第4話 それはハッピーエンドフラグ
硬貨を入れて〈温ったか~い〉と書かれた赤ラインの欄にあるコーンスープのボタンを押す。
ガコン、と機械的な音がして缶が吐き出された。続けてもう一本。ちがうものにするのも気が引けて同じコーンスープを選ぶ。自販機でコーンスープを買うのはたぶん人生で初めてだ。
「……どうぞ」
「ありがとう」
あちち、と手の上で転がす姿は可愛らしさに溢れる。く。まったく罪な人だ。
「これってこんなに熱くする必要あるのかな? 買う人はすぐ飲みたくて買うのにさ」
「すぐ飲むかどうかはわからないじゃないですか。持って遠くに行くかもしれないし、カイロ代わりにするのかもしれない」
「持って遠くに行かなくても、行った先で買えばよくない? カイロにしたいならカイロを買えばいいじゃない」
もっともだが。世の中そううまくはいかない。……って。そんな話がしたいわけじゃない。
「聞いたんでしょ。
由井さん、というのがあの熟女を指すとわかるまで少しかかった。
「聞きました。なんだっけ、ええと、財閥……?」
遠慮がちに訊ねると「うん」と答えてすらりと雨模様の景色のひとつを指さした。反射的に先を見ると、黒い松の木の群れが見えた。
あそこはたしか────立派な日本庭園のあるお屋敷だったはず。どんな古風な金持ちが住んでいるのかと通りがけによく思ったものだ。
……って。え?
「私の家なの」
ははあ。なるほど。
「お嬢さま……ね」
「そ」
言われてみれば。彼女から出る気品みたいなものは育ちの良さから来ていたのか、と納得した。
「教えてほしいんですけど」
彼女は答えずに缶のタブをカツカツ鳴らして格闘していた。
「……なにしてるんです?」
「どう開けるの? これ」
「はーあ?」
なるほど。こういうのもこの人が『お嬢さま』だからなのか?
「かしてください」
すぐにカシュ、といい音を出して見せると目を丸くされてしまった。大丈夫かよ。
「教えてほしいんですけど」
仕切り直して訊ねる。
「逃亡中に、なんで僕の所に来たんです?」
ずっとそれがわからなかった。実家から逃げたいのならこんな近所にいては危険すぎるはずだ。現にこうして潜伏してたったの三ヵ月でまた逃げることになっている。
彼女は答えずにコーンスープの缶をずずーっとはしたない音を立てて吸い続けていた。
「飲みづらいねこれ」
「粒が入ってますからね」
「粒? なんの?」
「コーンに決まってんでしょ」
ほんと大丈夫か、この人。僕の視線には気づかず「ふうん」と缶をくるくる回して印刷を眺めていた。
「でも美味しい。温まる」
その様子を見てから、僕も手もとにある同じ缶を見下ろした。カシュ、とまた音を出す。
「ど。美味しいよね?」
なぜか目を合わせる勇気は出ず「はい」とだけ小さく頷いた。
「たまたまだよ」
「たまたま?」
聞き返すと「そう」と。
「たまたま見かけたジャムの瓶に、キミの名前とここの住所があった。それだけ」
「え……どこでですか?」
「ニューヨーク」
「はあ?」
さすがにあの弱小ジャム屋が海外進出なんかしているはずはないが。
「知らないよ。友達の、日本土産」
「日本人に日本土産?」
「うーと。正確には『なにジャムかわからないから読んでくれ』って頼まれただけ」
「……なるほど」
ずいぶん最初と違う話になったな。
「だけど僕とは限らないじゃないですか。たとえ『アレン』って名前が珍しくても」
「まーね。だけどたぶんそうだろうなってなんとなく思ったの」
それで会いに来た……と。
「どんな男になってるかなって、楽しみにしてたんだ」
「……なんか嫌な言い方ですね」
ご期待に添えず。
「楽しかったよ」
あ……。
話を締めようとしてるのがわかった。だけどそうはさせない。
「製菓専門学校に行ってたのは、なんでなんですか。お嬢さまなんだったら女子大とかに行くんじゃないんですか?」
偏見かもしれないけど。でもそうだろ。
「あー。それは説明が面倒だからパスでもいい?」
「はあ?」
「言えるのは、私はすべて父親の言いなりで、パティシエールになりたいなんてこれっぽっちも思ってなかったってことだけ」
作ったケーキを捨てると言い放ったあの無表情な顔が甦る。
「でも今は、その『父親』の言いなりにはならないんですね」
こんな宛もなく逃亡を続けて、どうするつもりなのだろう。
「そうだね。『そうしたい』って初めて思ったんだ」
「なにかあったんですか」
「まーね」
言うと、すら、と立ち上がった。「ご馳走様」と、からの缶を押し渡される。
なんだかまぶしいと思ったら雨が上がっていた。
「それじゃあ……」
「ミナミさん」
引き止められるのか。ハナタレ小僧の僕に。
「ケーキのお返し、させてください」
「……それなら」
コーンスープの缶を指す。こんなもんでお返しになるなら全国のケーキ屋は潰れる。
「キウイとリンゴの皮むき、手伝ってもらえませんか」
「…………ええ?」
戸惑った顔に金色みたいな陽の光が射す。とても、綺麗だった。
「ブルーベリーがもうすっかり染みてるだろうから、早く戻りたいんですよ」
「だったら」
「あなたと一緒に」
「……それは無理だよ」
「無理じゃないです」
ふう、と息をついた。そして、吸った。意を決して。
「僕はあなたの雇い主ですよ」
「……そうくる?」
「そうです」
わからないけど。好きだとか下手に言うよりもその方が引き止められる気がした。
「急に辞めてもらっては困ります。家賃や、光熱費……ええと、ク、クリーニング代、あと、あとは……食費! それです。それと今月の給料もまだ渡せてないしっ、ええと、ええと、あとは……」
「アレンくん」
「ミナミさん。僕とジャム屋をやってください。あなたのお菓子に、僕のジャムを付けさせてください。美味しいねって笑ってください。どうやるの? って訊いてください。ええと、とにかく、ええと、……僕とジャム屋をやってほしいんですっ!」
「それが……キミからの恩返し?」
「そうですっ!」
半ばヤケクソだった。恩返しがしたいから働いてくれだなんて意味不明にも程がある。けど。近くにいられさえすれば、離れているよりはなにかできるはずだ。
なんとしても、〈ハッピーエンドフラグ〉をもぎ取るんだっ!
「三食昼寝つき?」
「昼寝はつきません」
ミナミさんは、「ふふ」と笑った。
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