其ノ十 怒気

 奥様は、私と春庭様の顔を順番に見まわすと、何かを察した様な、物言いたげな御表情をされ、何かけがらわしい物でも見る様な目で私に一瞥いちべつをくれると、厳しいお声で、

「お優、遅いではないか! お客人きゃくじんがお待ちです。さっさと御本ごほん客間きゃくまに持って行きなさい!」

 と叱責されました。


 私は、奥様のご様子がいつに無く怒気どきに満ちていらっしゃるので、これは御本を届けるのが遅れた事だけをお怒りなのでは無いのだと思いました。


 女中部屋での噂話によれば、なんでも奥様自身は若い頃、奥様のお兄様のご友人であった木居宣長もくおりのりなが先生と恋仲になりましたが、それぞれにおいえの事情で別の方と一度ご結婚され、奥様の最初の旦那様が他界されたのを期に、先生はやはり若い頃の思い人である奥様のことを忘れる事が出来ず、ご近所の有力者の御令嬢であった先生の最初の奥様を離縁し、今の奥様とご再婚されたのだそうです。それ故に奥様は嫁がれた当初、木居家のお姑様や、ご近所の方々との折り合いを付けるのに、大変ご苦労されたのだと聞きました。


 そう言うお方であるだけに、ご自分の血を分けた最初のお子である春庭様には、周囲の誰もが納得の行く、嫡男ちゃくなんとしてのお立場に相応ふさわしいお相手をめとらせ、ご自分の様なご苦労をさせたくは無いと、強く思っておいでなのかも知れません。



明日に続く

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