第6話 禁断の木の実

 聖書の原罪とは、キリスト教の教えで、人間が生まれながらにして持つ罪のことです。この罪は、最初の人間であるアダムとイブが、神に背いて禁断の木の実を食べたことに由来します。

 キリスト教の教えでは、神は人間に対して絶対的な権威と愛情を持っており、人間は神に従順であるべきだとされています。 神がエデンの園にある知恵の木の実を食べることを禁じたのは、人間が神のように善悪を知る者となり、神と対立することを防ぐためでした。

 しかし、アダムとイブはヘビの誘惑に負けて、神の命令に背きました。これは神に対する反逆と不信、人間の自由意志の濫用であり、人間の堕落と罪の始まりでした。

 この罪の結果、人間は神との関係を失い、死や苦しみにさらされるようになりました。人間は神の像として創造された純真さと無垢さを失うとともに、他者の視線を恐れ、欲望に従い、性的な快楽を味わうことで、羞恥心や罪悪感を感じるようになりました。

 しかし、神はその罪を償うために、自分の子であるイエス・キリストを地上に遣わし、十字架にかけて死なせました。イエス・キリストを信じる者は、神との和解と救いの恵みを受けることができます。


 創世記第2章7-9

 7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。9 また主なる神は、見て美くしく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。


 創世記第3章1-7

 1 さて主なる神が造くられた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢こくなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与たえたので、彼も食べた。7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。


 ***


 物理基礎の授業、林先生が一生懸命話している。


 ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見した、というのは有名な話だ。

 本当か嘘かは知らないが、真実はリンゴが木から落ちるくらい、単純で自然なことの中に隠されているのに、誰も気付かない。だから、リンゴと月に同じ力が働いていると考えたニュートンの洞察力と想像力は凄い。まさに天才だ(注1)


(注1)ニュートンの『プリンキピア』は、近代物理学の出発点となった科学革命の金字塔といえる書物です。それは、単に「すべての物には引力がある」といった思いつきを述べているのではなく、根本的で普遍的な運動の基本法則を設定し、そこから多くの事実が導かれることを示しています。だから、ニュートン自身はリンゴの逸話を事実ではないと否定しています。


『なるほど、世の中にはリンゴが落ちたのを見ただけで、隠された真実を知る人もいるのか』と、首をかしげる聡太。俺には、落ちたリンゴよりも屋台のリンゴ飴の方が魅力的だし、秋と言えば、お洒落なコーディネートや美味しいもの方が気になるけどな。天才君はどうなんだろ?と振り返る聡太。


『気持ち良さそうに寝てる』


 眠っている蒼を、聡太が注意深く観察していると、それに気付いた林先生が「高梨、ちゃんと前向いて聞いてくれ」と注意する。

 その林先生に、『静かに』と口に指を立てて注意する聡太。目で『天才くん、寝てます』と訴える。

『そうか、疲れているのか、悪かったな、寝かせておこう』と林先生も聡太に目で返す。

『じゃあ、俺も』と微笑む聡太に、林先生が駄目だと首を横に振る。


「笑顔が眩しい。おまえは疲れてないだろ」


『えェー』って思ったが、蒼がいると林先生もやり辛いのか、明らかに先生より優秀だからな、と蒼を眺める聡太。

『君はお昼寝するために大学をやめたんですか?』と呟いてみるが反応がない。何でだろ、寝ていても可愛いくない。そうだ、と隣の女子からお化粧道具を借りる聡太。

『良く眠れるように、魔除けの目を描いてあげる』、幸い林先生も面倒臭いから二人は見ないことにしている。

『よし、上手く描けたけど、邪眼だけだと怖いから、可愛いく、笑顔にしてあげるね』、何か楽しくなってきた。


 ***


 放課後、無表情のまま蒼が廊下を歩いている。他人にみられていても全く気にしない。周りの人も怖くて笑えずに、視線を逸らしている。見かねた香澄が蒼を呼び止める。


「櫻葉くん、顔を洗ってきた方がいいよ」


 香澄が、邪眼で睨みながらも、カラフルに笑っている蒼の顔を、スマホで見せる。無表情で黙ってスマホを見ている蒼に、不安になった香澄が謝る。


「ごめんね、聡太が描いたの」

「分かってる、無意味すぎて理解できないだけだ」


 香澄に礼を言って、その場を離れる蒼。有り得ない、気付かなかったのか?この俺が、、


 ***


 聡太は部活をサボって、バレー部の練習を見るために体育館に来ている。今日はラクビー部がグラウンドを使うので、サッカー部は基礎練をしているが、聡太は基礎練が好きでない。

 バレー部の圭翔はウォームアップで颯人とキャッチボールをしていたが、聡太に気付くと颯人もボールも放ったらかして、仔犬のように駆け寄って来た。


「先輩、来てくれたんだ」

「サッカーはお休み。お腹の調子が良くない」

「大丈夫ですか?」


 両手を広げて圭翔をハグする聡太。


「圭翔が可愛いから、もう治った」

「え!じゃあ、練習に戻っちゃうんですか?」

「それはない、基礎練はお腹に悪い」

「先輩はデリケートなんですね、愛おしいです」


『ところで、蒼は?』


 聡太は圭翔の練習を見るついでに、蒼の顔も見に来たのだった。


「高梨!」


 背後から呼ばれて聡太が振り返ると、ボールを宙にあげた蒼がジャンプして、スパイクを打つところだ。一瞬、空中で聡太と目があったが、蒼は気にしない。躊躇ためらわずに聡太の顔を狙って打ってきた。


「先輩、危ない!」


 圭翔が聡太の盾になる。トップスピンのスパイク・ボールは、聡太の目の前で急降下し、床で弾けると、そのまま聡太の頬を掠めて、場外に飛んだ。


『良かった、ボールは当たらなかったみたい、、、いや、櫻葉先輩、ナイス!』と聡太にハグしたままで余韻に浸る圭翔。


「感謝の気持ちだ。好きなだけ抱き合ってろ」

「でも、顔洗ったんだ。勿体無い、バレーしてるところも見たかったのに」

「おまえ、馬鹿なのか?」

「どっちでも良いよ、蒼が決めて」

「俺は遠慮する。籤でも引いて決めてくれ」


 相変わらずのってこない、でも、せっかくだからと、蒼と圭翔の練習を見学する聡太。

 蒼のスパイクを5球ずつ交代で1年生がレシーブで拾う練習をしているようだが、レベルが違い過ぎて、誰もボールを返せない。


『全然、練習になってない。おまえだって馬鹿じゃん』と練習を眺めている聡太に、女子たちが、入れ替わり立ち替わり、部活の合間に「聡太くん、何してるの?」「どうしたの?」と話しかけてくる。


『ヤバい!女子たちが先輩に群がってる。気安く僕の先輩に話しかけて欲しくない。どうしよう、魔除けの香澄さんがいないからだけど、先輩も愛想良すぎ!気が散って練習に集中できない』と落ち着かない圭翔にレシーブの順番がまわってくる。

『やばい、櫻葉さんには絶対勝てないのに、この人だけには負けてはいけない気がする。どうしよう?って、決まってる。唄にもあるぞ!僕が諦めない限り、僕は負けないだ!』


 という感じで、無謀な賭けに出た圭翔。蒼の弾丸スパイクにフライングレシーブで右手を伸ばして飛び込んだが、ボールの勢いに押されて、右手の拳を弾かれ、体勢を崩したまま床に滑り込む。

『痛い!』、激痛が走る。圭翔は滑り込んだ時に右手を捻挫してしまったようだが、蒼は間髪入れずにスパイクを打ってくる。

『僕は諦めない』と、再び圭翔がフライングレシーブで、痛めた右手を伸ばして飛び込んだが、圭翔が返したボールは場外に弾け、圭翔はそのまま右手を抱えて床にうずくまってしまった。


 颯人が駆け寄って来て、圭翔の様子を確かめる。


「中途半端なことしているから、怪我するんだ」

「素直に心配したら」


 颯人の肩を叩く聡太。いつの間にか聡太がそばにいて、圭翔の右手に手をあてている。


「折れてないですよね?」

「大丈夫だよ、俺が面倒見るから。練習続けて」


 渋々、圭翔を聡太に引き渡す颯人。聡太はコートの外まで圭翔を連れて来ると、もう一度、圭翔の右手首を確かめる。


「痛い?」

「痛くないです」

「嘘吐き」


 圭翔の痛めた右手首に手をあてる聡太。歪んでいた圭翔の表情が僅かに緩む。


「本当は痛いです」

「でも、大丈夫。圭翔には俺がいる」

「本当ですか?」


 と思わず聞き返す圭翔。でも意味が違う、先輩は僕のそばいてくれても、僕だけを見ていてはくれない。分かってる。でも、構わない。僕が先輩のことを見ていられれば、十分すぎるくらい幸せだ。


「どうかな?良くなった気がする」

「え?あれ、痛みが失くなった気がします」

「良かったね」


 あれ、何でだろう?でも、良い感じだったから、未だ終わりにしたくない、どうしよう?この際、左手もお願いするか?それは変?と悩む圭翔を置いて、聡太はネット越しに蒼と向かい合っている。


「捻挫したの分かってて、フライングさせた?」

「弱点をつくのが勝負の鉄則だ」

「良い性格してる」

「良し悪しではなく、やるか、やらないかだ」

「じゃあ、俺にもレシーブやらせて欲しい」

「おまえはサッカー部だろ」

「だからスパイクを足で拾って、ヘディングでアッタクする。バレー vs サッカー、どっちが凄いか試してみよー!って、どう?」

「やはり馬鹿だな、おまえは」


 ネット越しに颯太の様子を伺う蒼。『左に回り込んで右脚で拾うつもりのようだが、右だ。しかも、おまえには手は抜かない』。


 蒼がアウトサイドから助走して、左脚で踏み切って、ネットよりも、はるかに高い打点でスパイク体勢に入る。その視界の正面には聡太がいる。


『何故、おまえがそこにいる?』


 だが、構わないと、蒼がそのまま聡太の正面に超高速スパイクを叩き込む。『櫻葉先輩、凄すぎる。打点が全く見えなかった』と息を呑む圭翔と颯人。


 聡太はボールの正面から突っ込んで、トップスピンで床に急降下するボールを、右脚で高く真上に蹴り上げ、そのままネットにつめてジャンプする。


『先輩も凄い、本当にヘディングするの?滅茶苦茶、跳んでる!』と聡太を見上げる圭翔。

 空中で、引いた弓を放つように右腕を放ち、一瞬でボールを叩く聡太。蒼と同じトップスピン回転のボールが急降下して、目の前の床で弾けると、まばたきひとつしない蒼の頬をかすめて場外に飛ぶ。


『見ただけで俺のスパイクをコピーできるのか』


 相変わらず無表情な蒼に、天使の笑顔で眩しく微笑む聡太。


「俺の勝ち?」

「いや、おまえの負けだ」

「そうなの?」

「今のはヘディングシュートではなかった、バレーのスパイクだ。バレーだと二度打ちは反則だ」

「相変わらず可愛いくない。まあ、バレーでサッカー部に負けるわけにはいかないか」

「ああ、さっさと、あいつを保健室に連れて行け」


 ***


 弓道部の練習後、香澄が体育館に聡太を迎えに来たが、聡太が見あたらない。バレー部の練習も終わっていて、颯人たち1年生がネットをたたんだり、ボールを片づけたりしている。


「彼氏なら保健室だ」


 香澄に話しかけて来たのは蒼だった。蒼は既に着替えて帰るところだが、鞄も教科書も教室に置きっぱなしなので持っていない。所持品は一冊の本とスマホだけだ。


「怪我したの?」

「お気に入りの方がな」

「圭翔くん?何となく想像できる」

「ただの捻挫だ」


 蒼は真っ直ぐに人の目を見て話す。聡太と同じ目をしていると思う香澄。何ものにも決して染まらない、澄みきった目だ。全く似ていないのに、お互いに誰よりも似ている。だから、香澄も蒼に幼馴染のような親近感を感じてしまう。


「聡太がちょっかいだすの分かる気がする」

「どういうことだ」

「変わってるってこと。その本だってそう」


 蒼が手にしているのは、イタリア語で書かれたダンテのDivina Commedia(神曲)(注2)の古書だ。


「ただの物理学の古書だ」

「神曲って書いてるよ。物理学の天才がダンテなんて、本当に変わってる」


 "Capisci l'italiano?"(イタリア語が分かるのか)

 "Più o meno"(何となくね)


「でも聡太は凄いよ。ヘブライ語も、ギリシャ語も話せる。多分、スペイン語とロシア語も。内緒だけどね」

「凄くもないし、内緒でもない。普通なだけだ」


 凄くはない。人それぞれ、それだけだ。だから、理解されることもなければ、誰かを理解する必要もない、、けれど


 いつのまにか、夕暮れのオレンジは地平線に溶けこみ、青と紫がとけあう幻想的な空に星がひとつふたつと輝き始めている。マジックアワーだ。


「おまえの彼氏は何なんだ?」


「彼氏じゃないけど」

「彼氏じゃない?」

「そうだよ、ただの天使、地上に降りた天使かな」



(注2)ダンテの神曲は、イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが14世紀に書いた叙事詩です。地獄、煉獄、天国の三部構成で、キリスト教の教義やギリシャ神話をもとに、罪と罰、愛と救済、神と人の関係を描いています。ダンテは自らが主人公となって三界を旅し、多くの実在の人物や神話の登場人物と出会い、彼らの運命や物語を聞きます。イタリア文学の最高傑作とされ、ルネサンス文化の先駆けとなった作品です。


 ***


 いつもの祭壇の十字架の前で手を結び、お祈りする聡太と香澄。

 

「蛇が誘惑したから、イヴはアダムにも禁断の木の実を食べさせてしまったんだよね」


 今日は香澄の方から話しかけてきた。十字架を見つめたまま香澄に応える聡太。


「蛇のせいじゃなくて、人間を無知のままにした神様のせいだよ」

「そうか、蛇だって神様が作ったものだしね」

「そもそも神様が禁断の木なんか植えたのが間違いだ。悪いのは、ぜーんぶ、神様だ」


 分かったけど、ここ教会だよ、良いのかな?と祭壇の十字架を見つめる香澄


「禁断の木の実か、どんな味がするんだろ?」

「昔、香澄ちゃんと一緒に食べたよね」

「え?」

「屋台のリンゴ飴、あれで十分な気がする」

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