第5話 Love & Piece(恋とは違う)

 キリスト教において、愛と恋は異なります。キリスト教の愛は、神が人を慈しむような、無償の愛です。親が子どもに与えるように、見返りを求めず、ただその人の幸福を願い、自己犠牲をも厭わない愛です。

 一方、キリスト教の恋は、自己中心的なもので、相手に対して自分の欲望を満たすためのものです。恋とは自分だけを見てほしい、相手を独占したいという気持ちです。このように、愛と恋は違います。


 新約聖書は、神の愛にならって、「無償の愛」を隣人に実践するように求めています。


 37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人となりびとを愛せよ』」(マタイの福音書22章37-39節)


 イエスは、さらに、このように言っています。「43 『隣人を愛し、敵を憎にくめ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイの福音書5章43-44節)

 そして、自分を迫害し、殺そうとしている人たちのために祈ります。33 人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。34 そのとき、イエスは言いわれた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカの福音書23章33-34節)


 愛がなければ「無」に等しい、だから、すべてを信じ、すべてに耐えなければならないと、キリスト教は教えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い、ねたまない。(中略)不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリントの信徒への手紙I.13-4.7)



 一方、聖書には、情欲に溺れてはならない、浮気・不倫は罪悪であるといった恋愛観が記されています。自分だけのものにしたいといった自己中心的な愛ではなく、家族と接するように、相手を大事だと思う気持ちこそが大切だと教えています。


「若い男には兄弟に対するように、(中略)若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい」(テモテへの第一の手紙5章1、2節)

「あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」(テモテへの第二の手紙2章22節)


「あなたは姦淫かんいんしてはならない」(出エジプト記20章14節)

「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる」(へブル人への手紙第13章4節)

 さらに、イエスは女性をみだらな目で見ただけで姦淫だと述べています。「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5章27、28節)

 また、聖書は同性愛の行為は恥ずべき情欲であり、有罪とします。「彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(ローマ人への手紙第1章26-27節)


 ***


 7月、梅雨あけした空は広く、そして青く澄んでいる。その空の下、県立湘南一高のバレーボール部がグラウンドの片隅で、基礎練や体幹トレーニングをしている。


「いいな、聡太先輩。見てるだけで幸せになれる」

「おまえ、それ言うの、俺だけにして欲しい」


 投げやりに颯人が圭翔に釘を刺す。圭翔は「基礎練って、良いよな」って感じで、全然、颯人の言うことを聞いてない。

 圭翔と颯人の部活はバレーボール部だ。バレーボール部は、他の部活とのローテーションで、体育館が使えない日はグラウンドで基礎練や体幹トレーニングをする。今日がその日だ。


「先輩は、やっぱり、太陽だ」


 敵意を持って聡太を見詰める颯人。高橋樹たかはしいつきがボランチの聡太にパスを返す。拓海がゴール左に走り、聡太がタイミングを整える。踏み込んだ左足を軸にして、腰から右脚を後ろに引いて力を貯める。そして、宙にうかんだボールがゆっくり減速し、回転を止めた瞬間、ボールの芯を完璧にヒットする。

 右脚を振り切り、そのまま空に跳ぶ聡太。ボールは、躊躇うこともなく、キーパーの死角をついて、ゴールポストの右サイドの奥深くに決まる。


 聡太のポジションはミッドフィルダーの中心、ボランチだ。ボランチは、攻撃の起点として多彩なパスを出してチャンスを作り、守りの要として相手の攻撃を素早く止めてカウンターを狙う。フィールドの中心でゲームの状況を瞬時に判断して、攻守のバランスをとる重要なポジションだ。

 けれど、聡太のボランチは出鱈目、陽気なコメディーだ。普通はあり得ないパスや、気紛れなゴールシュートを打って、味方を悩ませ、相手を混乱させる。本人は気づいていないが、天才なのだ。状況判断力、レスポンス能力、身体能力、コミュニケーション能力の全てで、聡太を超える高校生は恐らくいない。

 ただし、聡太の眠っている力を引き出せるような選手は湘南一高にはいない。聡太も拓海先輩やチームメートとサッカーを楽しみたいだけだ。だから、聡太の才能に気付いているのは、これまでは香澄だけだった。けれども、聡太に恋する圭翔、そして嫉妬する颯人は、本当の聡太に気付き始めている。


『フェイントだ。だから、あの人は危ない、近づかない方が身のためなんだ』


 聡太に恋する圭翔なんて見たくない、見てられないと、颯人がグラウンドから視線を逸らした時、バレーボール部顧問の森先生の側にいる不思議な人影に気が付いた。


 櫻葉蒼さくらばあおい


 櫻葉蒼は高校バレーボールのスター選手だ、いや、だった。『確か、大学受験資格を取って、都立靖国高校を中退して、大学に進学したはず』。その櫻葉蒼が、何故かここにいる。人知れず、真昼の空にうかぶ月のように。


 目を細めて空に輝く透明な太陽を見つめる蒼。その網膜が映しだす広大な闇の中で、炎のようにゆらめきながら、太陽の残像が踊る。『太陽か、、所詮、無限の闇に比べれば塵のようなものだ』と静かに瞳を閉じる。

 今年入ったばかりの大学を休学する時、物理学教授から「今更、高校生に戻って何の意味がある?」と尋ねられたが、蒼は、意味など考えること自体が無意味だと思っている。偶々、鎌倉で由比ヶ浜から七里ヶ浜まで走った、偶々、高校生活が懐かしくなった。ただの気紛れだ、物理学なら大学でなくても出来る、それだけだった。


 ***


 翌日、いつも通りに、聡太と香澄が丘の上のえぼし教会から一緒に歩いて登校している。


「うちのクラスに物理学の天才が転校して来るんだって。ダークマターとダークエネルギー(注1)について検証不可能な仮説を提示したらしいよ」

「何それ、全然、分かんない」

「私も。でも、昨年の国際物理オリンピックのゴールド・メダリストで、日本物理学会の若手奨励賞も受賞してるらしい」

「物理学の天才か、どうでも良い。全然、興味ない」


(注1)ダークマターとダークエネルギーは、宇宙の約95%を占めるとされる、観測できない物質とエネルギーです。


 その転校生、櫻葉蒼が、聡太の後ろの席に座っている。簡単に自己紹介をすませて、窓際の最後尾の席に落ち着いたところだ。担任の田中先生から、何かあれば面倒見てやれ、と頼まれたので、取り敢えず聡太が蒼に話しかける。


「何かある?」

「ない」


『終わった?天才って人見知りか?』と思いながら、笑顔を作る聡太。


「ないよね、、やっぱり、櫻葉って凄いの?」


 聡太を真っ直ぐに見て、無表情のまま応える蒼。


「凄くはない。人とは違っても、俺にとっては普通のことだ。人それぞれ、出来ることと、出来ないことがある、それだけだ」

「普通に変わってるね。そうだ、聞いても良い?」


 天使のように微笑む聡太と、蝋人形のように無表情の蒼。嘘みたいだが、今日からクラスメートだ。


「ダークエネルギーって何?」

「おまえ、物理学に興味があるのか?」

「あるよ、最近だけど、ある気がする」

「E=mc2、この意味が分かるか?」

「いい司会えむしーが2人かな?正解?」

「もういい、授業中だ、前を向け」

「あれ、答えは?気になって前向けない」

「宇宙は虚無だ、意味などない、だ」


『虚無?』、何それ?俺に答えても、意味がないってこと?まあ、もっともか、


「分かった、気もする」

「だったら、前を向け」

「次の質問に、答えられたらな」

「じゃあ、さっさと質問しろ」

「難しいよ」

「安心しろ、全ての答えは用意している」

「じゃあ、、恋はどう?どうすれば出来る?」


 聡太を見返す櫻葉蒼、その瞳に蒼が映っている、お互いがお互いを、合わせ鏡のように映している、無意味だと思う蒼。


「人に聞くな、自分で考えろ」


 なんだ、と笑みがこぼれる聡太、


「俺と同じだね、蒼だって何も分かってない」


 そう言うと、蒼に背中を向けて、窓の外を眺める聡太。今日も空には透き通る太陽が輝いている。何色にも染まらず、ただ、世界を照らすために。


 ***


 昼休みの屋上。聡太と圭翔が仲良く並んで、お弁当を食べようとしている。圭翔が聡太のために朝から用意したものだ。


 聡太のために、御菜おかずはタンパク質多め、照り焼きチキン、枝豆入りたまご焼き、豚肉のアスパラ巻き、 海老のバターソテー、そして蓮根と人参のきんぴらだ。


「美味しいですか?」

「ぜんぶ、圭翔が作ったの?」


 泣きそうな顔をして聡太を見ながら頷く圭翔。

『可愛いんだよな』と、微笑む聡太。


「滅茶苦茶、可愛いよ、いや、凄く美味しい」


 でも、何か足りない気がする。何だろ?出汁だしかな、パクチーとか付けても良かった気がする。


「美味しいけど、もう少しパンチが欲しいかな、男の子だからな。そうだ、今度、イルマーレで一緒に作ろうか?マスター仕込みの技を教えてあげるよ」

「本当ですか?」

「俺、圭翔には嘘吐かないから」

「嬉しいです。抱きついても良いですか?」

「良いよ」


 聡太に抱きつく圭翔。本当に可愛い、弟にしたい。


「そう言えば、櫻葉さんって、聡太先輩と同じクラスですよね?」

「俺の席の後ろに座ってるよ、何で?」

「バレーボールが滅茶苦茶、凄いです」

「部活もするんだ」

「不思議な人ですよね、物理学も天才で、それに、凄く綺麗な顔してますよね?」

「そうか?本人は普通だって言ってたけど」


『全然、関心なさそうだ』と、聡太の反応を伺っていた圭翔が、ホッとする。


「先輩は毎日、自分を見てるから分かんないんです。綺麗なものを見すぎです、香澄さんだって湘南一高男子の憧れの的だし、贅沢し過ぎです」

「あれ、容姿はどうでも良くないか?」

「良くないです。百聞は一見にしかずです」


『ちょっと違う気がする、まあ、良いか』


「大体、先輩はどして香澄さんと付き合ってないんですか?」

「香澄ちゃん?いつも一緒にいるけど」

「でも、付き合ってないですよね」

「そうなの?」

「何で僕に聞くんですか?」

「分かんない、でも、教えて欲しい」


 先輩、本気で聞いてるのかな、でも、嘘でも、僕は先輩のためなら何でもします、身も心も捧げます、と心の中で誓う圭翔。


「目を閉じて香澄さんのこと考えて貰えますか?」

「、、、、良いよ」

「ドキドキしてますか?」

「全然、、してないかな」

「恋じゃないでしょ」

「恋じゃないのか」


 ***


 どうしてかな、誰よりも大切なんだけど、、


 いつものように、祭壇の十字架の前で手を結び、お祈りする聡太と香澄。


『聡太、今日は何も言わないんだ』


 香澄ちゃんが男だったら良かったのに。毎日、お祈りしているのに、神様は、僕の願いを何も叶えてくれない。それでも、お祈りします。神様、僕は香澄ちゃんを幸せにしたいです。香澄ちゃんが誰よりも大切だから。

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