第9章「星空の波動」
清浄な朝の空気が染み渡る暁の空。
いつものように、エンマは朝早くから木刀を振るって、剣術の修行をしていた。
エンマは、いつもなら、頭を空にして一心に木刀を振るうのだったが、その動きは、いつもと違い、何事かを考えている様子で、身が入っていなかった。
「やった!今日はまだ来てないぞ。」
そこへ、いつもよりも早く起きてきた蘭丸が嬉しげに呟いた。
蘭丸は、木刀を持って、そわそわと家の門のあたりをうろついたり、外をちらと見たりした。
「おかしいなあ…。」
いつまでたっても、蓮花が来ないので、蘭丸は首を傾げた。
「せっかく早く起きられたのに、これじゃあ…。」
「なあ、蘭丸。」
エンマが、難しい表情で蘭丸に聞いてきた。
「霊力って、一体何なんだ?」
「何だ?って、いきなり言われてもな…。考えたこともないな。昔から当たり前のように使ってるし。」
「俺にはよく分からねえ。心を動かすとか、心を使うってことが分からねえんだ。そもそも、心って何なんだ?」
エンマは頭を抱えてうーんと唸った。
「そう難しく考えるな。そのうち分かるさ。」
適当にそう答えて、蘭丸はがっかりしたように縁側に腰を下ろした。
「俺は、早く霊術を身に付けてえんだ!」
ぱたぱたと足音がして、蓮花が急いだように駈け込んできた。それを見て、蘭丸の顔がぱっと明るくなったかと思うと、即座に立ち上がった。
「おはよう、蓮花。」
「あっ、蘭丸。あのね、あんたにいいものを持ってきたのよ。そのせいで遅くなっちゃって。」
そう言いながら、蓮花は手に持っていた風呂敷包みを開き、重箱を取り出して蓋を開けた。
中には、ころりと丸くて白い大福餅が重箱いっぱいに入っていた。
「蓮花!もしかしてこれって…。」
「蘭丸の好きな苺大福よ。」
「わざわざ俺のために作ってきてくれたのか?」
蘭丸は、大福を一つ取って頬張りながら、満足そうに聞いた。
「苺を頂いたのよ。私一人じゃ食べきれないから。蘭丸の好物だしね。ほらっ、エンマも食べなさいよ。」
蓮花に大福を一つ渡されて、エンマはそれを受け取ったものの、気が進まないといった顔をした。
「俺、甘いもんは好きじゃねーんだよな。」
「大丈夫よ。餡子は入ってないから。苺は入っているけど。」
「苺?」
試しに食べてみると、大福餅の中に、赤い宝石のような果実が一つ丸ごと入っていた。
「食ったことねえな。こんなもの。別にうまくもねえが。」
「まあっ、失礼ねえ。せっかく人が作ってきたものを。」
蓮花は頬を膨らませた。
「いやいや、おいしいよ、蓮花。」
蘭丸は二つ、三つとうまそうに平らげていた。
「ああ、蘭丸。食べ過ぎよ。朝ご飯まだでしょ。もう終わり。」
蓮花は重箱をしまって、台所へ持っていった。
「朝からついてるなあ。早起きは三文の得だね。ハハハ。」
上機嫌で笑っている蘭丸の横で、エンマはじっと考え込んでいた。
稽古場へ行っても、エンマは子供たちを眺めながら、考え事をしていた。
今日は、フータも子供たちに混じっていたが、特に修行をしているわけではなく、同じ年頃の子供たちと一緒になって遊んでいた。
「今朝からずっと考え事してるわね。エンマらしくないんじゃないの。」
蓮花がエンマを見て言った。
「霊力って何なんだ?考えても分からねえよ。」
「そうね。そればっかりは、考えても無駄ね。」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ。」
「焦らなくても、自然と分かってくるわ。」
「俺は今すぐ分かりてえんだよ。さっさと霊力を身に付けて、霊剣を使えるようになって、あいつを倒したいんだ。」
「…そんな心じゃ、いつまでたっても霊力は身に付かないと思うわ。霊力は、心が何の感情にも囚われてない状態じゃないと、発現しないから。今のエンマでは、憎しみが強すぎて、霊力を発現させるどころじゃないわ。」
「んなこと言われたって…。」
エンマは、不満そうに顔をしかめた。
「うわあーーーっ!」
突然フータの声が聞こえて、エンマと蓮花はそっちへ目を向けて驚いた。
フータが空中を飛んでいるのだ。
ただ浮き上がるだけでなく、フータは空中を自由に飛び回っていた。
それを見て、他の子供たちも歓声を上げている。中には、フータと一緒になって飛ぶ子供もいたが、フータほど高く、自在に飛んでいる子供はいなかった。
「フータ!」
思わずエンマはフータの方へと駆け寄った。
「兄貴!すげえだろ!」
フータは得意気になって、エンマの頭上をふわふわと旋回した。
「すげえな…。どうやったんだ?」
飛んでいるフータを見上げながら、エンマの心中は複雑だった。
「飛びたいって思ったら飛べたんだ。」
実に単純な答えだった。
「それだけか?」
「うん。だから兄貴も飛びたい!って強く思えばきっと飛べるよ!」
「そうかあ…。」
「フータって本当に不思議ね…。動物とも話が出来るって、氷助おじさんから聞いたわ。それに、飛天術まで使えるなんて。」
蓮花は、飛んでいるフータを見ながら、しみじみと言った。
フータの不思議は、そればかりではなかった。この里へ来てから、一度も食事をとっていないのだ。無理に食べさせようとしても、受け付けない。フータは水しか飲まないでも、他の者と同じように健康的に暮らしていた。
「多分、おいらも仲間なんだ。動物とか、空とかサクラとか。仲間だから、いろんなことが分かるんだ。」
フータは、空中からぴょんと軽く着地して言った。
「仲間か…。」
エンマはフータを見て呟いた。
稽古場を出て、蓮花たちと途中で別れると、エンマは一人で川辺に向かった。
一人になって修行したかったのだ。
細い、古びた橋のかかった、人気のない川辺に着いた。いつか蘭丸と戦い、圧倒的な差で惨敗した場所。
以来、エンマは度々ここで剣の修行をしていた。負けた悔しさを思い出して、いつかそれに打ち勝とうと思いながら。
今日は、剣の修行に来たのではなかった。
川の流れる静かな音を聞きながら、エンマは胡坐をかいて座り、目を閉じた。
エンマは、先程のフータの言葉を思い出していた。
日が暮れてきて、夕闇が辺りを包んできても、エンマはそのままじっと座り続けていた。
長い時間が過ぎて、エンマはいつの間にか座ったまま眠っていた。
はっとして見れば、青暗い夜の景色に変わっていた。
それでもまだ帰る気にもなれずに、エンマは仰向けになって星を眺めた。
星空を見ていると、様々な思い出が、心に浮かんでは消えていく。
草吉のこと、地獄里のこと…。
静かだった。川のせせらぎだけが耳に心地よく響き、心の中まで澄み渡っていく気がした。
何千億もの星々が、青暗い中にキラキラと輝いている。
満天の星空の下で、まるで自分も星の一つになったかのよう。
こうしているうちに、エンマは、自分が、不思議な感覚になっていくのが分かった。
星空に溶け込んでいる。その中の、自分。
心の中に、もし海が広がっているとしたら、その波は今、とても穏やかだった。
「こんな所で何してるの、エンマ。あんまり遅いから、皆心配してるわよ。」
気が付くと、蓮花が横に立って、エンマを見下ろしていた。
「…ああ、蓮花か。今、なんか分かってきたんだ。霊力ってのが。」
「え?」
「俺、今どっか遠くにいたんだ。そこにお前が来て、戻ってきた。」
エンマは、星空を眺めながら言った。
「…霊術って難しいな。それを同時にやるってんだからな。」
「そうね。心を動かすってことは、全体を動かすってことよ。自分を意識しながらね。そして、世界と一体になって…。口ではうまく言えないでしょ。感覚で分かってくることなのよ。エンマにも、だんだん分かってきたようね。」
蓮花はにっこりと笑った。
「フータの言葉がヒントになったんだ。あいつは、難しく考えなくても、直感で分かったんだ。」
「…私、なんとなくフータは、エンマの本当の兄弟みたいに思えるの。エンマのおじいさんのように、例え血は繫がってなくてもね。」
「そうだな…。フータは、俺も、初めて会ったときから、他人という気がしなかった。」
蓮花は、エンマの視線を追って、星空に目を移した。
「…きっと、私たちは、この星空の一粒一粒みたいなものなのよ。星空の中に、私たちがいるの。星と星の間に空があって、空の中に星がある。…そう考えていくとね、心がどんなに広くて大きなものだか、想像できるでしょう?」
「うーん…。よく分からねえが、なんとなく分かるような気もするぜ。蓮花が、俺を里の奴らと交流させたがる理由もな。仲間。そいつらが増えていけば、星空が広がっていって…。ああ、だめだ。俺には難しいことは分からねえよ。」
エンマは額に手を当てた。
「…けどな、霊力のことをずっと考えてて、そんで今、今度はお前が言ったことで、なんか掴めそうだぜ。つまり、霊力ってのは、星空なんだろ。心ってのも、星空の全部で、俺一人の心じゃなくてさ。そんな感じなんだな。多分。」
エンマの緑色の目に、生き生きとした輝きが宿り、悩んでいた表情が明るくなったのを見て、蓮花は微笑んだ。
「それでいいと思うわ。」
その翌日、エンマは稽古場へは行かず、真っ先に川辺へ一人で向かった。
朝から晩まで、川辺へ行って霊術の修行をした。
修行といっても、ただ座っているだけだ。
次の日も、また次の日も。
家に帰れば、黙々と飯を食べ、風呂に入り、早々に寝て、朝は早く起きて氷助の手伝いをしたり、剣の修行をしたりと変わりはなかったが、朝餉を済ますとすぐに一人でどこかへ行ってしまう。
「蓮花。最近、なんでエンマは一緒じゃないんだ?」
何も聞いていない蘭丸は、不思議に思って蓮花に尋ねた。
「一人で修行したいんだって。集中したいからって。もう少しで霊力が掴めそうって言ってたから。」
「そうか…。」
蘭丸は、どこか寂しいような気持ちを感じていた。
エンマは、目を閉じて川辺に一人座っていた。
昼間でも、星空のイメージを心に浮かべることが出来た。
広い星空に、自分がいる。
自分も星空のひとつ。
それらを動かす。
上昇。上へ、上へ。
自分と、星空が上へ。
座った姿勢のエンマの体が、僅かに浮き上がった。
炎を意識したときとは違う、広大な星空の意識。
どこまでも続いている心の中の海。
心の波を平らに、静かに。
平らな波を保つのが、至難の業だった。
すぐに波立ち、浮き上がった体は、また地面に落ちた。
しかし、星空の意識は、高い天の上に昇ったままだった。
エンマの体から、霊力の波動――霊気が流れ出ていた。
青白い燐光がエンマの体を包み込み、そのまま、エンマは気を失った…。
エンマが意識を取り戻したとき、そこには楓と蓮花と蘭丸がいた。
ここは、楓の家に併設している医院だった。
「ここは…?」
「やっと気が付いたか。」
エンマが布団から身を起こして楓を見ると、楓は微笑んだ。
「エンマ、大丈夫?あんたが倒れてたって、楓から知らせを受けて来たのよ。」
蓮花が心配そうに言った。
「ああ…。俺、川で修行してて…。霊力が出た感じがしたと思ったら…気ぃ失ってたみてえだな。」
「霊力を使いすぎたんだ。コントロール出来なかったんだろう。しばらくは、ここで休むことだ。」
楓が言った。
「でも俺、別にもう疲れてもいないし、動けるぜ。」
「体力と霊力は別だ。いくら体が疲れていなくても、精神は疲れている。無理して動けば、いずれ体にも影響が出てくる。しばらくは何も考えずに眠ることだ。明日になったら、家に帰してやるよ。」
そう言うと、楓は、籠に入った金柑を一つ取って、丸かじりしながら部屋を出て行った。
「エンマ、あんまり頑張りすぎるなよ。早く霊術を身に付けて、霊剣を教わりたいってのは分かるが、精神を壊したらどうにもならないだろう。」
「分かってる。」
蘭丸に言われ、エンマはごろりと横になって眠り始めた。
翌日の午後になって、エンマは蘭丸の家に戻って来た。
蓮花も蘭丸も、氷助もいなかった。
みぞれとフータがエンマを出迎え、少しばかり遅い昼餉を三人で食べた後、エンマは待ちきれずに、木刀を持って庭に出た。
霊力の感覚を覚えている。
それを早く試したかったのだ。
呼吸を整え、心を平らにして、右手に持った木刀に、霊力を込める。
今度は霊力を出し過ぎないように、慎重に、少しずつ。
木刀が青白い光を帯び始めた。
それを振るうと、強い力が沸き上がるようだった。
いつもと同じくらいの力で木刀を振るっているのに、振るったときの勢いが全然違った。
「これが…!」
エンマは抑えきれない気持ちで、家から飛び出した。
高まった気分を懸命に静めながら、林の中に入って行った。
まだ心臓が高鳴っていたが、右手の木刀は、青白く光ったままだった。
木々が生い茂る中で、エンマは何も考えずに、思い切り木刀を振るった。
霊力を纏った木刀は、力強い一振りとなって、木を倒していった。木刀の当たった部分から木が折れて倒れていく。
「すげえ力だ…。これが…霊剣ってもんなのか…?」
エンマは、気が付くと、林の木を全部倒していた。倒れた木々の真ん中で、エンマは青白く光った木刀を、放心して見つめていた。
夜になっても戻らないエンマを心配して、蓮花は探していた。
「全くもう。昨日倒れたくせに、どうして無茶するのかしら…。」
そうして辺りを見回していると、暗闇の中で、ぼんやりと光っている場所があった。
近付いて見ると、その光は不思議な色を放っていた。
青いような、赤いような、そのどちらも混じった紫の色。
明るくも暗くもない、神秘の色。
暗闇の中で、その紫が淡く光っているのだ。
蓮花は魅入られたように、足を踏み出して、その光に吸い込まれるようにして歩み寄っていった。
紫の光の中に、見覚えのある背中が浮かび上がって見えた。鮮やかな、赤い髪。
そこにいたのは、エンマだった。
蓮花は声を掛けようとして、思わず息を呑んだ。
紫に見えた光は、エンマの周りを青い炎が包み込み、エンマの燃え盛るような赤い髪の色と混ざり合って、ユラユラと紫の陽炎が揺らめいているようであった。
幻のようなただならぬ紫色の光が後光となって、エンマの姿がそこにくっきりと際立ち、全てのものを圧倒するほどの存在感を放っていた。
「…またお前か。」
振り返ったエンマはそう言って、蓮花を見た。
その目が、眩いほど強い光を帯びて、鮮やかな緑色に鋭く輝いていた。
エンマの強い眼差しを受けて、蓮花は、目が眩むような思いがして、思わず目を閉じた。
それから、落ち着いて再び目を開けると、紫の光は消えて、いつものエンマが立っていた。
「また?またってどういうことよ。心配して探しに来たんじゃないの。」
蓮花は内心の動揺を抑えながら言った。
「それよりな、蓮花。そこに倒れてる木は、全部俺が倒したんだ。霊剣でな!」
エンマは不敵に笑った。
「ええっ!?」
下を見てみると、そこら中に木が折れて倒れていた。
「へへへ…。」
「何考えてんのよ!勝手に木を倒すなんて、だめじゃない!」
「なんでぇ、少しぐらいいいじゃねえか。他に力を試す所がなかったんだ。」
「少しって…。少しじゃないじゃないの。こんなに…。あとで長老様に言うからね。」
「けっ、なんだよ、冷てえな。」
「それはそれ。霊力が身に付いたかどうかは、明日見てあげるから。とにかく、さっさと帰るわよ!」
わざと蓮花は大声で言って、さっさと歩き出した。
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