一章 月下の邂逅 ③

「さっさとしないか!」

 あきらめに支配され、思考するのをやめた頭の代わりに、身体だけが言われるがままに動く。しろそでを脱いで胸元に抱くと、翁に背をさらした。これから襲ってくる痛みに耐えるべく、白小袖の布を強くみ締める。

「この出来損ないが!」

「っ、う……」

 ぱしんっと鞭が肌を打ち、かぐやは声にならない悲鳴をあげた。しやくねつ感と共に切るような痛みが背に走り、冷や汗が額ににじむ。全身はこわり、涙が込み上げてきた。

「誰のおかげで、ここまで生きてこられたと思っている!」

「うっ……っ、う……っふ……」

 何度も何度も鞭が振り下ろされた。あまりの激痛に布を嚙み締めていても、口の隙間から悲鳴が漏れる。その間、媼は何事も起こっていないかのように、かぐやが脱いだ着物を畳んでいた。

 これは当然の報い。化け物である自分を育ててくれたふたりになにも返せていないばかりか、迷惑ばかりかけてしまうことへの……。この罰をきちんと受けたら、いつかふたりは許してくれるだろうか。愛してくれるだろうか……。

「おじいさん、背中だから見えないとはいえ、傷は浅めにお願いしますね。初夜までには治さないと、傷ものはいらないなんて追い返されでもしたら大変ですからね」

「そのときは体調が悪いとでも言って……ふんっ、傷が治ってから嫁に出せばいい……ふ!」

 鞭を振るいながら翁が言うと、

「それもそうですね」

 媼は茶の間での会話のような返事をする。痛みに意識が飛びそうになる中、かぐやの胸には木枯らしが吹いていた。

(いっそこのまま気絶してしまえたらいいのに)

 納屋に閉じ込められていた頃から、鞭で打たれるのは日常茶飯事であった。従順に機嫌を損ねないように立ち回る。そんなすべを覚えてからは回数は減ったものの、予測できないところでげきりんに触れてしまうこともある。そうなると、あとはどれだけ弁解しても意味がない。ふたりの気が済むまで耐えるしかないのだ。

 だが、なにより痛いのは心だ。心のかばい方だけはいまだにわからず、かぐやは苦痛から逃れるように目を閉じる。底のない闇の中に自分が落ちていくところを想像するのだ。こうやって感覚を切り離さなければ、この地獄のような時を乗り切れない。

 それから三十回目の鞭打ちが終わったところで、ようやく解放されると、媼はやっとかと言わんばかりに自分の肩をみながら立ち上がった。

「そこのおけの水でしっかり身体をきなさい」

 かぐやがじっと痛みに耐えている間にみに行ったのだろう。水の入った桶が前に無造作に置かれていた。

「わかり……ました……」

 白小袖で胸元を隠しながら、ゆっくりと身体を起こす。身も心もすり減って声にも力が入らない。

「この着物を試しに着てもらおうと思っていたのに、血で汚れてしまうから、すぐには無理そうね」

 媼はぶつくさと文句を言いながら、新しい錠を格子の戸に取り付ける。

「では、私はかざり職人を待たせていますから、行きますよ。お前の着物に合う髪飾りを作ってもらわないとならないのに、時を無駄にしましたね」

 小言を述べながら錠の鍵を閉めると、媼は翁と部屋を出ていく。ひとりになると、かぐやは重い身体を引きずるようにして桶に近づき、中のぬぐいで身体を拭いた。

 媼は着物の心配はしても、かぐやの心配はしない。ふたりが自分を見てくれないのは、愛してくれないのは、かぐやが人間として出来損ないだからだ。

『この出来損ないが!』

『誰のおかげで、ここまで生きてこられたと思っている!』

 頭の中で翁の怒声がこだまして頭痛がする。鞭で打たれている間、興味なさげに着物を畳む媼の顔がまぶたの裏にこびりついて離れない。

『わしらがこんな汚い手を使って金を稼がなければならんのは、誰のせいだ?』

 自分の存在がふたりを苦しめている。なのにいつか愛してくれるかもしれないなんて、自分の罪深さを思い知っても足りない。他の誰でもなく自分が唯一の家族を不幸にしたというのに。

 身体を拭く手も徐々にかんまんになり、やがて止まる。うつむいた拍子に、つうっと涙が頰を伝った。

「申し訳、ありません……」

 目を閉じて恐怖や痛みを切り離して、あらがうことをやめて……なにも感じない人形になって耐えるしかない。罪から逃れて死ぬことすら、自分には許されていないのだから。

「かぐや姫」

 暗闇に閉じこもっていると、みみみのある声に呼ばれた。重い瞼を持ち上げれば、に人影が映る。

 慌てて白小袖をまとって「どうぞ」と返事をすれば、麻の葉柄のむらさきほうと同色のはかまを着た男が中に入ってきた。ゆるく癖がついた紫がかった黒髪は腰まであり、ひとみはかぐやと同じで珍しい金色。そのれいな顔立ちで微笑みかけられると、によしように見間違えそうになるが、体格は男らしくがっしりしている。

 とお年上の彼は媼がひいにしている錺職人だ。ぐしかんざしを作っていて、かぐやが裳着の式を済ませたあとくらいの頃からこの屋敷に頻繁に出入りしている。

れいげつさん」

 彼は子供の頃に親に捨てられたため、かばねがない。生きる術を得るために見よう見まねで始めた簪作りは、今や隠岐野のらくでも大好評だそうだ。

 くにに一か所ずつ置かれている花楽屋は、料理やしようの歌舞でもてなす貴族ようたしの店。花娼は華やかな衣装に身を包み、座敷を盛り上げる芸者を指す。芸事に秀で、文学などの教養が必要とされる女の花形職だ。貴族に気に入られ、あいしようとなる者も多いらしい。

 零月は人当たりもよくじようなので、仕事で花楽屋に行くたび、花娼の女が帰したがらないのだそう。彼はそんな格式ある花楽屋があいする錺職人だが、捨て子で平民の出だ。その生い立ちゆえに、貴族に嫁がせたいかぐやのそばに彼がいるのを、おきなおうなは嫌いそうなものだが、すっかり気に入られている。

 魔性の魅力とでもいうのだろうか。彼を目にした者は男女問わず皆、彼に魅せられるようだ。幼い頃から彼を知るかぐやですら、ときどきはっとすることがある。

「つれないですね、かぐや姫。ふたりのときは零月兄さんと呼んでほしいと言いましたのに」

「あ……はい、零月兄さん」

 本気で残念そうにする彼を見たら、自然と頰が緩んだ。

 もちろん血のつながりはないが、歳の離れたかぐやを本当の妹のように可愛がってくれる人だ。

「姫にそう呼ばれると、出会ったばかりの頃を思い出しますね」

 零月との思い出はかぐやの胸を温かくする。あれはそう、長く閉じ込められていた納屋を出たばかりの頃のこと。

 あやしの姫、妖影かげき──。周りにはかぐやを忌み嫌う者たちしかおらず、おかしな行動をとれば翁や媼にもその矛先が向く。そうなればまたむちたたかれ、冷水を浴びせられる。自分を傷つける者しかいない外の世界は、恐ろしくてたまらなかった。ゆえに、外から来た人間である零月に対しても怯えていた。そんなかぐやに、零月は讃岐家に来るたび根気強く外の世界の話をしてくれた。

「零月兄さんはおじいさまたちに内緒で、外の世界の甘味や景色を描いた絵、書物……色々な物を差し入れてくれましたよね」

「それくらいしか、できなかったものですから」

 申し訳なさそうに肩をすくめる零月に、かぐやは首を横に振る。

「それくらいなんて、言わないでください。この屋敷から出られない私にとって、零月兄さんからの贈り物は外の世界を知る唯一の手段だったのです」

 特に書物は人の世の常識を知ることができ、なによりつらい現実から逃避できるお守りのようなものでもあった。

「新しい世界を見せてくれた零月兄さんは、異国の風のようです。感謝しています」

 兄と呼ばせてくれて、心のりどころでもある彼は、人が怖くてたまらなかったかぐやが唯一気を許せる人だ。

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