第23話 綺麗な黒

 それからのユキは体調を崩す日が増えた。

 必然的に彼女の寝顔もたくさん見れる日が増えて、彼女が小さく甘えてくれる日も増えたのは嬉しいことだったのだけれど。


 でも、同時にそれは、私と彼女の夢の生活の終わりを告げているようであった。

 泡沫の夢のように、今にも終わりそうで怖い。


 最近は眠るのが怖い。明日が怖い。日が昇るのが怖い。日が暮れるのが怖い。時間など過ぎないで欲しい。

 永遠にこの夢の中で、ユキとふたりでいたいのに。


 それはできないことではある。

 世界はそれを許さない。


 罪に染まり切った私達を罰するように無常に時間は過ぎて、ユキはどんどんと衰弱していく。私でも簡単に分かるほどに。最初は隠しているようだったけれど、それもだんだん不可能なほどに。


 私はそれが罰であるようにしか見えないものだった。人を滅ぼそうなどと画策し、無数の人を殺してしまった私達への罰なのではないだろうか。


 もしもそうなら、ユキがこうなっているのは私のせいだろう。私という穢れによって、高潔な彼女の魂は穢れてしまって、殺人という禁忌を犯してしまったのだから。そのせいで罰が降りかかっているのなら、この夢を壊したのは私の欲望ということになる。


 もしも私が怪物でなければ、こんなことにはならなかったのではないか。いつかの終わりは避けられないことにしても、もう少しだけ夢の中にいることができたのではないか。そんなことを想わずにはいられない。


 そんな日々が続いて。

 時間は過ぎて。

 彼女の体調が悪くなるのを止めることはできなくて。


 彼女はもう私より早く起きることはほとんどない。

 毎日、私は彼女の寝顔を覗いている。怖いまでに綺麗な寝顔を。

 時期に私よりも早く寝るようになるのだろう。今までは私が独りにならないように、私が寝るまでは起きていてくれたのに。


 寝込む日も増えた。

 弱い彼女を見ることができるのは、特権と優越感に包まれ、少しばかりの喜びを秘める行為だけれど。でも、彼女が弱っていくところを見るのは、嫌なものではある。彼女が消えてしまいそうで。


「ごめんね」


 悲しむ私を見て、彼女はそう言うけれど。

 これは私のせいなのだろう。でも、彼女にそう告白することはできない。私は私の罪を覆い隠そうとしてしまう。この恐れはもう私が私である以上仕方ないことなのだろう。


 この期に及んで、自らを綺麗に見せようとする私に自嘲気味に笑ってしまうけれど、きっとユキには全て見透かされているのだろう。だから、彼女は私を安心させようと、様々な言葉を尽くす。尽くしてくれる。

 言葉は怪物である私には響くことはないけれど、尽くしてくれているという心が私を安心させる。それだけでいいのだから、彼女が謝ることなどないというのに、彼女は私に謝罪をする。


 その言葉の意味を私は測りかねる。

 もうすぐ死んでしまうことだろうか。

 人を滅ぼせなかったことをだろうか。

 私の助けを必要していることをだろうか。

 弱ってしまっていることをだろうか。


「私は、かまわないから。最後まで傍にいてくれたら」


 どう返せばいいかわからなくて、ただそれだけを返してみる。

 彼女は安心したように微笑むから、この返答で良かったのかと安心するけれど、同時にやっぱりユキも恐れがあるのかもしれない。


「あの、ユキ。その……私はユキが何でもできるから好きなわけじゃないよ? ユキは、強く在ろうと、強くないといけないと思っているのかもしれないけれど……でも、そんなのどうでもよくて。ただユキが私を好きって言ってくれるから、愛してるって言ってくれるから……そう信じられるから、好きなだけで……」


 続けて言葉を紡いでみるけれど、あまりうまくいかない。何を言えばいいのかわからなくて、思いついたことをそのまま口から出してゆく。


「だからっ。その。もっと甘えてもいい……っていうか。無理しないで、というか……そ、そう。我慢しないで? 大丈夫だから。ユキが悪いことなんてないんだから。謝らなくていいから……だから。えっと……」


 けれど、次第に吐き出す言葉も消え去り、沈黙が流れる。

 でも、彼女はとても嬉しそうに微笑み。


「それじゃあ、ありがとうかな。今日も私の傍にいてくれてありがとう。ミリア、愛してるよ」


 そう言われれば、私も嬉しくなって。

 幸せな気分になる。

 心のどこかが満たされていく。

 熱が身体中を駆け巡る。


 でも怪物は腹を空かせたまま。

 それを覆い隠して、私は泡沫の夢に浸る。


 それからも彼女の魔力はとても弱っていった。

 治る方法はないのかとも考えてはみたけれど、私が想像する手段をユキが試していないわけもなく、そんなものはないということらしい。少なくとも今の技術では。

 これはもう、寿命のようなものらしい。魔力という強力な力を得た代償なのだろうと彼女は言った。


 そんなものなければ、もっとユキと一緒にいられたと思えば、魔力を恨む気持ちがないわけじゃないけれど、もしもユキに魔力がなければ、私とユキは接点すらなかっただろう。そして魔力融合の技術がなければ、私は既に死んでいる。


 そして、その日が来る。

 あの教室での出来事から、16年強あたりだろうか。


「ミリア。多分、今日までだよ」


 目覚めた私に第一声、彼女はそう言った。

 それは彼女の命が今日までという意味であることに気づかない私ではなかった。


「そう、なんだ」

「うん。そうみたい。わかるんだ。ごめんね。こんなに早くて」


 首を横に振る。

 そんなことは、本当にそんなことはない。

 本当にたくさんのものを彼女から貰うことができた。私だけでは感じることすら難しいものをたくさん。


「私、幸せだったよ。ユキのおかげでたくさん幸せを」


 ユキと出会ってからずっと幸せだなんて口が裂けても言えないけれど、でも確実に、私は幸せを感じている。彼女との生活が、私に幸せをもたらしてくれた。


「……そっか。それなら、うん。私も幸せだよ」


 幸せなのだろう。私は。

 そして、だからこそ。


「だから、ここで終わらせて」


 ユキのいない明日など、想像できない。想像したくない。それは恐怖と孤独に包まれた世界で。

 だから私は殺されることを望む。彼女に殺されることを望む。


「お願い。ユキ。いつでもいいよ」


 彼女はゆっくりと私の首に手をかける。

 それは冷たかったけれど、優しさに包まれていて。

 その手に力が籠り、私を殺してくれるものだと思った。

 でも。

 

 その手に力は籠らず。


「……ユキ?」


 彼女はただ優しく私を見つめるだけで。


「ごめんね」


 それは私の望みを否定する言葉だった。

 私は彼女がそうすることをどこか察していたけれど。でも、実際にその場面に遭遇すれば、感情の制御などできなくて。


「やだ。やだよ……! ユキ、なんで……」


 衰弱し寝込んでいるユキの肩を掴み、軽く揺さぶる。

 こんなことするべきではないのに、彼女はただいつもの綺麗で優しい眼差しで私を見据えるだけ。

 違うことは、私の願望を拒絶したことだけ。


「殺してよ! 早く殺して! なんでっ……! なんで、殺してくれないの……私を独りにしないで……独りは嫌だよ……ユキ、ねぇ、ユキ……お願い。お願いだから、私を殺して……」

「ごめんね……私、やっぱりできないよ」


 ユキは掠れた声を出す。

 頭の中が怒りと悲しみに染まっていく。


「なんでよ! なんで、殺してくれないの……? そんなに、私に独りになってほしいの? そんなに孤独にさせたいの?」


 言葉を放つ。


「違う……違うよ……ミリア」

「なら! ならなんで!」


 疑問を投げる。


「ミリア」

「なんでよ!」


 問を突き刺す。


「ね、ミリア」

「わかんない。わかんないよ! ユキ! どうしてよ!」


 叫ぶ。


「ミリア、愛してる」


 その言葉を言われれば、私の感情は一瞬引っ込んで、何も言えなくなってしまう。

 これが愛の力だというのなら、これはもう愛の暴力みたいなものだったのかもしれない。彼女にこの感情で殴られれば、私の思考はただそれだけに染まり、何も考えられなくなってしまう。


「今までずっと私の隣にいてくれてありがとう。私のわがままに付き合ってくれてありがとう。私の愛を受け取ってくれてありがとう。私を好きだといってくれて、ありがとう。全部、色々負担をかけたね。全部私のせいだよ。ごめんね。ありがとう」


 私は言葉を紡げない。

 彼女は何を言っているのだろう。

 何を言えば。

 何を言えば、殺してもらえるのだろう。


「もう1つ……もう1つだけ、お願いを聞いてくれない? 生きて、幸せになってほしい。きっとミリアは満足していないよね? 私はミリアを幸せにしたくて、できる限りのことをしたつもりだけれど、でも、満腹じゃないでしょう?」

「そんなこと……ない、よ」


 私の返答は非常に歯切れの悪いものになってしまう。

 私は幸せだ。ユキの愛のおかげで。

 それはほぼ確信に近いものだけれど。


 でも。


 怪物はいつも腹を鳴らしている。

 海の底で。

 嵐の中で。

 星の上で。

 裂け目で。

 怪物は叫ぶ。


「でも、もう我慢しないで? 私には時間が足らなかったけれど……でも、そのための武器を作っておいたから。それを使えば、きっとミリアは幸せになれると思う。それが最後の私の我儘。お願い。生きて欲しい。生きて、幸せになって」


 私は息を呑む。

 私の中の怪物から目を背ける。


「そんなの……そんなの無理だよ! 私、私は……幸せになんかなれないよ……ユキが、ユキがいないと、私……無理に決まってる。私なんかに、何か為せるわけないんだから……」

「ミリアなら、なれるよ。幸せに」


 そう簡単そうに彼女は言うけれど。

 それが不可能であることを私は知っている。


「無理だよ! 無理なの……ほんとに。ねぇ、ユキ? 私、ユキに会うまで、何も楽しいことなんてなくて、面白いことなんてなくて、ずっと暗闇の中だったよ。何も見えなかった。全部嫌で。居場所なんてなくて。でも、ユキが全部くれたんだよ? 楽しいことも。嬉しいことも。居場所も。愛も。献身も。光も。承認も。幸せも。

 だから……だから、無理だよ……! ユキがいないと……私。私、どうすればいいの? なにもできないよ! ユキがいないと、私はこの世界に居場所なんてないのに! そんなのやだ……怖いよ……ユキがいないと、怖いことばかりだよ……恐怖ばかりで幸せなんてないんだから……」


 私は小さな声で叫ぶ。

 でも、彼女はそれを優しく眺めるだけ。


「ねぇ……なんとか言ってよ……」


 ユキは私の頭を撫でる。

 そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。


「私、きっとミリアに救われたんだ。ミリアに出会って、本当に良かった。ミリアがいたから、私、今まで生きてこれた。実はね。元々、死ぬつもりだったんだ。誰も私を見てくれないし、どう見ても世界は灰色だから。でも、虹色に光る心の見えないミリアのおかげで、私は生きる理由を見つけて、幸せの形を見つけたんだよ」


 それは逆なはずだ。

 私がユキに救われたんだ。

 今までずっと彼女に助けられてきたんだから。

 だから、私は独りじゃ息もできないのに。


「だからね。誰かを救えるミリアなら、私を救ってれたミリアなら、幸せになれるよ。もう私のために我慢しなくていいから。その欲望のままに動いて、幸せになってほしいんだよ」

「そんなの……そんなの身勝手すぎるよ! そんなこと言われたって、私はユキがいないとだめなんだから! そんなこと押し付けられても私は……」


 彼女はずっと私の頭を撫でる。

 優しく。冷たいはずの手に。幻想のほのかな熱を纏って。


「そうだね。これは私の我儘だよ。でも、そうすればミリアの最大幸福は叶うと思うんだ。きっとミリアの世界は、先があるよ。先の変化あるよ。私にはそれはわからないけれど、でもきっとそれは素敵なものだから。だから、お願い……だめ、かな」


 こんなにも私に要求するユキなど、ほとんど見たことない。 

 本来ならそれを私は返すべきなのだろう。たくさんのものを彼女から貰ってきたのだから、少しでも何かを返すために動きべきなのだろう。それこそ、こんな彼女の願いぐらいではつり合わないほどのものを今まで貰っているのだから。


 でも、私はユキのいない未来など考えられない。考えたくもなくて。

 私は結局のところ怪物で。

 だから、彼女の願いを私は。


「できない……できないよ……そんなの」


 彼女の願いを無下にする。


「……幸せになんてなれないよ。ユキがいない世界なんてやだ……お願い。私を、殺して……」


 私の最大の懇願に。

 彼女は二度瞬きして。目を閉じる。

 そして、諦めたように目を開き、口を開く。


「……わかった。殺してあげる」


 歓喜した。

 ずっと私はユキのその言葉を待っていたのだから。


 ゆっくりと彼女は起き上がり、私を押し倒す。

 ユキの長い腕が伸びる。美しい手が私の首にかかり、少しずつ力を強めていく。ほのかな温もりが首を絞めていく。

 私の手を彼女の手に添える。


「ぁ……」


 彼女の純白の髪が私の顔にさらりとかかる。

 嵐の音も止んだ。

 波も立っていない。

 空も静かにしている。

 

 息が詰まり。

 喉が痛み。

 ユキの熱を感じて。

 愛を感じて。


 思考がぼやけて。

 思い出して。

 触れられる喜びを。


 ユキの目を見て。

 幸せを感じて。


「……やっとわかったよ。ミリアの心の色。心は大きく純黒だったんだね。あらゆる光を吸収する黒。だから、何も見えなかったんだ。だから、窮屈だったんだね。ミリアの黒髪と同じ……本当に……なんて綺麗な黒……」

 

 視界が暗くなる。











 そして、私は目覚める。


「嘘つき」

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