第13話 出版された本全部
西原のTESSAという店は和食の創作料理のお店で、中に入って郡山さんの名前を言うと、奥の個室に案内された。
約束の15分前に行ったにも関わらず、郡山さんは既に店で待っていた。
「制作部の楓月です」
「編集の郡山です。座って。料理はもう頼んであるから」
郡山さんの向かいの席に座る。
「飲める?」
「少しなら」
料理が次々とテーブルを埋め尽くして行く中、ビールも運ばれてきた。
慣れた手つきで郡山さんがビール瓶を手に取ると、わたしのグラスに注いで、その後自分のグラスを一杯にした。
「本当はこれコースなんだけど、途中人が入って来るのが嫌だったから全部一度に運んでもらった。まぁ、まず飲んで」
「はい」
中居さんが部屋を出て行くのを確認してから、郡山さんが話を始めた。
「久遠遥が、年齢・性別・本名・顔、全部非公表なのは知ってる?」
「知ってます」
「塚地部長は他部署の君ならいいと思ったみたいだけど、久遠遥とは、どんな理由があろうと絶対に素性を明かさないという約束をしている。だから会社でも会ったことがあるのは僕だけ。君も絶対に他言しないで欲しい」
「心配されなくても大丈夫です。わたし久遠先生には会ってませんから」
郡山さんは少し驚いた顔をした。
「じゃあ、誰にボイスレコーダー渡してもらったの?」
「ハルキさんという方です」
「ハルキ?」
「はい。久遠先生はいらっしゃいませんでした」
「ハルキがそう言ったの?」
「はい」
「君、テレビはよく見る方?」
「あまり見ません」
「歌番組とかも?」
「見ません」
「そう……」
「でも、申し訳ありませんでした」
「何?」
「サインをもらってしまいました」
「サイン?」
「はい。ハルキさんが久遠先生に頼んでくださって」
「サインくれたの?」
「はい」
「本人が書いたんならいいよ」
「今日、そのことで注意されるんだと思っていました」
「いや、そんなことは別に。ハルキって苗字は言ってた?」
「教えてもらってません」
「他には何か言ってた?」
「いいえ……あっ」
「何?」
「久遠先生の恋人ではないって言われてました」
「ああ、うん。今回のことは僕の取り越し苦労だったみたいで良かった。わざわざ呼び出して悪かったね。楓月さん、料理食べて」
「はい」
「お礼も遅くなってしまった。僕の忘れ物を取りに行ってくれてありがとう」
「いいえ」
郡山さんが食事に手をつけたので、わたしも箸を持った。
「サインって、色紙に?」
郡山さんは世間話でもするように、料理をパクつきながら話を振ってきた。他に話すこともないからなんだろうと察しがついた。
「いえ、本に」
「持って行ったの?」
「いいえ! サインが欲しいなんて言ったらダメだってわかってますから。サインの書かれた本をいただいたんです」
「へぇ。新刊?」
「いえ」
「どれ?」
「全部です」
「全部って?」
箸を持った手を止めると、郡山さんはわたしの顔をまじまじと見た。
「もしかしてこれまで出版された本全部ってこと?」
「はい」
「嘘だろ……それ、ハルキが用意してたの?」
「はい」
「そっか……へぇ。そっか……」
郡山さんは何度も、言い聞かせるようにひとりで呟いていた。
その後も郡山さんは適度に話を振ってくれたけれど、わたしがそれを膨らませることができなくて、会話が上手く成り立たなかった。
それで、ほとんど話すこともなく、黙々と料理を食べた。
それでもここにあるものを食べ切れば終わりだと思うと少し楽だった。時間をあけて順番に料理が運ばれてきてたりしたら、間がもたない。
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