第3話 失踪フラグと再会フラグ
帰るころには豪雨と呼べるほどの大雨になっていた。スーパーに来たついでに晩ごはんの材料も調達していたから結構遅くなった。ミナミさんは大丈夫か。まあこんな雨の中わざわざジャムを買いにくる人もいない────
「とにかくお屋敷に戻りますよ!」
「嫌です! 離してください!」
さっと血の気が引く感覚。
見知らぬ熟女だった。強そうな男じゃなくてよかった、などと思っている場合じゃない。
「あのっ! うちの従業員になにかご用でしょうか!」
言いつつミナミさんを強く掴む熟女の手をなんとか離す。
「この方はわたくしがお仕えするお屋敷のお嬢さまで」「ちがいます!」
鋭い声に僕まで一瞬びくりと身体が震えた。
「人違いです。お引き取りください」
「そんなはずありません、間違うはずありません! あなたは!」
「帰ってください!」
ミナミさんが、ミナミさんじゃないみたいだった。
熟女が渋々といった様子で帰ってから、ミナミさんは部屋にこもってしまった。部屋の前で聞き耳を立てると、がさごそ、とたまに物音がする。まさか。嫌だな。これって完全に〈失踪フラグ〉だ。
「……ミナミさん」
ドア越しに呼んでみるけど返事はない。
「またいなくなっちゃうんですか」
不覚にも泣きそうな声が出てしまった。
「……僕は、あなたの作るケーキやお菓子が好きでした。実家がフルーツ屋だから。デザートやおやつなんかは果物をそのまま食べることが多くて、ケーキなんか滅多に買ってもらえない家庭で育ったから。だからあなたが食べさせてくれるクリームたっぷりのふわふわのケーキが、とにかく美味しく感じて。感動して」
部屋は静かだった。彼女がどんな様子でいるのか、ドア越しではわからない。
「気づいたら僕は、あなたのことまで──」
もう一歩のところで。
ドアが開いた。
「騙してごめん。もうここには居られないから。お給料もいりません。……って、そんなのほとんどないか」
泣いた後みたいな笑顔だった。
「待って、ミナミさん!」
「元気でね」
「待って。待ってください。どこに行くっていうんですか! 記憶もなくて、行くところなんかないって言ってたじゃないですか!」
大声で訊ねた分、返事がないと余計にしんと感じた。
「…………嘘だから」
やがてぽつりと発された返事に、今度は僕が黙ってしまった。
「ほんとは全部、覚えてるんだよ」
まんまと騙されたね。お人好しくん。
小悪魔っぽくそう言うと、ミナミさんは、ふ、と微笑んでするりと僕のもとからいなくなった。
呆気に取られてすぐに動けなかった。慌てて外に出た時にはその姿はもうどこにもなかった。
雨だけが、ただしとしとと降り続いていた。
熟女と共に強そうな男の人が店に来たのはそのすぐ後だった。彼女はもういないと言ったのに「確かめたい」と住居に乗り込まれた。犯罪ですよ!? と言うと「どちらが!」と怒鳴り返されてしまった。僕が誘拐犯? なんで。
「ちょっ……本当ですってば! 僕は
「では居場所を教えてください」
相手の言葉遣いが丁寧なのが唯一の救いだった。
「お嬢さまは行方不明なんです」
「は……」
もう、なにがなんだかわからない。
「あの。そもそもその『お嬢さま』というのは」
こんな話をしている暇があるのなら一刻も早く彼女を追いたい。電車にでも乗られたらもうおしまいだ。でも駅に先回りすれば引き止められる可能性はまだある。彼女にタクシー代なんかないだろうから、行くとしたらきっと駅だ。
だけど。どうやら彼女のことを知っているらしいこの人たちの話も聞いておきたいとも思った。彼女が言った『騙した』という言葉の意味を知るためにも。
「
縁談。
ぞわ、と寒くなった。
「それが突然『海外へ行く』などと申されて。お父様も少しは様子を見られていましたが徐々に連絡も途絶えがちになり、しまいには行方知れずになってしまって」
それがまさか、こんな近所で見かけるだなんて。
話を聞いて謎は半分解けたけど、残りの半分はわからないままだった。
ミナミさんはなぜ僕のもとに現れたんだ? 記憶がないふりをしていたのは素性を知られたくなかったからだろう。それはこの際もういいとして。
どうしてここに住もうと思ったんだろう。
熟女たちの隙をついて、外へ出て走り出した。脚力にはまあまあ自信があった。それからこの町の抜け道にも。
まだ間に合う。間に合わなくても、彼女の行先はわかる。駅。そうでしかない。
お嬢さまならお金がないというのは嘘だ。だったらタクシーを使ってさっさと移動しているかもしれない。
だけどなんとなく、そうじゃないような気がしていた。
彼女は、あの駅にいる。
僕の勘がこんなにも冴えている理由は、これが〈再会フラグ〉だからだ。そうだろ!?
「ミナミさんっ!」
ここで間に合わずして物語が成り立つか!
「ケーキのお返し、させてください」
長い黒髪は、雨で毛先が濡れていた。ふと見ると、僕は全身ずぶ濡れだった。
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