魔法の杖

川本 薫

第1話

 1年前の10月31日、俺は明け方、背中とみぞおちに違和感を感じて目が覚めた。病は気から──、気のせいだ、たいしたことじゃないと自分に言い聞かせて出勤した。その日の俺の仕事はバックヤードの棚に置いてあるストックの棚卸しだった。俺の体調の悪さが顔色にも出てたのか、バックヤードの隣、試着室担当だった早瀬さんは『大丈夫? 』と何度もドアを開けて俺に聞いてきた。そのたびに『大丈夫です』と答えて自分に気合だ、気合、痛みなんて気のせいだと言い聞かせた。確か昼休憩前だった。えっとどこまで数えたんだっけ? ヘインズの棚までか? とTシャツの数を数えようとしたところまでは覚えていた。突然、身体に差し込むような痛みが出て目が覚めたとき、俺は救急車で病院に運ばれる途中で早瀬さんが俺をじっと見つめていた。

「よかった!! 本田君、目が覚めました」

 身体に揺れを感じながら救急隊の質問に答えた後、早瀬さんはまた俺の顔を覗き込んで

 「本田君、こんな時に本当に申し訳ないけど、誰か付き添いを呼べる? 私、息子がいてどうしても5時半までに帰らなきゃいけないんだ。本当にこんな時にごめん」

「大丈夫です。両親に連絡するんで」

 結局のところ、早瀬さんがいつ帰宅したのかもわからず病院に着いてからは担架で2階に運ばれて次から次へと検査検査だった。救急隊から連絡をもらって大慌てで病院にかけつけてきた母も俺自身もこれは命に関わる大病だと心がヒンヤリとしていた。検査を終えて夕方、自分の番号が待ち合いの掲示板に表示されて診察室のドアを開けると先生はパソコンの画面を見ながら『尿管結石です。自然に石が尿と一緒に出るのを待つだけです』と予想外のことを口にした。母は『本当に尿管結石ですか? 』と先生にしつこく聞いた。記憶が飛ぶほどの痛みだったのに、入院することもなく母とその日はそのままタクシーで実家へ帰宅した。タクシーの中から大通りを1列になって歩く『狐の嫁入り』の仮装をした集団を見た。『なにあれ? 』母が声を出すと運転手が『今日はハロウィンなんですよ、さっきはドラキュラの仮装をしたお客様を乗せました』と母に答えた。

「何が楽しんですかね? 」 

「いや、楽しいと思いますよ。生きていると自分のイメージって自ずと自分でも型を作ってしまうじゃないですか? 普段の自分とは別人の誰かになりたいっていうのはわかります」

「そんなもんですか? 」

 母と運転手のやりとりを聞いていたらあっという間に実家についた。とりあえず、自分の部屋に置きっぱなしにしてる部屋着に着替えて母が冷蔵庫から取り出した経口補水液を飲みながらリビングのソファーに横になった。

 鞄からスマホを取り出すと店長やスタッフたちからラインのメッセージが届いていた。店長は大事を取って休んだほうがいいと明日から3連休にしてくれていた。

 そうだ、早瀬さん!! そう思って普段はほぼやりとりすることのない早瀬さんにメッセージした。

 ──早瀬さん、今日はありがとうございました。息子さんのお迎え、大丈夫でしたか? 

 早瀬さんから返事が届いたのは深夜前だった。

 ──もう大丈夫なの? バタンって音がした時はびっくりして倒れてる本田君見た時、実はみんな泣いてたんだよ。

 ──本当に心配かけて申し訳ないっす。


 メッセージのやりとりはそこで終わった。


 朝礼で店長から『11月末までにクリスマスや年末の勤務の希望表を提出してください』と話があった日、早瀬さんは自分の勤務時間が過ぎたあとで店長に話があると声をかけていた。俺はサイズ欠けの商品を確認するためバックヤードに入った時、

「どうしても息子を預かってもらえるところが見つからなくて冬休みは私が家にいないといけなくて──」

「早瀬さん、実家は? 」

「もう両親ふたりとも亡くなってるんで」

「そう。でもこの辞表は少し保留にしとく」

 2人の会話が聞こえてきた。

 「早瀬さん、大変すっね」

 俺は店から出る早瀬さんに話しかけた。

「そっ。息子が小さいうちは本当にね。すぐに体調も崩すし。私が倒れたらどうなるんだろ? ってたまにどっと不安が押し寄せるけど」

 結婚したことも親になったこともない俺にはわからない気持ちだった。

「そうだ、早瀬さん、この間、迷惑かけたでしょ? だから早瀬さんの都合が悪い日、俺の実家で息子さん預かりましょうか? 」

「無理無理無理!! 彼でもないのに、ましてや息子と話したこともないのに本田君、そんなに容易く子供を預かるなんて言っては駄目だよ。うちの裕翔(ゆうと)なんて本当に落ち着きがないし、わがままだし、疲れるだけだよ。それに何より本田君の両親がびっくりするよ。でも気持ちだけはありがとう。受け取っておくよ」

「余計なことかもしれませんが別れた旦那さんとかに預かってもらうとかは? 」

「それも無理だね。無理というかそれをするぐらいなら私が仕事を休む」 

 俺は実家のすぐ近くのワンルームマンションでひとり暮らしをしていた。実家にずっといると、自立できなくなると両親から追い出されたようなものだった。歳は俺と変わらないはずなのに、もう7歳の子がいるんだ──。悪気なく

「早瀬さん、もしかしてヤンキーだったんですか? 」

 言ってしまった。

「何? 急にそんなこと? 」

「俺と歳変わらないのにもう7歳の子がいるんだと思ったら18歳で生んだんだなって、すみません、余計な詮索をして」

「はあっ、慣れてるからいいけどね、本田君にまで言われた」

 早瀬さんは苦笑しながら、でもどこか怒っているようにも見えた。それから早瀬さんとはプライベートな話をすることはなかった。


 11月半ば、早瀬さんが辞めるのではないか? とスタッフの間で噂が流れた。そんな中、日曜日、早瀬さんが息子さんと店舗に寄ったときだった。なぜか、息子の裕翔くんが

「お兄ちゃん、髭がある!! 」

と服を畳んでいた俺の顔をまじまじと見てきた。

「裕翔、お兄ちゃんはかっこいいでしょ? お髭があっても怖くないでしょ? 」

「うん、そうだね。僕、お兄ちゃんみたいに髭がある大人になりたい!! 」

 なぜか、裕翔くんに気に入られてしまった。

「裕翔くんに憧れてもらってお兄ちゃんは嬉しいな」

「じゃあ、お母さんと一緒にどこか連れて行ってくれてもいいよ!! 」

「連れて行ってくれてもいいよ? 」

「だってお兄ちゃん、僕と一緒にいたいんでしょ? 」

 それを聞いていた周りのスタッフはクスクスと笑っていた。

「裕翔、お兄さんを困らせるんじゃありません」

「ありま千円!! 」

「なんだよ? ありま千円って? 」

「本田君、仕事中にごめんなさい。さあっ、裕翔、帰るよ」

「お兄ちゃん、都合の良い日をお母さんに伝えといて。今度遊ぼうね!! 」

「了解!! 」

 7歳の子供にタジタジになりそうだった。そして、『今度遊ぼうね』こういう時、社交辞令なのか、本気として受け止めるのか一瞬、悩んだ。早瀬さんからなにか言われるまではそのままで──と思っていた。


 実家で晩御飯を食べてる時、母に聞いてみた。

「ひとりで子供を育てるのって大変? 」

「なに? 」

「いや、俺と同じ歳でひとりで働きながら小学生の子供を育てている同僚がいて」

「子育てって言葉だと一括りでも千差万別、厳しいとか楽とかじゃなくて本当に人それぞれ環境が違う。よく言うじゃない? 『子どもの笑顔を見てると救われる!! 』って。でもね、そんな言葉の呪縛に苦しんでる人もいる。その時々で私だって想(そう)がしんどいことも今だってあるしね」

「俺がしんどい? 」

「だって良くも悪くも何も考えてないでしょ? それがほらっ彼女ができてあっという間に結婚なんかして父親になった時、子供が子供を育ててどうするの? って想像しただけで胸が痛くなる」

「俺のことなんて心配してもらわなくても結構!! 残念ながら彼女もいません!! 」

 俺は母の言葉に少し苛立って実家から自分のマンションへと帰宅した。

 冷蔵庫の扉にくっつけてある今月の勤務表を改めて見た。25日土曜日が早瀬さんと同じ休みだった。


 ──お疲れ様です。突然ですが、早瀬さん、25日、裕翔くんと動物園へ行きませんか? 


 それだけ。返事がきたのはやっぱり深夜前だった。


 ──お疲れ様です。ありがとう。でも、なんだろ? 同情とか気まぐれだったらそういうのやめてくれるかな? 裕翔が傷つくから。会いたいと思って勝手な都合で会えなくなる未来をできるなら削除したいんだ。 


 少し怒ってるようにも思えた返事で俺は


 ──了解です。


 とだけ返事した。


***


「店長、ハロウィンのかぼちゃのランプ発注どれぐらいかけましょうか? 」 

「すぐクリスマスがくるし、うちの店舗は10ぐらいでいいんじゃないかな? 100均で揃える人も多いだろうし」

「まあそうですよね」


 店長が転勤になり、退社する者や入社した者、店舗そのものは変わらないように見えても去年とは働いているスタッフは随分と変わっていた。バックヤードでひとりが黙々と在庫管理をするのが好きだった俺が店長に抜擢されたのは9月だった。早瀬さんは噂通り、去年の11月末で退社していた。


 クリスマスツリーや飾りつけのマスコットが入荷する中、少し茶が混じったようなオレンジのハロウィンのグッズも少しだけ店頭にディスプレイされていた。ハロウィンといえば、俺にとってはじめて救急車で運ばれた日、あまりいい思い出じゃない。救急車の中で目が覚めた時、好きとか嫌いとか意識したことがなかった早瀬さんが俺の顔を覗き込んでいたのを今でも時々思い出していた。キスされたわけでもないのに。


 発注したかぼちゃのランプが入荷した週末、

「母さん、このかぼちゃ買ってよ。可愛いよ。ランプが付くみたいだし」

 店の前を通り過ぎようとしていた親子連れの男の子が足を止めた。

「こんにちわ。可愛いでしょ? そのランプ」

 俺が声をかけると

「本田君、店長になったんだね? 」

 声をかけてきたお母さんの顔をよく見ると早瀬さんだった。

「早瀬さん? 気づきませんでした」

「でしょ。化粧もしてないし、アクセサリーもつけてない。髪の毛もベリーショートにしたしね。裕翔、ほらっ裕翔が好きなお兄さんだよ」

「あれ? 髭は? 髪の毛も切った? 」

「裕翔くん、久しぶり。そうなんだ、お母さんと一緒で裕翔くんと会ったときより少し変わったかな? 」

「ちぇっ、昔のほうがかっこよかったのに」 

「こらっ、裕翔!! 」

「ああ──、なんか素直な子供に言われるとショックもマシマシですね」

「でも凄いよ!! 店長だなんて」

「いや早瀬さんがいたら早瀬さんが店長ですよ。俺、自分でもなんで店長に抜擢されたのかわかってないですし、そのうち降格されるじゃないか? って思ってます」

「そっかぁ、じゃあ降格されないように、このかぼちゃ買うね」

「ありがとうございます」

 早瀬さんが会計をしている間に裕翔くんは服を畳む僕の隣で待っていた。

「ねぇ? お兄さん、ここには魔法の杖は売ってないの? 」

「魔法の杖? 」

「友達から言われたんだ。僕にはお父さんがいないからお母さんがひとりで僕を支えてる。だからハロウィンにお母さんに魔法の杖をあげるといいよ。お母さんがしんどい時に杖が支えてくれるって」

「お兄さんが浮かぶのはハリーポッターの杖ぐらいかな? 」

「それって買えるの? 」

「確か、USJに売ってるんじゃないかな? 」

「USJ? それってアメリカ? 」

「いいや日本の大阪だよ」

 話の途中で会計を終えた早瀬さんが裕翔くんのところにもどってきた。

「お母さん、大阪に連れてって!! 」

「何? お兄さんから何か聞いたの? 」

「大阪のUSJに魔法の杖が売ってるって。魔法の杖があればお母さんも幸せになれるから」

「裕翔、魔法の杖はね、物じゃない人よ。お母さんにとっての魔法の杖は裕翔でもあるし、こうして裕翔と話してくれるお兄さんだって魔法の杖なんだからね」

「母さん!! そういうのはもういいんだよ。だって誰も助けてくれなかったじゃん!! お母さんや僕がひどいことされてた時、誰も助けてくれなかったじゃん」

 裕翔くんが何を言ってるのかわからなかった。

「裕翔、ポテト買いに行こっか? 」

「ポテトじゃない。僕がほしいのは魔法の杖だ」

 早瀬さんは裕翔くんを店の前のベンチに座らせて何か話しているようだった。

「店長、もしかしてあの方のこと好きじゃないですか? 」

「三田さん、急になんだよ? 」

「なんか、お父さんの顔してました。あの子供さんと話してる時。私、これでも感がいい方なんですよね!! 」

 三田さんはまだ20歳だった。俺もまだ26歳。だけど三田さんのような無邪気な若さはもう自分にはないような気がした。もちろん早瀬さんにも。


 仕事を終えて普段は覗かない上の階のおもちゃ売場を覗いてみた。ハロウィン用のドレスやマント、お菓子の詰め合わせ、それに魔法の杖ではないけど仮装用の杖も売っていた。俺はマントと目がついたオレンジのトンガリ帽子、そして杖と詰め合わせのお菓子を買ってプレゼント用にラッピングしてもらった。


 ──早瀬さん、今日はありがとうございました。大したものではないんですけど、裕翔君にプレゼントがあるんですけど


 俺がメッセージを送ると珍しくすぐに既読がついて


 ──今、まだ実はモールにいるの。映画館のすぐそばの階段のところ。


 ──じゃあ、すぐに行きます


「あっ、お兄ちゃん!! 」

「裕翔くん、杖がさ、売ってたんだよ。だからこれはお兄ちゃんからのプレゼント。少し早いけどハロウィンだ」

「お母さん、もらってもいい? 」

「本田君、ありがとう。遠慮なくいただきます」

「やったあ!! 杖があれば大丈夫だ!!

でもさ、お母さんは物じゃなく人だって言ったんだよ。だからお兄ちゃんも僕たちの仲間になってよ」

「仲間? 」

「そう仲間」

 俺と裕翔くんが話す間、早瀬さんは窓の外を見ているようだった。

「なんか、ごめんなさい。出しゃばりすぎましたか? 」

「ううん。裕翔がよく話すんだなぁと思って」

「当たり前だよ。僕はお兄ちゃんがお父さんになればいいと頑張ってるんだから!! 」

「えっ? 」

「なんじゃそれ? 」

「だってばらすよ。怒らないでね。お母さんのスマホの画面、時々、お兄ちゃんの顔になってる」

「裕翔!! 」

「俺の顔? 」

「お兄ちゃん、服着て写真載せてるでしょ? 」

「まあ裸じゃないよ」

「だいたい、お母さんが置きっぱなしのスマホを僕に取ってきて!! っていう時はなぜかお兄ちゃんの顔が画面に写ってる。僕は最近のより髭がはえてモジャモジャ頭の頃が好きだけど」

「裕翔!! いい加減にしなさい。お母さんはね、お兄さんの顔が好きなの。お母さんにとって本田君は推しのようなものなの」

「推し? 」

「だから、ハロウィンの日、倒れた時、救急車に自ら志願して乗ったし、その間もずっと顔を見てたの。もう今だから言えるけどね」

 複雑な気持ちだった。推し……ってどの立ち位置だ? 一瞬、沈黙になった時、裕翔くんが俺のあげた袋をあけて、杖を取り出した。


『かなえよ、お母さんが推しといれますように、かなえよ、かなえよ』

 笑ってはいけないと思いながら、俺も早瀬さんも裕翔くんの真剣なその姿を見て笑っていた。

「裕翔、叶えてくれるといいね、魔法の杖が!! じゃあ、本田君、本当にありがとう」

 えっ? この状態で俺は置き去りですか? 裕翔くん、なんか言え!! と思ったのに

「じゃあ、お兄ちゃん、バイバイ」

とそのままエスカレーターでふたりは降りていった。今日はハロウィンの日ではなかったのに、去年とは違う意味でろくでもないハロウィンの記憶に残りそうな夕暮れだった。


 そして、今年のハロウィンの日、店長になった俺は絶対に休むことができない棚卸しの日だった。誤差によっては店長から降格になることもある恐怖の日。私服警官が見回りをしてくれてるとは言え、万引きを完璧に防ぐことはできない。ハロウィンのことより、棚卸しの作業に追われて結局、モールを出たのは夜10時過ぎていた。帰り道、歩きながらスマホを取り出した。トップ画面に早瀬さんからのメッセージが表示されていて慌てて画面を開くと裕翔くんが仮装している写真が添付されていた。

 そして

 ──本田君、お疲れ様です。裕翔は今日、本田君にプレゼントしてもらった帽子やマントを身に着けてみんなで友達の家を順番に回ったそうです。本当にありがとう。もう遅いけどカレーならあるよ。

 

 俺はなんと裕翔くんの写真に気を取られてメッセージをよく読んでいなかった。その上、写真に満足して返信もしてなかった。このメッセージに気づいたのは冬のセールで店にコートを買いに来た早瀬さんに『ごめんね、裕翔共々、迷惑をかけて』と謝られてからだった。

「迷惑? 」

「うん。裕翔にプレゼントもらったから調子にのってハロウィンの日にカレーならあるよ、って本田君を誘うようなメッセージ送ってしまった。返信がなかったから嫌われたんだなと思って本当は謝ろうと思って今日来たの」

「えっ? 誘うとかカレーって何? 」

「もしかしてちゃんとメッセージ読んでなかった? 」

 ああ、そうだ棚卸しで疲れていて多分、写真だけ見て画面を閉じたんだ。でも俺は

「行かなかったと思います。多分、読んでいても──」

と言ってしまった。店長になってだんだんと余裕がなくなっていた。早瀬さんと付き合ったとしても転勤があるかもしれない。それに裕翔くんの父親になる覚悟も正直なところ自分ではわからない。考え始めたから優しい答えが出せなくなっていた。

「ごめんなさい。早瀬さん」

「ううん、本田君、こちらこそ、ごめんね」

 早瀬さんは試着しようとしていたコートをラックに戻して店から出た。


***


「想、わかる? 想? 」

 目が覚めたとき、今度はベッドの上で見知らぬ白い天井と父と母が見えた。一瞬、自分は死んだのかと思ってもう一度目を閉じてすぐに目を開けた。

 自分では『俺? 』と言えたつもりなのに言葉がうまく出てこなかった。

「想、あなた倒れてたの。トイレで。すぐにお客様が見つけて対応してくれたから」

 幸いなことに手も足も動いた。過去の記憶もちゃんとあった。それでも頭の中で紐が絡まった感覚があって特に話す時、言葉がうまく出て来なかった。気持ちだけで話す感覚、自分が猫や犬になって飼い主をじっと見てるようなそんな感覚が続いた。


 9月15日に倒れてから2週間が過ぎようとしていた。郊外のリハビリセンターに転院することが決まった。久しぶりに父も顔を見せに病室へやってきた。

「想、マンションは解約した。会社には事情を話して休職扱いにしてもらってる。退院してもしばらくはうちで静養して将来のことはその後でじっくり考えればいい。今はとにかく時間をスローにするんだ。焦るなよ」

 父の言わんとすることは理解できた。でも父に自分の意志を伝えようとすると何かが絡まって言葉にならない。『はい』と返事をするように頷くだけだった。


 転院したリハビリセンターは郊外にあった。午前中も午後からも小学生のドリルのような問題集を開いて簡単な計算をしたり、文字をなぞるように書いてゆくだけだった。 

 俺、何年前に戻ってるんだよ? 気持ちだけが焦って焦って声にできない言葉は心の中にどんどん蓄積していた。

 診察とリハビリの時間以外は庭を散歩した。個室じゃないから仕方ないことだったけれど他の入院患者の声がたまらなく嫌だった。まだスマホを見る気力もなく毎朝、充電はするものの電話の着信音がならない限りは置きっぱなしだった。電話をしてくるのは母親だけ。くも膜下出血で倒れたと母が伝えているのだから、俺自身が簡単な会話しか話せないと知っていたのだろう。 

 生まれて初めてだった。落ち葉をまじまじと見たのは。風に吹かれて舞って土の上やアスファルトの上に落ちる。足で踏むことさえ罪悪感など感じたことはなかった。それでも命だったのだ。どう足掻いても自然に勝てないと思うのは、じっと見ていると落ち葉さえ同じ色はなかった。言葉はなくともずっと見ているとその色にはチカラが宿っているような気さえした。


 その日は昼食を終えて3時のリハビリの時間までいつものように散歩をしようと庭に出ていた。ちょうどロビーから外に出ようとしたときバスが来るのが見えた。バス停近くのベンチに腰をおろしてバスから降りる人を見ていたら、母親とその母親と同じ背丈の男の子が降りてきた。父親が入院でもしてるのだろうか? 男の子が手にしていたハロウィン仕様のかぼちゃのイラストが書かれた紙袋を見てハッとした。よく顔を見てみると早瀬さんと裕翔くんだった。でもその時はすんなりと名前が出てこない。話しかけたくてもはなしかけることができなかった。早足で院内へ入ってゆく2人を追っかけた。だけど早足のつもりが全然、早足ではなく2人はあっという間にエレベーターに乗っていた。

 3時まで時間はある。玄関近くの外来受付の前に置かれていたソファーに腰かけた。しばらくしてエレベーターから降りてきた2人は目の前のソファーに荷物をおいた。

「裕翔、トイレは? 」

「僕はお母さんのあとに行くから、お母さん先に行って。僕は荷物を見ておくから」

「じゃあ先に行ってくるね」

 早瀬さんが座っている俺の横を通り過ぎる。気づくわけもない。立ったまんまでトイレへと向かう母親の姿を見ていた裕翔くんと目があった。

「こん…… 」

「こんにちわ」

 はっきりと挨拶してくれた裕翔くんが俺に気づくわけもない──、

「魔法の杖!! 思い出した!! お母さんと一緒に働いていた魔法の杖のお兄さんだ!! 」

 うんうん、俺は頷いた。

「お兄さんも骨が折れたの? 」

 俺は首をふった。


「裕翔、ありがとう」

 早瀬さんがトイレから戻ってきて俺に会釈した。

「お母さん、魔法の杖のお兄さんよ。お母さんが好きな」

 裕翔くんの声を聞いて俺の顔を見る。

「本田君? なんで? 」

「くも……まっか」

 早瀬さんはすぐにわかってくれたようだった。そして

「そうだ、本田君、ハロウィンは今日で終わるけど、これかぼちゃのランプ、小さくて可愛かったから思わず自宅用にも買ったの。帰りにまた買うから本田君どうぞ」

「駄目だよ、お母さん、お兄さんには強力な魔法の杖をプレゼントしなきゃ!! 」

 裕翔くんの言葉に久しぶりに俺は笑った気がした。

「裕翔、とにかくトイレ」

「わかったよ」

 裕翔くんがトイレに行ってる最中、早瀬さんは何も話さなかった。

「か──、た、べ、」

「わかった。カレー、今度作って待ってる。木曜日、ひとりでゆっくり来てもいい? 」

 俺はうなづいた。

 トイレからもどった裕翔くんは

「お母さん、まだ話したかったら話していいよ? 」

「大丈夫。お母さんは裕翔がいない日にゆっくりと会いにくるから」

「せこっ、でもお兄さん、早く治るように魔法の杖に祈っとくね」

 ふたりは俺に手をふってバスに乗った。

 今日がハロウィンだということを忘れていた。掌ほどの小さなかぼちゃのランプを部屋に戻って灯してみた。小さな小さな灯りだった。置きっぱなしのスマホを手にしてそのランプを写真に撮った。


 救急車で運ばれたハロウィン、カレーならあるよ、のメッセージに気づかなかったハロウィン、そして今、病室で迎えているハロウィン、だけど早瀬さんと裕翔くんに再び会えたハロウィン。

 

 3時、いつものようにリハビリに連れてゆくため看護師が俺を迎えに来た。

「まあ、可愛い、かぼちゃのランプ!! 」

 俺は頷いた。

 

 差し込んでいたランプのコンセントを抜いて窓の外を見た。

 

 ──木曜日、ゆっくり会いにくるからね。

 一瞬、耳元にさっき聞いたはずの早瀬さんの声がまた聞こえてきた気がした。


 ほんとうにたいせつなひと

 ちゃんとあえる


 俺は無意識にリハビリのドリルの空白にそう書いていた。


 そして早瀬さんはその横に


 まほうのつえは

 きっと想いなんじゃないかな?


 そう記していた。


 それを見つけたのは残念ながら俺ではなく床に落としたドリルを拾ってくれた看護師だった。


 11月、退院する日、俺と一緒にバスを待っていたのは早瀬さんだった。

 


 

 

 

 





 

 

 


 


 

 

 

 


 


 


 


 


 




 


 


 








 







 

 



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魔法の杖 川本 薫 @engawa2023

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