四
我妻玄悟は戸の前に立っていて、黙って左の方を指さした。
「渡り廊下の先に小屋がある。そこに、海野が」
「……俺に黙っていたということは、婆ちゃんも知らなかったんですか」
「いいや、彼女は知ってたよ。則人坊に黙ってたのは、チヅさんの頼みや」
一瞬、間が空く。
「どうして」
「あの人は祓を則人坊に継がせたことを後悔しとった。できれば村の呪器を祓って、あとは呪いと関係ない世界に生きてほしいと。海野と関われば、それは不可能や」
則人は何も言わなかった。祖母の気持ちを理解したかもしれないし、あるいは憤ったのかもしれない。いずれにせよ、彼は辿り着いたのだ。
「行きましょうか」
則人は、麦に促した。
昼間に歩いた敷地と同じとは、到底思えなかった。星だけが不躾に明るく、行く先を示している。
則人が、小屋の扉を閉ざしていた錠を開ける。がたついた木戸はゆっくり動き、その間がもどかしい。床はなく、剥き出しの地面の上にそのまま天井や壁があった。正面には格子があり、ふたりの背後から差し込んだ弱い光がそこを照らした。姿形こそ
判然としないが、気配はそこにある。
「……誰じゃ、おめえ」
歩み寄ると、海野正眼は低く、ざらついた声で問うた。「誰じゃ、おめえら」
「この村の祓です。紫箋を渡してください」
則人は海野にさえ敬語だった。麦は海野をよく観察する。禿げた頭頂部にこびりついた、乾燥した頭皮、すり切れた衣服、かじられた足の爪。目が慣れて、海野の日々を想起させる細部が見えた。
大柄な男で、座っているというのに目線の高さは則人と同じだ。麦は、この男と目を合わせるところを想像して、ぞっとした。
「ああ……音羽のガキか……忌々しい!」
「ガキじゃありません。俺は、音羽則人です」
その瞬間、海野は紙片を取り出した。すかさず則人が格子の隙間に手を入れ、奪い取る。
麦はそれを見て、やはりあれが紫箋だったのか、と合点した。そこには赤く拙い字で、「佐山和夫」とあった。
不意を突かれた海野は歯ぎしりして、
「あの娘が喋ったか? 手懐けたと思ったんだが……音羽はいつもわしの邪魔をする」
「どうして、和夫さんを殺したんですか」
和夫を恨む人間は、結局見つからなかった。隠された確執などなかった。しかし、
「俺を牢にぶち込んだのはあいつじゃ! それだけじゃねえ……」
「拷問にも加わった。呪器の回収も手伝ってくれた。でもそれは全部……あなたが招いたことです」
「そんな言葉で反省すると思うたか。なら、呪器なんぞ作らんわ!」
「……今すぐ、ここで殺したって構わない。けど、玄悟さんや婆ちゃんがあなたを生かしたなら――情けかもしれないけど、俺もそれに従います。ずっとこの牢にいると良い」
海野はそれを聞いて、さきほどまで犬のように吠えていたのに、急に黙ってしまった。そして、けたけたと笑って、
「生かした――ちげえさ。殺せなかったんじゃ、我妻も音羽もわしを! この身に受けた呪いのせいで!」
「呪い?」
「不死じゃ、不死! 誰の仕業か知らねえが……呪器をぎょうさん作ったせいかもな、わしは不死の呪いを受けている」
海野は懐から木の棒を取り出した。それを握ると、勢いよく自分の左腕に振り下ろす。そして棒きれを格子の外に投げ捨て、左腕を麦たちの方へ突き出した。そこには荒れた肌があるだけで、血も、傷口も見当たらなかった。
「見ろ、傷ひとつつかん――刺したそばからすぐ治る」
麦は棒を拾い上げた。乾ききった血は確かにこびりついている。しかし、傷はすぐに塞がるという。
「馬鹿な」
「最上の呪いじゃ! お前には祓えまい! 佐山は死んだが俺は死なねえ……」
麦はたまらず、則人の腕を引っ張った。彼の目がかっと見開かれ、拳を強く握るのが見えたためだ。紫箋は回収した。もう、ここにいる意味はない。海野こそが呪いであった。人の心を蝕む呪いだ。
鍵をかけ、本邸に戻る。我妻がやりきれない顔で待っていた。
「……不死の呪い。そんなものがあったなんて、知りませんでした。婆ちゃんでも解けなかったんですか」
「いや、それは」
我妻が答えようとすると、それを遮って則人が言った。「よかった」
則人は誰にも話しかけていなかった。ただ自分に言い聞かせるように、口に出しているだけだった。
「もしあいつが普通の人間だったら、俺は殺していたかもしれない」
集落は寝静まり、虫の音だけが辛うじて生命の気配となっていた。麦は疲れていた。長い夜が、早く終わって欲しかった。
§
則人の家は畳の敷かれた部屋と、あとは風呂に台所、厠と、至って簡素な作りだった。一番広いのはやはり和室であろうが、回収された呪器があちこちに置かれ、窮屈だった。
「祓というのは特別な役職ではありません。必要なのは、知識だけです。俺はたまたまそれを受け継いで、だから、別に優れた能があるわけでもない」
紫箋を祓うところを見せてほしい。麦がダメ元で頼むと、則人は謙遜とも拒絶ともとれることを言った。しかし、
「見ていて気持ち良いものでもないでしょうが、それで構わないのなら」
一刻も早く祓わなくてはいけない、と則人は言った。
「使用された呪器を放置しておくと、新たな呪いに転ずることがあります。新たな呪器を生み出すかもしれないし、もっと広範な呪いになった例もあります」
部屋には紫箋が置かれ、その横に則人が正座する。麦は少し離れたところから見守っていた。
則人が簪を抜き、髪がほどかれる。手を頭に当て、うねった束の中から髪を一本抜いた。そして、それを簪に巻き付ける。
長い髪も簪も、すべて祓の道具だった。棚の上の写真には、ふたりの人間の写真が並んでいた。そのうちのひとりは、則人のように簪を結わえた男だった。鼻が高く、目は鋭い。歌舞伎役者みたいだ、と麦は思った。
「婆ちゃんは病気で髪が抜けやすかったんです。簪や髪は、爺ちゃんのものを使ってました」
則人が、紫箋に簪を刺す。力が強いわけでも、穴を開けたわけでもない。それなのに、カッと音がして、何かが貫かれたような感じがした。
「……終わりです」
それは何とも、呆気ないものだった。則人が立ち上がり、紫箋を脇によけた。
部屋がまた、少しだけ狭くなった。
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