第2話 これは事件フラグ

 そうしてそのまま僕は学校を卒業。とくにやりたいこともなく、勉強するより働こうとじーちゃんのジャム屋を継ぐことにした。


 ジャム作りの修行は案外厳しかった。だけど二年経ったある日の夜じーちゃんがポツリと「もうおまえに教えるこたぁなんもね」と歯抜け顔で笑った。


「よせよ。死ぬぞ」


 僕は言った。明らかな死亡フラグだった。案の定翌朝……というほどフラグ通りではなかったにしろ、じーちゃんは徐々に眠ることが増えて一年経たないうちに老衰で息を引き取った。



 さてこれを読んでいる人。『ジャム屋』ってなに。なんでジャム屋? 儲かるの? 異世界なの? とか思っただろう。


 実際現代日本での個人ジャム屋は儲からない。維持費だけでギリギリセーフかアウトだ。しかも経営だとか調理を特別に学んだわけでもない元ハナタレ小僧の僕がひとりでやる店。その利益はマーマレードより遥かに苦い。


 幸い両親が近所で果樹園をやっているため材料調達には困らない。最悪砂糖と瓶さえあれば後はなんとかなる。じーちゃん秘伝の特殊製法スキルも僕にはあるから。


「ほんと美味しい。これなに? イチジク?」


「あ、はい。イチジクです」

「ただのイチジクじゃないよね?」

「ただのイチジクです」

「うそばっか。絶対なんかある」

「なにもないですよ。それよりミナミさん、勝手に売り物開けないでって僕言いましたよね?」


 長い黒髪を優雅にかきあげると「ふふ」と妖艶に笑い瓶の蓋を閉めて棚に……は!?


「こるぁっ! 手付けた瓶を棚に戻すなっ!」


 怒るけどまた「ふふ」と笑われただけだった。


 そう。この人はミナミさんだ。会えなくなったはずの彼女が今、僕のジャム屋にいる。一体どうしてこんなことになったのか、というと。



「クレープに付けたら美味しいと思うよ」


「クレープ……」

「そ。バター、小麦粉、卵、あとは牛乳。ある?」

「ありますけど」

「道具はフライパン。古くないのがいいな」

「はあ。これでどうですか」

「まあまあね。やってみる」



 詳しいことは、よくわからない。なぜなら彼女は。


 ──えっ、ミナミさん!?

 ──え……、あなた、私を知ってるの?


 ──知ってます。お、覚えてないですか? あの、昔、駅でケーキを。


 ──ごめんなさい。私、自分のことなにもわかんなくて。



 つまり過去の記憶がごっそり消えてしまったのだと言う。


 ひどい雨の日だった。駅前のパン屋にジャムを届けに行った帰り。予期せぬ再会はまたあの駅でのことだった。


 なんとなく惹かれてこの町に来たという彼女は景色を見てもピンと来ない様子でただぼんやりと雨を眺めるだけだった。



「うわ、すっげ」


 いい匂いがしてきて様子を見に行くと彼女は10枚目の完璧なクレープを皿に載せたところだった。


「案外上手く焼けるもんだね」


 言いながら「さ、たべよ」と微笑んだ。

「いやそれ売り物だから」

「へ?」

「へ、じゃなくて」



 再会した雨の日以来、ミナミさんはうちに住んでいる。初めはアパートが決まるまでの仮の住まいとして提供したはずだったのに、何日経っても彼女はアパートを借りようとしない。理由は。


 ──お金ないんだよね。


 そんなわけで、この貧乏ジャム屋でまさかの住み込み従業員を雇うこととなった……のだけど。


 当然のことながらイチゴジャムのように甘〜い同棲生活、とはいかず。


 さっきのつまみ食いといい、彼女の振る舞いはなんというか、普通と結構ズレていて。


 まあ思い返せば初めて会った五年前から彼女の振る舞いは普通ではなかったけれども。


 しかしそれに加えて料理、掃除、洗濯といった家事全般がひとつも、ひとっかけらもできない。教えようにもそもそも壊滅的に才能がない。これは記憶がないからではなく、たぶんもともとだ。


 とにかくなぜか僕が居候の彼女の分まで衣食住の世話をすることとなった。なんでだ。し、下着とかはさすがに自分で洗ってもらってますけどね!


 幸い『お菓子作り』というスキルだけは身に付いたままだった。というわけで彼女にはこの店のジャムを付けるスイーツを作ってもらうことにしている。それを臨時で作った喫茶スペースで提供するというわけ。これがなかなか好評で店の売り上げにかなり貢献してくれている。もうかれこれ三ヵ月だ。


「んんっ! これは絶品!」

「……だからっ」


 怒鳴ろうとしたけど顔を見てやめた。なんて幸せそうな顔してんの。反則でしょこんなん。


 記憶がないと言う以上、彼女の素性はいよいよ誰にもわからない。


 でもそれでいいと思った。

 その方がいいと。


 だって僕は────


「ほら、もう食べないでくださいよ。残りはこうやって四つに折って、バットに並べて冷蔵しといてください」


「ちぇ」

「ちぇじゃない。終わったらスコーンとパンケーキの生地も。今日の分お願いします」


「はあー? とんだブラック企業だね」

「どこが」


 作業は午前中いっぱいを使ってゆっくり進めるのがいつものやり方。喫茶スペースにお客さんが来るのはだいたい昼下がりだからそれで充分間に合う。


 彼女が作業にかかり始めたら、僕も大鍋に果物を入れていく。昨日ミナミさんに開けられてしまったからブルーベリー。それと今日はキウイとリンゴも仕込みたい。皮むきがたくさんだからミナミさんにも手伝ってもらおうか。


 考えながら大量の砂糖をどど、と注いで木べらでガシガシかきまぜる。全体にまぶされたらじゅんわり染みて砂糖の白さが消えるまで、しばらく置く。火にはまだかけない。


「アレンくん」

「……わっ。な、なんですか」


 集中していたところに突然大きな瞳が割り込んできて驚いた。


「ないんだけど」

「……は?」

「小麦粉が」

「……は!?」


 カラの紙袋を見せてきた。参ったな。


 小麦粉がないとミナミさんのお菓子はほぼなにも作れない。ジャムを付けるスイーツに小麦粉は不可欠だから。


「……仕方ない、買ってきます。少しの間店番、お願いします」


 あーい、と気の抜けた返事をもらって、エプロンのまま上着を羽織り裏口から外へ出た。


「ああ、雨か」


 しとしと。たぶん降り出したところだった。


 思えばこれが〈事件フラグ〉だった。

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