其ノ十 茶碗

 ちょうどその頃、先生が普段診察室として使って居るみせでは、木居もくおり宣長のりなが先生と四ツ井よつい高蔭たかかげが二人きりで、差し向かいにお座りになって居りました。


「まあなんだ。一つ、茶でも」


 先生はわんてた茶を高蔭に勧めると、高蔭は、さりげないけれども大変美しい所作しょさで、その碗を手に取り口に運びました。そうした所も、良家の嫡男ちゃくなんとして育ち、室町むろまち時代から伝わる流派の茶の作法が、子供の頃から自然と身に付いて居る、高蔭の育ちの良さを物語るものでした。


「おなつさんの事だが……」


 先生がこうお尋ねになると、高蔭はしばらく黙り込んだまま、うつむいてじっと茶のおもてに浮かんだ濃い緑色の泡を眺めて居りましたが、二口目の茶を静かに口に運んだ後、意を決した様に訥々とつとつと、自分と、自分の子を産んだ夕顔の花のように可憐な町の小路こうじの女、お夏との馴れ初めについて語り始めました。



明日へ続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る