三
最後に向かったのは、広場から対角にある河原だった。庄川から分岐した小川で、流れもそこまで速くない。しかし、川は木々が密な闇の方へ伸びており、飲み込まれたら、一生空気を吸えないような気がした。
傾斜を下りた先には夜間の道路工事で使うような照明があり、辺りの景色を明瞭に浮かび上がらせている。砂利の上に花火が並んでいた。そのうちのいくつかはすでに焦げていて、役目を終えたのが見て取れた。
しゃがみ込んで作業をしていた男が顔を上げる。髪を後ろで縛っており、広い額が汗でてかっていた。無精髭の生えた口元が少し歪む。タオルを肩にかけ、何やら作業をしているようだった。
「なんだ、音羽の坊主か。厄介なことになったらしいな」
迂遠な、しかし何があったかは察している物言いだった。
「ですね。花火ももう中止でしょう」
「ああ。だが元々大した数があったわけじゃねえし、これを片したら撤収するさ。で、何の用だ」
「訳あって、広場にいなかった人に話を聞いてます。
「いや、そこら辺に松田さんと河家さんがいたよ。でも荷物を運んでもらっただけで、打ち上げるときにはいなかったが」
「そのふたりなら、広場に来てました」
風向きを悟ってか、尾月は自嘲的な笑みを浮かべた。
「そうか。なんだか、俺が疑われてるみてえだな」
「……すみません、これも仕事なので」
「いや、良いんだ。あの男のせいで苦労させられるな、お互い。……しかし、和夫さんか。ようやく外で花火を見せられると思ったんだが。上手くいかないもんだよ」
「和夫さんを恨んでいる人間に心当たりはありませんか?」
もう三度目となる質問だが、則人の口調に期待はこもっていなかった。そしてそれをなぞるように、尾月の答えも今まで通りだった。
「いや、知らないね。ここの人はみんなそう言うだろうよ」
風が吹くと、水辺だからだろうか、空気は涼しげだった。尾月は続ける。
「俺がここの花火を引き受けたのはもう三十年前だが……あの人はずっとよくしてくれたよ。色んな人に口利きしてくれたし、名刺も作ってくれた」
尾月はいわばよそ者で、こうした集落に馴染むのは難しいものがあったはずだ。彼も和夫に恩義を感じていて、やはり後ろ暗い感情は浮かんでこなかった。
話している間に尾月の片付けは終わり、彼は荷物をまとめて引き上げてしまった。則人は動かず、腕を組んだままだった。
「どう、何か分かった?」
「……何も」
強がりのない、正直な答えだった。則人は続ける。
「こうした事件は二回目ですが、前は動機を洗い出してすぐに解決しました。けど、今回はそのやり方がまったく通じない」
「結局人の心なんて分からないでしょ。それよりももっと、疑問なのは……」
ずっと麦の心の中にあった、一抹の疑問。
「どうして紫箋を使ったのに、もっとこっそり殺さなかったのかな」
紫箋。離れた場所にいても相手を殺せる道具。それなのに今、容疑者は三人に絞られている。
則人は駆け出していた。今までの静かな佇まいからは想像もつかないほど敏捷に。
「尾月さん!」
麦も慌てて追いかける。階段を上がると、則人が、息を切らしながら尾月を捕まえていた。
「すみません、ひとつ聞かせてください。名刺を……海野に渡しましたか。いや、名刺じゃなくても――」
「これだろ?」
尾月が名刺を差し出し、麦がスマホのライトでそれを照らした。和風のフォントで「尾月
「渡したよ。名刺はずっと変えてないから、同じものを」
「そうですか……」
則人は、放心したように言った。
§
夜更けになると蝉は鳴かない。代わりに、風鈴のような声がひそひそ話をするかのように囁くのである。
ふたりは暗色の道を歩いていた。目的地の前に立つと、則人が立ち止まって、麦もそれにつられる。
「犯人が分かったの?」
「あなたのおかげで」
声音には少し悔しさが滲んでいる。
「出発点はあなたの教えてくれた疑問です。そこから全部繋がった」
「感謝してるなら他人行儀な呼び方しないでよ」
「……麦さんの言った通り、この殺人は呪器の特性をまったく活かしていない。あの花火の瞬間に殺したせいで、容疑者はずいぶん少なくなった。犯人なら普通、和夫さんがひとりの瞬間を狙うはずです。突き詰めると、こんな可能性が浮かびます……犯人は花火の瞬間、和夫さんが家にいると誤解していたのではないか」
「誤解?」
「和夫さんは独り身で、足を悪くしていた。少し回復したおかげで、今年やっと外で見られた。この事実を犯人が知らなかったら? 花火の瞬間はまさに、絶好のタイミングだったはずです。和夫さんは自宅で、ひとりで死亡する。発見は早くても翌朝、下手すればもっと遅くなります。犯行時刻は夜のうちいつでもありえる。気温が高いから腐敗が進んで、呪器の痕跡も消えたかもしれない」
木陰に隠れ、そっと建物を伺う。誰かの足音が聞こえた――空耳だろうか。
「和夫さんの今の状況を知らなかった人間こそ、あの瞬間に犯行を行ってしまうんです。平野さんは絶対に違う。あの人は和夫さんの主治医です。冴ちゃんも、我妻さんと和夫さんが広場に花火を見に行くと知っていました。そして尾月さん。彼も、和夫さんに外で花火を見せられたのに、と言った。足のことは知っていたんです」
「容疑者が全員、消えちゃったけど」
「いいえ……佐古牛は狭い集落です。噂はすぐに広まる。だからみんな、和夫さんの足のことは知っている。けど、ひとりだけ、外界から隔絶された人間がいます。その男は二十年前にここに来て、呪器をばら撒いた挙げ句、その数年後に死亡した、とされている人間。ずっと我妻家のどこかで生きているとすれば、彼だけが条件に当てはまります……海野正眼だけが」
§
麦は小さく息を吸った。理屈は通っている。だが、それだけだ。
「……つまり我妻さんが嘘をついてたってこと? 実際は生きていて、死んだことにしたの? なんのために――」
「呪いは、意識に上らせないことが大切なんです」
則人は、先ほど麦に言った台詞を口にした。
「呪器を作った元凶は、ないものとするのが最善です。多分、俺でもそうする。けど、呪器を回収したくば海野を生かしておく方がいい。何故なら海野はすべての呪器の在処を把握しているから。海野を死んだことにしておくのは、極めて合理的な判断なんです。……それに、傍証ならあります。彼女の台詞です」
則人は、門の方に現れた人影を指さした。暗いが、小柄な体躯だけで誰か分かる。穂島冴だ。
「花火が上がった瞬間のアリバイを聞いたときの言葉です……《はなびのときは、だれとも。ここにいたし》。花火が上がった瞬間は家に、ひとりだった。逆に言うとその前後の時間、家以外で、誰かと一緒にいた……そういう意味になります。我妻さんは花火が上がる前から広場にいました。あそこには、冴ちゃんと、我妻さんと、もうひとりの誰かがいる」
筋は通っていたとしても、麦には信じられなかった。けれども、信じざるを得なかった。
冴が頷いたからだ。
「紫箋を海野に渡したのは、彼女ってこと?」
「恐らく。拷問をされたのにこっそり呪器を持ち込めたとも思えません。誰かに協力してもらうほかないでしょう。我妻家に住んでいれば、海野に気づくこともできたと思います。我妻さんが海野の正体を隠していたなら、却ってその恐ろしさは分からない。
紫箋は、紙です。両面あるから最低ふたりの名前は書ける。共犯者を消さないはずがないんです。名前を聞き忘れるなんてぽかをするとも考えにくい……」
麦の脳裏に、最後の奇怪なやり取りが蘇った。尾月は海野に名刺を渡した。平野だって、カルテに名前があったではないか。名前を知られないようにするというのは、不可能に近い。
「冴ちゃんは海野が幽閉されてからここに来て、今はひらがなを書ける状態――つまり、自身の漢字までは分からない。海野が詰めを誤るとすれば、そこでしょう。だから、紫箋からは守られた」
冴の方を見る。冴は息を荒くして、鼻を啜りながら、鍵を差し出した。今の話のどれくらいを理解していたのかは定かでない。言うべきことも思いつかなかったのかもしれない。
「……ごめん、なさい」
漏れた言葉はそれだけだった。
ふたりは我妻家へ足を踏み入れた。
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