前夜の天秤は右へ傾く

飯田華

前夜の天秤は右へ傾く

 キリスト教に倣えば、クリスマスはイエス・キリストの誕生を盛大に祝う日であるらしい。

 でも、日本ではそういう畏まった位置づけはされていなくて、サンタがプレゼントを長靴に放り込んでくれる日だとか。クリスマスイブなんかは家族や恋人と一緒に過ごす日、みたいな。両日どちらも厳粛さの欠けた、アバウトな意味合いを持っていた。

 

 ご多分に漏れず、わたしもそんな意味をクリスマスやクリスマスイブに据え置いている。

 

 クリスマスイブ当日の昼過ぎ。数日前に冬休みに突入していたから、家でごろごろとする自堕落が許されている今、自室には二人分の呼吸が息づいていた。

 わたしにとってクリスマスイブは、友達とのんびりと時間を過ごす日だった。

「ワイドショーしかない……」

 点けているテレビ画面にリモコンを向けながら、美里香が不満そうにぼそりと呟いた。ポチポチと白磁の指先がボタンを押すたび、チャンネルがからころと切り替わる。

 どれもこれも、デートスポットやら人気の料理店の紹介ばかりでつまらない。自宅にいることを選んだ人間に、テレビはなぜこうもアウトドア関連の出来事を伝えたがるのだろう。もっと家でも楽しめる映像を垂れ流してほしい。

パンダの親子とか、ペンギンがとたとた歩く姿とか。

「やーめた」

 お手頃なチャンネル探しを諦めたのか、美里香がローテーブルにリモコンを放った。最終的にテレビの枠内に収まったのは、お年を召したご意見番がぺちゃくちゃと世論に意見を申す番組だった。全く好みではない。

 美里香は耳にかかる長髪を手で払いながら、

「なにかお菓子ない? 今日の昼、少ししか食べてなくて」

 食欲に意識の矛先をシフトチェンジさせたようだった。上向きの手のひらをこちらに突き出して、摘まめるものをご所要している。

「一階のキッチンにあるけど……自分で取ってきてよ」

「えー、私、キッチンの場所分かんなーい」

「うそこけ。トイレの場所までばっちりでしょ?」

「ちぇっ」

 舌打ちを鳴らしつつ、美里香がクッションから腰を浮かせた。

「食器棚の一段目にあるはず」

「うーい」

 軽い生返事をしつつ美里香がドアノブを捻り、二階の廊下へと消えていく。そのすらっとした後ろ姿を見送った後、テレビのチャンネルを切り替えた。

 デートスポットとして人気の、イルミネーションが施されたショッピングモール近辺の紹介……まぁ、落第点かな。

 去年披露された、街路樹にくくりつけられた光源が煌めく様をVTRで享受していること数分、美里香が菓子を携え帰ってきた。

 両手にじゃがりこ。花がないチョイスだけど、まぁ美味しいしいいか。

「私の好きなじゃがバター味があるなんて、小鞠はさすがだね」

「たまたまだよ。わたしもじゃがバターが一番好きだから」

「以心伝心……ってことか」

 胃心伝心の間違いだと思う。

 美里香はさっきの位置……わたしの右隣のクッションに腰を据えて、ローテーブルにじゃがバター二つを転がした。

「どっちから食べる?」

「どっちも同じなんだけど」

「じゃあ左からね」

 意味のない問答を挟んだ後、美里香がじゃがりこの蓋をぺりぺりと剥がす。瞬間、部屋にバターの香りがかすかに広がった。

「よし食べよう」

 美里香の合図と共に、円筒状のパッケージに指をつっこむわたしたち。

 前方のテレビにはもうイルミネーションなんて一ルクスも映っていなくて、水族館の催されるイルカショーに切り替わっていた。

 イルカは当然のようにかわいくて、じゃがバターは当たり前だけど美味しい。

 聖夜にさしかかるまで、あと数時間ほど。

 わたしたちの日常は進化することも退化することもなく、朝霧のごとく、そこそこ充実したこの部屋に漂っているのだった。

 

 

 

 美里香と知り合ったのは、中学校に入ってすぐのことだった。

 地元の小学校からの顔見知りと、他の学校から来た新参が半々となった教室。わたしの隣の席に腰かけていたのが後者の美里香で、正直なところ、「この子とは仲良くなれそうにないなぁ」というのが第一印象だった。

 美里香は、自他ともに認めるほかない美人だ。

 高嶺の花と言い換えてもいい。ぱっちりとした二重の目蓋に、端正な輪郭に縁取られた白磁の肌。すっと通っている鼻筋に、血色の良い薄桃色の唇。スレンダーな体躯に沿う若干茶色がかった長髪は歩くたび稲穂のように揺れて、すれ違う人の視線を滑らかに攫っていく。

 当然、同級生からの人気はすさまじかった。授業が終わるごとに、隣の席にはちょっとした人だかりができて、静かに本を読んでいたいわたしにとっては大変迷惑だった。

 

 周囲の視線をかっさらう、無視できないほどの光を放つ、隣の席の同級生。

 正直、目が潰されないうちに早く席替えをしてほしいと、当時は思っていた。

 …………思っていたのだけど。

 なぜか仲良くなったわたしたちはこうして高校二年生の冬を迎えるまで、ほとんどの時間を一緒に過ごしてきた。

 高校も一緒。詳しくは訊いていないけど、多分大学も一緒。

 もしかしたら、就職先まで同じかもしれない。

 スーツを身に纏い、隣の席でぱちぽちとキーボードを打っている美里香……結構あり得そうな未来だった。

 

 というわけで、あり得ないと思っていた縁がここまで長続きしているのは素直に嬉しいことなのだけど……と、ここで回想を中断して、隣でじゃがりこをかじる美里香に視線を移す。

 サクサクと軽快な音を立てながらバター味を堪能している美里香は、中学から変わらず、高嶺に根を下ろしていた。むしろ、ナチュラルメイクを施すことで一層その美貌に拍車がかかっている。

 そんな美里香は二年生になって男子に七回、女子に四回告白されたらしい。合わせるとイレブン。とてつもない数だ。サッカーチームが結成できてしまう。

 

 でも、彼らの申し出を美里香が受け入れることは一度としてなかった。

「タイプじゃないから」

 告白されたことをわたしに報告した後、美里香は決まったようにその一言を口にしていた。

 その一方で、「じゃあ美里香のタイプってどんなの?」と訊いても、要領のある返答が返ってくることはなかった。大体、「優しい人かなー」とか、「一緒にいても気楽な人がいい」とか。当たり障りのない回答ばかりではぐらかされてしまって、的を得ない。

 今年のクリスマスイブも、告白とまではいかないまでも遊びの誘いを受けたらしく、「おでーとのごていあんをされたが、ていちょうにおことわりしたぜ!」とあっけらかんと言っていた美里香。

 住む世界が違うなぁと思いつつ、横目で様子を窺うと。

「私、つい最近までイルカのこと、魚だと思ってたんだよねぇ。ほら、どうみても魚じゃん。見た目が」

 なんて、素っ頓狂なことを呟いていた。

 本当にモテているんだろうか。

 失礼な疑問符が脳裏を突いたけれど、まぁ美人だし、人当たりもいいからモテるよなぁという結論に落ち着く。

 そんな美麗な友人は今日も今日とてわたしの部屋で、だらだらと時間を潰している。

 

「ねぇ」

 ふとした疑問が、思考からそのまま舌先に乗った。

「美里香って、恋人作らないの?」

「…………いきなりどうしたの」

 テレビの方を向いていた美里香がゆっくりとこちらを振り向く。唇の端からはじゃがりこの先端が覗いている。なんでさっさと食べないんだろう。

「いやぁ、美里香って結構……モテるのに、そういうことに全然興味ないみたいだから気になって」

 友達に明け透けなくモテるというのは意外と気恥ずかしさが募るもので、それでも何とか最後まで問いの真意を説明する。

「……うーん」

 わたしが言葉を紡ぎ終わった後、美里香は唸り、顎に指を添えるポーズを取った。いかにも『考え事をしています』といった雰囲気を醸し出していて……カリっと、途中でじゃがりこを噛み砕く音が部屋に響いた。

 案外、何も考えていないのかもしれない。

 全て食べ切ったのか、「あー美味しかった」と呟いた美里香が、いきなりわたしの瞳に焦点を合わせてくる。

 青の混じる二つの瞳が、わたしを捉える。

 つい息を呑んで、その虹彩の美しさに見惚れてしまった。

「作りたくないわけじゃないよ? ただ、私はすごーくハードルが高いの」

「ハードル?」

 美里香の口から普段は訊かない言葉が飛び出してきて、思わず反復する。

「そ、ハードル。つまり、求める水準が高いってことだよ」

「美里香の求める水準って、どんなの?」

「それはぁー」

 語尾を伸ばした美里香は、「あ、こういうの」とテレビを指差した。 

 テレビは依然としてデートスポットの紹介に尺を使っていて、今は「すごい人だかりですねぇ!」と言いながら、ニュースキャスターがにぎわう商店街の中を突き進んでいる。大変そうだ。

「私は、『こういう場所に行こうぜ!』って誘ってくる人は苦手だな。私ははちゃめちゃに出不精だから、デートよりも家でだらだらしてるのが性に合ってる」

「イルカショーは?」

「イルカはテレビで眺めてるだけでいいかなぁ。小鞠もそのクチでしょ?」

「え、ああ、うん」

 急にわたしに矛先を向けられ驚きつつも、率直に肯定する。わたしも、イルカは画面の中で見ているだけで十分だった。

「あとこれは前にも言ったと思うけど、話が合う人がいいな。波長が合って、一緒にいても気遣いしなくてよくて、軽口もぶつけ合える。そんな感じ」

「じゃあ、見た目は?」

「え?」

「見た目だよ、ビジュアル」

 正直、今の話を訊いても根本的なものは得られなかったから、いっそのこと深く切り込んでみる。

 すると。

「見た目はぁ、あぁ……えーと」

 なぜか、美里香の目が泳ぎ始めた。

「どうしたの急に」

「いや、別になんでもないんだけど」

 動揺を隠す素振りも見せず、取って付けたような返答を零す美里香。

 途端に、部屋にバターの香りではなく、緊迫感が漂うになる。え、なにこれ。気楽に恋バナでも嗜もうとしていたのに、なぜか美里香は本気になっていた。

 刻々と、時が過ぎ去っていく。

 窓の外から聴こえてくる、トラックの排気音。ニュースキャスターが人混みに呑まれる背景をバックに、美里香は、

「ええとぉ……もういいか」

 諦めのような文句を紡ぎ、

 そして。

「私より、背が小さい人」

 と、明確に答えを出した。

 頬の上には朱色が散らばっていて、逐一吐きだされる息には粗っぽさが滲んでいる。

 なぜそんな表情を浮かべているのかまるで見当がつかない。けれど、その謎を解けば、彼女の求める恋人像を理解できる気がした。

 だから、悩む。うーんうーんと頭を抱えて、顎に指を添えたりもして。

 数秒経って。

 もしかして。

「結構年下が、例えば、小学生が好きとか」

「そんなわけないでしょ」

 ピシッと、額を強かにチョップされる。もちろん本気じゃない発言だけど、少々お板が過ぎたようだった。ふくれっ面になった美里香がわたしをじっとりと見つめ、今度は「はぁ~~~~~~~」と、大層なため息を吐き出した。

 そして。

「今年のクリスマス、小鞠にプレゼントは絶対届かないね」

「え、なんで」

「悪いやつだから。めちゃくちゃ」

 そんな捨て台詞を残し、目蓋を降ろす。そしてずしんと、思い切り頭をわたしの右肩に預けてきた。

 さらさらとした髪質が首筋をくすぐって。

「ちょっと、重いんだけど」

 正直にそう告げても、美里香は頭を持ち上げる気はさらさらないようだった。

「重くてもいいから、しばらくの間こうしてて」

「えぇ……?」

 急に暴君になった美里香の口調には、ささくれだった感情が含まれている。

 けれど、何が美里香の逆鱗に触れたのか分からなくて、結局、彼女のタイプを窺い知ることはできそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 どれだけ鈍いんだろう。

 薄い肩の上に身を預けている間、考えていることはそればかりで、目蓋の裏に籠る熱はいつまで経ってもどこかへ行ってはくれなかった。

仄かな温もりが網膜をしっとりと濡らして、私にいつまでも、確かな像を映し出している。

 

 小鞠の部屋でクリスマスイブを過ごすのはもう五回目で、だからこそ、小鞠が私の存在に慣れているのもまぁ、しょうがないことだと思う。

 でも、でも! ほんの少しは期待してしまうのも、しかたのないことなんじゃないだろうか……と思いながら、さっきまでの会話を思い返した。

 私よりも頭一つ分小さい小鞠は、非常に察しが悪い。私が回りくどく、臆病であることを差し引いても、自分に対して向けられている感情にまるで興味がないのだ。

 私が向ける、好意も。

 どこ吹く風で流されて、いつもの『友達として』の距離感で終わってしまう。

 それが歯がゆくて。


 でも、現状を打開できる勇気を、私はまだ手に入れていない。


 私の狸寝入りに気づいていないのか、小鞠は「ペンギン、かわいいな……」と呟きながら、テレビ画面の方を向いているようだった。瞼の裏を透かして様子を窺う、なんてことはできなくて、息を潜めて、彼女の漏らす声色を鼓膜で拾う。

 鼓動が感情の撃鉄を跳ね上げるたび、どうにかなりそうになる。

 本当は、こんなに距離を詰めることには慣れていなくて、平常、どうやって呼吸していたのかを忘れてしまっていた。

 明らかに寝入っている人間が吐くはずのない、荒々しい吐息。

 それでも、小鞠は気づかない。

 その鈍さに救われている自分を苦々しく思いながらも、なにかできないか考える。

 なにか、きっかけのようなものが欲しくて。

 焦燥と期待がごちゃまぜになった衝動が、身体の重心を右へ右へと偏らせる。

 ぐいぐいと、小鞠の肩甲骨と左頬の隙間に頭をねじ込む。小鞠が「うおっ……寝相すごいな」と零すのを意図的に無視して。

 彼女の首筋と私の唇。数ミリの空気がそれらを隔てている。

 

 クリスマスイブは、家族や恋人と過ごす日だ、日本では。

 小鞠にとってクリスマスイブは、どんな日なのだろう。

 …………友達と過ごす日、なんだろうなぁやっぱり。

 

 でも、私は違う。 

 ほんの少しだけ、なけなしの勇気を振り絞って。

 小鞠の首の、熱に触れる。

 唇の感触に気づいたのか、やっと小鞠が視線を降ろす。もちろんその顔色は窺うことはできないけれど、きっと、びっくりしていることだろう。

 私はじっとして、寝入ったふりをしたまま彼女の注目をかっさらう。

 いい気味だ。

 心地の良い達成感に浸りながら、明日のことを夢に見る。

 

 狸寝入りに満足したら、小鞠に「明日、クリスマスプレゼントを買いに行こう」とでも誘ってみよう。

 きっと私にも、サンタクロースはやってこないだろうから。

 

 

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