我妻玄悟は戸の前に立っていて、黙って左の方を指さした。


「渡り廊下の先に小屋がある。そこに、海野が」

「……俺に黙っていたということは、婆ちゃんも知らなかったんですか」

「いいや、彼女は知ってたよ。則人坊に黙ってたのは、チヅさんの頼みや」


 一瞬、間が空く。


「どうして」

「あの人は祓を則人坊に継がせたことを後悔しとった。できれば村の呪器を祓って、あとは呪いと関係ない世界に生きてほしいと。海野と関われば、それは不可能や」


 則人は何も言わなかった。祖母の気持ちを理解したかもしれないし、あるいは憤ったのかもしれない。いずれにせよ、彼は辿り着いたのだ。


「行きましょうか」


 則人は、麦に促した。

 昼間に歩いた敷地と同じとは、到底思えなかった。星だけが不躾に明るく、行く先を示している。

 則人が、小屋の扉を閉ざしていた錠を開ける。がたついた木戸はゆっくり動き、その間がもどかしい。床はなく、剥き出しの地面の上にそのまま天井や壁があった。正面には格子があり、ふたりの背後から差し込んだ弱い光がそこを照らした。姿形こそ

判然としないが、気配はそこにある。


「……誰じゃ、おめえ」


 歩み寄ると、海野正眼は低く、ざらついた声で問うた。「誰じゃ、おめえら」


「この村の祓です。紫箋を渡してください」


 則人は海野にさえ敬語だった。麦は海野をよく観察する。禿げた頭頂部にこびりついた、乾燥した頭皮、すり切れた衣服、かじられた足の爪。目が慣れて、海野の日々を想起させる細部が見えた。

 大柄な男で、座っているというのに目線の高さは則人と同じだ。麦は、この男と目を合わせるところを想像して、ぞっとした。


「ああ……音羽のガキか……忌々しい!」

「ガキじゃありません。俺は、音羽則人です」


 その瞬間、海野は紙片を取り出した。すかさず則人が格子の隙間に手を入れ、奪い取る。

麦はそれを見て、やはりあれが紫箋だったのか、と合点した。そこには赤く拙い字で、「佐山和夫」とあった。

 不意を突かれた海野は歯ぎしりして、


「あの娘が喋ったか? 手懐けたと思ったんだが……音羽はいつもわしの邪魔をする」

「どうして、和夫さんを殺したんですか」


 和夫を恨む人間は、結局見つからなかった。隠された確執などなかった。しかし、


「俺を牢にぶち込んだのはあいつじゃ! それだけじゃねえ……」

「拷問にも加わった。呪器の回収も手伝ってくれた。でもそれは全部……あなたが招いたことです」

「そんな言葉で反省すると思うたか。なら、呪器なんぞ作らんわ!」

「……今すぐ、ここで殺したって構わない。けど、玄悟さんや婆ちゃんがあなたを生かしたなら――情けかもしれないけど、俺もそれに従います。ずっとこの牢にいると良い」


 海野はそれを聞いて、さきほどまで犬のように吠えていたのに、急に黙ってしまった。そして、けたけたと笑って、


「生かした――ちげえさ。殺せなかったんじゃ、我妻も音羽もわしを! この身に受けた呪いのせいで!」

「呪い?」

じゃ、! 誰の仕業か知らねえが……呪器をぎょうさん作ったせいかもな、わしは不死の呪いを受けている」


 海野は懐から木の棒を取り出した。それを握ると、勢いよく自分の左腕に振り下ろす。そして棒きれを格子の外に投げ捨て、左腕を麦たちの方へ突き出した。そこには荒れた肌があるだけで、血も、傷口も見当たらなかった。


「見ろ、傷ひとつつかん――刺したそばからすぐ治る」


 麦は棒を拾い上げた。乾ききった血は確かにこびりついている。しかし、傷はすぐに塞がるという。


「馬鹿な」

「最上の呪いじゃ! お前には祓えまい! 佐山は死んだが俺は死なねえ……」


 麦はたまらず、則人の腕を引っ張った。彼の目がかっと見開かれ、拳を強く握るのが見えたためだ。紫箋は回収した。もう、ここにいる意味はない。海野こそが呪いであった。人の心を蝕む呪いだ。

 鍵をかけ、本邸に戻る。我妻がやりきれない顔で待っていた。


「……不死の呪い。そんなものがあったなんて、知りませんでした。婆ちゃんでも解けなかったんですか」

「いや、それは」


 我妻が答えようとすると、それを遮って則人が言った。「よかった」

則人は誰にも話しかけていなかった。ただ自分に言い聞かせるように、口に出しているだけだった。


「もしあいつが普通の人間だったら、俺は殺していたかもしれない」


 集落は寝静まり、虫の音だけが辛うじて生命の気配となっていた。麦は疲れていた。長い夜が、早く終わって欲しかった。


§


 則人の家は畳の敷かれた部屋と、あとは風呂に台所、厠と、至って簡素な作りだった。一番広いのはやはり和室であろうが、回収された呪器があちこちに置かれ、窮屈だった。


「祓というのは特別な役職ではありません。必要なのは、知識だけです。俺はたまたまそれを受け継いで、だから、別に優れた能があるわけでもない」


 紫箋を祓うところを見せてほしい。麦がダメ元で頼むと、則人は謙遜とも拒絶ともとれることを言った。しかし、


「見ていて気持ち良いものでもないでしょうが、それで構わないのなら」


 一刻も早く祓わなくてはいけない、と則人は言った。


「使用された呪器を放置しておくと、新たな呪いに転ずることがあります。新たな呪器を生み出すかもしれないし、もっと広範な呪いになった例もあります」


 部屋には紫箋が置かれ、その横に則人が正座する。麦は少し離れたところから見守っていた。

 則人が簪を抜き、髪がほどかれる。手を頭に当て、うねった束の中から髪を一本抜いた。そして、それを簪に巻き付ける。

 長い髪も簪も、すべて祓の道具だった。棚の上の写真には、ふたりの人間の写真が並んでいた。そのうちのひとりは、則人のように簪を結わえた男だった。鼻が高く、目は鋭い。歌舞伎役者みたいだ、と麦は思った。


「婆ちゃんは病気で髪が抜けやすかったんです。簪や髪は、爺ちゃんのものを使ってました」


 則人が、紫箋に簪を刺す。力が強いわけでも、穴を開けたわけでもない。それなのに、カッと音がして、何かが貫かれたような感じがした。


「……終わりです」

 それは何とも、呆気ないものだった。則人が立ち上がり、紫箋を脇によけた。

 部屋がまた、少しだけ狭くなった。

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