第9話 初めての朝と黒い影
そう、俺は結局ここに戻ってきてしまっていた。
一応言っておくが、俺は別にお姫様の事を慮ってここに戻ってきたわけじゃない。
ただ、今城の外に飛び出したところで何のアテも無ければ目的も無いってことに気がついただけだ。
俺にとってこの世界はまだまだ右も左も解らない未開の地、焦って闇雲に飛び回るよりも、もう少しここで情報収集をして出ていくのはこの世界で何をするのか、目標をはっきりさせてからでも遅くはないそれが賢明な判断だ。
そういう思惑があったから俺はこの場所に戻ってきた、ただそれだけ。断じてお姫様の為だとかそんなものではない。
その時、何を思ったのかは知らないがそっとお姫様の手が伸びてきてたかと思うと俺を抱き寄せてそのやわらかい胸元に強く押し付けられる。
急なことに少しばかり驚きはしたが、硬派な俺は女の胸に突然埋められる様なことがあっても堂々とした態度で文句を言ってやった。
「なっなななな、なにしやがんだテメェ、こら!」
実に堂々とした俺の反論に対して、なぜかお姫様は少し感極まった様子で。
「よかった」
と、目覚めたばかりのどこかかとろんとした声で一言そう言った。
「昨晩夢を見ました、守護竜様が私の前からいなくなってしまわれる夢。でもただの悪い夢だったみたい」
言いながら、きゅっと俺を抱く腕に少しだけ力が込められる。
本当に心底安心したようなその声に、俺は少しドキリとすると同時に、バツの悪い気分になった。
お姫様が本当にそんな夢を見たのか、それともあの時の事に気がついているのかそれは分からない。
ただなんにせよ、はっきりしているのは俺はここにこうして残ってしまったという事。
突然竜の姿で知らん世界に転生させられたと思ったら守護竜だなんだと祭り上げられて、巫女だなんだと言いながら世話を焼くお姫様は鬱陶しくて。
正直、俺にとってはなんもかんも煩わしくてしょうがない。
それでもだ。仕方なくとはいえこうして少しの間でも残ると決めた以上、少しくらい付き合ってやろう。
そう思って、俺は大人しくお姫様の胸に抱かれることを少しの間だけ妥協してやることにした。
✣
「嘆かわしい! 全くもって嘆かわしい!」
フェルム領へと向かう馬車の中で、クロイゲンは自身の前髪を仕切りに弄りながらそう言った。彼自身も気が付いていないことだが、髪を弄るその仕草は彼が苛立っている時にでる癖である。
「次代の守護竜があそこまで粗野で無礼者だとは。あんなのが国の象徴などとなんと嘆かわしいことか、そもそもなぜこのワタシがあのようなトカゲもどきに媚びへつらわなけばならんのだ」
苛立ちを隠そうともしない口調でぶつぶつと文句を口にするクロイゲンが怒りと怨嗟の籠もった視線を向かいの席へと向ける。
そこには黒い影が浮かんでいた。
比喩や例えなどではなく、黒い靄の様な得体のしれない何かががそこにはいた。
「……先日の話し、嘘はないのでしょうね?」
「ええ、もちろん」
影の中から、声が聞こえてくる。
「事が万事上手くいったならばその後はすべてあなたの好きにすればいい。フェルム領領主としての権力と才覚をもつあなたならきっと今以上の地位と名誉を手にできるでしょう」
黒い影から響く悪魔の囁きに、クロイゲンは瞳を閉じて熟考し結論を出す。
「分かった、話しを飲もう」
クロイゲンがそう答えた瞬間、口などないはずの黒い影がニヤリと笑う。
「かしこまりました。ですが、本当によろしいのですか?」
「今更何を。そもそもワタシは聖痕を持つというだけであのような女が王を名乗るなど、そのこと自体が気に食わなかったのだ。王は聖痕のありなしではなくワタシの様に高貴な血統を持つかどうかで決められるべきなのだ」
整った顔立ちをゆがめながらクロイゲンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、腹の内に抱えていた不満を口にする。
五つの国が一つとなって今の形となった南フィロール連合王国。
首都ドラグニルを要する旧フィロール王国領を囲うように存在する四つの領は、元々は別の国々だった。
それぞれの国の王族は現在では領主となり今もその地を治め、四貴族と呼ばれ国の運営にも関わってきた。
クロイゲンが治めるフェルム領は北西の国境沿いに位置し北東のクルーゲル領と並んでフィロール王国を護る砦として長年、北のデイン帝国に睨みを利かせる役割を担い、防衛の要というその重要性もあって他の四貴族よりも強い権威を持っていた。
フィロール王国において最高位はあくまで女王である。
しかし女王一番の勤めは巫女として守護竜に仕えることであり政の多くはその王配である国王が女王の代理として主宰を勤める事が多い。
歴代の王配はその影響力からフェルム領、クルーゲル領の領主の血縁から選ばれる事が多く、実際アンヌの伴侶であった前国王はクルーゲル家の人間だった。
その前王が死んだ今、次の国王は容姿、品性、教養、家柄も才覚も全てを兼ね備えた自分こそふさわしいとクロイゲンは自負していた。
にも関わらず、アンヌはいつまでも経っても次の王配を迎える事をせず、現在は国王としての公務も彼女が兼任している。
プライドの高いクロイゲンにとってそんな女王の態度は自身を軽んじられているようにしか思えず耐え難い屈辱以外の何物でもない。
彼女の生い立ちから起因する差別意識も相まって、それはもはや一方的な憎しみと敵意と言えるまでに至っていた。
下賤な女の分際でなぜワタシを受け入れようとしない。いったい何が不満だというのだ。このワタシがクルーゲル家の人間よりも劣っているとでも言いたいのか!
そんな考えに妄執しクロイゲンはアンヌへの不満と苛立ちを募らせる。
「トカゲの世話係は世話係らしく大人しく己の仕事だけしていればよかったのだ。見ているといい守護竜の神話なぞしょせん老人共が騙る御伽噺、ワタシが国王となった暁にはあんな畜生など国から排斥してくれる」
クロイゲンが暗い決意を滾らせる中、黒い影が言葉を続ける。
「では手駒はこちらで用意致しますので、あなたは事が上手く運ぶようお膳立てをお願い致します」
「分かった、できうる限りの事はしよう。そちらも万一にもしくじる事のないようにな」
「はい、もちろん。確実に――」
黒い影が揺らぎ空間へ溶けるように消えていくその刹那。
「――フィロール王国女王をあなたの前から排除して見せましょう」
不吉な言葉を残して黒い影は、最初からそこには何も無かったように、跡形もなくその場から消え去った。
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