑みを浮かべれば、零月は
「愛らしいことを言ってくれる」
その意味深な
「……あなたの
茶化すような物言いに、かぐやも笑い混じりに返す。
「前世では、そうであったかもしれませんね。ですが、零月兄さんは異国の血が混じっているとか。それでそのような瞳の色なのでしょう?」
前に零月が話していたのだ。零月は異国出身の花娼であった母と貴族の父の間に生まれたのだと。金の瞳はその母から受け継いだそうだ。
両親はどういうわけか零月だけを捨てて駆け落ちしたのだが、すぐに結婚に反対していた父方の家の者に見つかり、川に身投げしたのだとか。
幸いにも零月は手先が器用で、花娼に作った髪飾りが評判を呼び、花楽屋に残ることを許された。もしそれができなければ、人買いに売られるか路上に捨てられるかのどちらかだっただろう。
住む場所にも食べる物にも困らずに育ったかぐやは、壮絶な人生を送ってきた零月に比べれば恵まれているだろう。比べるのは零月に対して失礼だと思うが、自分がいかに多くを望んでいたのかに気づかされる。
「もし私たちが異国で兄妹で、またここで巡り会えたのなら素敵な話ですね」
「また姫は、私の喜ばせ方をよく知っておられる。可愛くて、つい姫との共通点を探したくなってしまいます」
大人の彼が口にする子供じみた理由に、ふふっと笑ってしまう。零月と話している間だけは、苦しかった時を忘れられる。改めて、彼の存在がどれほど大きいかを思い知る。
「忘れないでくださいね」
美しい細工を作り出す手が、壊れ物を扱うようにかぐやの髪を
「私はどこにいても、姫の幸せを願っていますよ」
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