一. アプレイラの気持ち
私が地上へ通じる鍵を、ネイル様の机から
見つけようとしたのは、あの人に会いたかっ
たからだ。
ネイル様はあの日、私を見たけれど、
私の考えていることに気付かなかった。
いつものように、私がネイル様に仕え、
小さき天使として小さい者の魂を地上へ運ぶ
船の船長、ゼス老人へお水を届ける役目を
果たす、そう思っていたのだと、思う。
ネイル様ほどの天使になれば、私の思いつ
きなど無謀としか言えないだろうし、考えた
ことだってないだろう。私がこれからしよう
としていることを言ったらしかられるだろう
し、もしかしたら明日からつらいお勤めに回
されるかもしれない。そう思ったから、ネイ
ル様がいつもより早い私の訪問に微笑しなが
ら「もう朝のお勤めは終わったの?アプレイ
ラ」って尋ねてきたとき、やっぱり不安にな
って、とっさに「はい」って答えちゃった。
ウソをついたっけ。
「そう…」
ネイル様は、それでも私をあやしむことなく、言葉を続けてた。
「これからお産のはじまる女がいるようなの、アプレイラ」
ネイル様は、すごく大きい背中の翼を少し広げて、私に背を向けた。
「産まれる子どもは早く死ぬのか、それとも生きるのか……。
ゼス老人に尋ねてこなくてはなりません。もし生きるのなら、手の平に
寿命を書いてやらねばならないから……」
ネイル様はあちこちを片付けながら話を続けた。
「アプレイラ、ゼス老人は産まれる子等の魂をここから地上へ運んでくださる船長…、その船長にお水を渡すのがお前の役目…、
素晴らしく、そして大切なお役目だわ、誇りに思うのよ」
「はい、ネイル様」
身支度の済んだネイル様は、そのまま薄緑色の木枠に咲く
花通路を通って、外へ出ていった。
私は、ネイル様をしばらくみていたけど、すぐに部屋に戻った。
ネイル様の机に近づいて、引出しを開いた。
シンとした部屋に、ちょっと大きな音がして、私は手をひっこめた。
でも、もう音はしなかった。
私は薄暗い引き出しの中で鈍く光っている
それを取りだし、しっかり握って部屋を飛び
出した。
夢中で私は走った。
誰かに見つかるのが怖くて、必死でうつむいて雲を抜けた。
少し日の当たる場所で天空花を食べる羊の群れを超え、
雨の貯水している錆びた橋(私達の間では『古びた貝殻』と呼んでいる)を超え、私はひたすら走った。
悪いことをしていると考えるヒマはなかった。
鍵のひんやりとした感触と、
今日の朝のお勤めをしなかったという事実だけが、私の中に罪悪感として滞り、
私を責めた。
だけど逆にいえば、怖かったのはそれだけだった。
「今日はアプレイラが来んが、どうしたかの?」
手に寿命を描き込みに来たネイルに、ゼスはそう尋ねた。
ネイルの顔色が、変わった。
私達の住む天空は、雲と雲が重なり合った
り、遠くになったり、広がりはいつも定まらない。
だけど、必ずいつもその場所だけは他の雲を寄せ付けない。
私達がほとんど近づかない、地上への道だ。
ちぎれ雲の中に、石碑があって、そこに鍵を差し込むと私達が降りる光を呼び込む場所なのだ。
天使が地上へ降りるとき。
それは、ここで悪を犯したものか、
よっぽどの使命を持った天使だけだ。
降りるとき、羽は当然消されるし、
しかし代わりにその背中にはその者に
ふさわしい罰や運命が刻まれるのだと、
私は小さい頃おばあちゃんに聞いた。
私は今まさに、そこへ来ている。
来たのははじめてだった。
風の強い場所で、不気味なくらい
静かな、青い空が私の頭の上に、居た。
私は握り締めていた鍵を、石碑に差し込んだ。
かすかに音がして、そこの風向きが、暑く重く、変わり始めた。
そのとき、かすかに私を呼ぶ声が聞こえた。
私は振り向かなくても、ネイル様だろうということが
解っていたけど、ゆっくり振り向いた。
「アプレイラ……!!」
そこには、真っ青になっているネイル様が居た。
「もう始まってしまっている……」
風を読んで、ネイル様はうめくようにそう
つぶやいた。
それでもネイル様は私に向かって、問い掛けてきた。
「何故地上への扉を開いたのです、どこへ行こうというの」
「地上です」
「アプレ… 」
さえぎって私が続けた。
「会いたいと思う人が居ました。偶然見てしまいました。
だから私、会いに行きます。只、それだけです」
私が言い終わるのを待ちきれないように、
ネイル様が叫んだ。
「何てくだらない…!
只それだけのために、貴方は羽を落とし、罰を背負おうと
いうのですか?」
さらにネイル様は続けた。
「いいですか、アプレイラ…、地上に降りるということは、
人間になるということなのですよ?つまり、生きられる時間が
限られ、苦しみも痛みも、すべてを与えられるのですよ?
良いことなど何もないのです…、
考え直して、早くその鍵を抜きなさい!」
「嫌です」
私の拒絶に、ネイル様は愕然として私を見つめた。
そして言いたくなかったことのように、苦しげに私に
告げた。
「アプレイラ、貴方がもし人間になったとして、その生涯を終えても、
もう再びここへ戻ってくることはできないのですよ。貴方は罪を犯した…、
見えない手は、貴方を、貴方の罪を全てお見通しなのですよ、アプレイラ…。
人間になり生涯を終えても行く先は地下なのです、地獄なのですよ!
それでも貴方は人間になりたいというの」
それが何だというのだろう…?
私はそのときちっとも怖くなかったから、
言葉をネイル様に返した。
「ネイル様は私の気持ちをくだらないと言いました…。
生を司る神ならば、ネイル様、ネイル様は人を好きになる
気持ちもわかるはずなのに…、残念です、くだらないなんて
いう言葉が貴方から出てくるだなんて…。
私はもうここへ戻る気はありません。
火に焼かれて消えても構わない…、
私は行きます」
くるりと背を向ける。
光が私を包み込んだ。
翼が消える。
雲は渦へ変わった。
愛するからこそ生命が産まれるのに
何故それを追い求めるのが罪だというのだろう。
まだ私には解っていなかった。
この先の光は、
なにも、
見えない。
私は光と同時に落ちた。
私という天使が、消えた瞬間だった。
「あの女の子は、
今思えば、天使だったんじゃないのか、って思えるときがある。
僕とあの小さな女の子の出会いが、草原で倒れていたところを
僕が助け起こす、なんていう特殊な出会いだった所為だったからかな。
でもそれだけじゃないと思う。
あんなに綺麗な銀髪は見たことがなかったし、角度によって
すみれ色や矢車草の色に変わる目も、見たことが無かった。綺麗な
銀髪だから、僕はあの子にシルヴィアって名付けたんだ。
僕は口の聞けないあの子にシルヴィアと名付けたけど、もしかしたら、
違う名前を持っていたのかもしれない。そしてあの子は昔は、話せていた
のかもしれない。時々、シルヴィアが僕やレダを見る目はいつも、
何かを話そうともがいているように見えた。
とにかく全てが謎のまま、あの子は僕らの前から
姿を消したんだ。あの子がいなければ、レダも、レダが産んだ
子も、この世にはいなかったろう。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます