駆けつけた医者――平野というらしい――の「自然死」という所見を、則人は含みのある表情で受け入れた。事件性は認められず、とはいえ則人の指示で、駐在がその場にいた全員の名前を記録した。もちろん、麦もそれに含まれていた。

 そして、暗鬱な気分のまま盆踊りの場は閉じられた。不安の満ちた空気の中で、麦は則人を探した。特徴的な髪型のおかげですぐに見つかる。何しろ、この村で簪をつけているのは彼と女将くらいだ。


「ねえ」


 声をかけると、物言いたげな顔で彼は振り返った。


「さっきのが、呪い?」

「……そうです。ただ、他の人には話さないでください」


 周りに人がいないのを確認してから則人は答えた。具現化というのは、難しいことではなかった。最も安易で、最悪の形だった。


「意識に上らせないことが大切なんです。呪いなんてあるわけない――そういう空気が維新を境に醸成されて、呪術は随分衰退しました。だから、今日の出来事は非常にまずい」

「和夫さん、だっけ。あの人が呪われたのなら、呪った人間だっているんでしょ?」

「はい。なので、それを探します」


 則人はそう言って、踵を返した。目的地は決まっているらしく、迷いなく歩いていく。

 麦がついて行くと、案の定咎める声があった。


「旅館、こっちじゃありませんけど」

「直接的じゃなくても、相手は人殺しでしょ? 子供にひとりで行かせるなんて」

「子供……ですか」

「子供でしょ。何歳?」

「十五です」


 則人は訝しんでいる様子だった。自分が子供でないと言いたげな節さえある。それを見て、思い当たることがあった。

 呪器を祓い、何かあったときには率先して問題の対処にあたる立場。この村の要職である彼は、子供でいるわけにはいかなかったのではないか。


「……ついてくるのは構いません。でも、危ない真似はしないでください」


 則人はあっさり承諾した。麦が強情だったからか、あるいは放っておくともっと面倒だと思ったのかもしれない。

 奇妙な関係性を築いたふたりは、広場の灯りから遠ざかっていった。

 道も視界も悪く、歩く速度はゆっくりになっていく。いよいよ人の声すら聞こえなくなったところで、麦が尋ねた。


「則人くんの言ってた、呪器ってやつが使われたの?」

「はい。紫箋しせんというやつです」


 紫に便箋の箋。則人はそう付け加えたあと、


「今言ったように便箋みたいな紙で、大きさは、縦が一五センチで横が二十センチくらい。紙の色は……字面から言えば紫ですが、実際は染められたりして何色でもおかしくありません。そこに対象の名前を、血で、漢字で正確に書く。すると、名前を書かれた人間は死亡します。さっきの、和夫さんのように。これが紫箋の使い方です」

「……だから、何かを書いた人間がいないかって」


 麦は自分の血の気が引いていくのを感じた。紫箋――そんな恐ろしいものが。


「聞いてたんですか」

「聞こえてたの、たまたま」


 麦からすれば信じられないような話だ。しかし、佐古牛集落はその理屈で動いている。駐在が即座に行動したのもその査証だ。

 則人は広場で紫箋を使ったであろう人間を探した。その結果は――


「広場にいた人間は全員空振りでした。身体検査もしてもらったので間違いありません。何かを書く素振りがなかった。紫箋は使ってない。だから、あの場にいなかった人間をあたればいい。数が少なくて助かりました」

「もしかして、この村にいる人間を全員把握してるの?」


 麦が言うと、則人は当たり前のように、


「ええ。俺はここの祓なので」


 密なコミュニティであることと、則人の生業がそうさせたのだろう。ともかく、手間が省けたことは確かだった。麦も少し落ち着きを取り戻して、推論や疑問を口にする余裕ができていた。


「血を使ったんなら、傷があるんじゃない」

「その場で出血したとは限りません。あらかじめ抜いておいて、棒か何かにつければ良い。何ならペンのインクにしたって構わない」

「あと、紫箋はどこから手に入れたんだろう」

「恐らく、玄悟さんの家から。あそこは村の古い物をたくさん置いてあって、俺もまだ祓い切れていないんです」


 則人がそう言って最初に向かったのは、広場からはあまり離れていないところの、簡素な診療所だった。則人がノックをすると、顎から白い髭の垂れた老人が出迎えた。


「夜分にすみません」

「いや、待っとったさ。入りなさい。そっちの人は」


 麦に視線が向けられる。よく見ると、先ほど広場に駆けつけた医者だった。どう説明したものかと逡巡していると、


「訳あってついてきてもらってます」


 と則人が言い添えた。それで医者の方は納得したようだった。通された和室で、ふたりして正座する。じー、と虫の鳴く声が網戸をすり抜けていった。


「花火が上がったとき、平野さんはおひとりでしたか」

「ああ、ここから見えるで、毎年家におるんや。そんで男衆が慌てて呼びにくっから、行ったら和夫さんが死んどる……」

「和夫さんを恨んでる人に心当たりは?」

「ねえさ。人当たりも良いし、それは則人くんもよう分かってるやろ。独り身やし、トラブルがあったとも聞かん」

「はい。呪器の回収もずいぶん手伝ってもらいましたし」

「あの人、戦争から帰ってきてからずっと、車椅子だったさ。けど自分より人のことばっか気にして、恨まれるなんてあるわけねえが」


 平野は一枚のカルテを机の上に置いた。麦の場所からははっきりと読めなかったが、和夫のものらしい。下の方には、大きな字で「平野泰永やすなが」と署名があった。言葉遣いがぞんざいな割に字は丁寧だ、と場違いなことを考えた。


「わしが、あんな男雇わなきゃあ。和夫さん、去年にやっと足がようなって、歩けるようなったのに……」


 遺体の傍に杖が投げ出されてあった。則人と平野の会話の背後には、麦の知らない事情が見え隠れしていた。けれど口を出すこともできず、黙って証言を聞くほかない。


「俺がどうにか犯人を見つけます」


 則人の言葉は、思いのほか淡泊だった。事務的とも言えるかもしれない。麦は、則人が機械的に祓の仕事をこなそうとしているのに気づいていた。


§


 診療所を出てすぐ、麦は則人に聞いた。


「あんな男、って誰のこと?」

「……海野うんの正眼しょうがん。呪器を作った張本人です」


 それを聞いて、麦は自身の思い違いに気づいた。呪器は別に、天からの贈り物とい

うわけではなかったのだ。


「海野がここに来たのは、ちょうど二十年前だそうです。そのときは、平野さんの病院で医者として雇われたと聞いています。ただ、本当の目的は人間の遺体に接近することだった。呪器の多くは生物の死骸を材料に使い、人間も例外ではないからです。海野は呪器を作るだけじゃなく、それを誰かに贈ったりして、徐々に広めていきました。海野を告発したのは、和夫さんだと聞いています」

「……その海野は、今どこに?」

「呪器の在処を吐かせるため、我妻家による拷問が行われました。呪器と作り手は強く繋がっていて、海野は自分の手を離れた呪器の所在も知っていたからです。拷問の最中海野は死亡したと聞いています。

 ……全部、祖母からの伝聞ですけど」


 よそ者の麦にも段々と、村の構図が見えてきた。我妻家は力が強く、警察権力とも違うやり方で事態の対処に――呪器の一件は例外的だろうが――当たることもある。音羽家も似た立場だが、あくまで我妻家の擁立のもとにあるように思えた。

 そして、ふたりはその我妻家の前に立っていた。則人は勝手知ったるというふうに、我妻家にあがっていった。廊下を進む足取りにも迷いはない。


「我妻さんはまだ帰ってないの?」

「ああいうとき表に立って仕切るのは、玄悟さんですから。しばらくは帰ってこないかと」


 そう言いながら則人は、階段を上がった先の部屋の前に立った。

軽く扉を叩き、開ける。

 そこには、まだ小学生くらいの少女が、身体を硬くして座っていた。


§


 初対面の麦に、少女はか細く、「ほしま、さえです」と名乗った。


「げんごさんの、おうちで、おせわになってます」


 怯えすら感じられるぎこちなさである。だが、則人は構わず続けた。


「聞きたいのは、花火が上がったときのことです。あなたは、誰かと一緒にいましたか」


 冴はやや躊躇ってから、首を横に振った。「はなびのときは、だれとも。ここにいたし」


「玄悟さんは?」

「かずおおじさんといっしょに、ひろばに。おまつりにいくって」

「その和夫さんのことで、何か聞いたことはありますか。例えば、誰かに恨まれていたとか」 


 冴はより強く、首を振った。

 もとより呪器を使った殺人で、聞けることはあまりない。冴も疲労の色を見せていたので、則人は礼を言って立ち上がった。

 部屋から出ると、麦は聞いた。


「今の子は? 我妻さんのお孫さん?」

「いえ、二年前に玄悟さんが保護した子です」

「保護?」

「はい。ボロボロの状態で、裏の林にいるのを見つけたとか。どうやら両親に虐待を受けていたらしく、最初は口も聞かなかったとか。施設に預けられてましたが、保護司とも話がついて、今は玄悟さんの家に。ちゃんと学校にだって通ってますよ。最近は、ひらがなを書けるようになったって」

「呪いについても知ってるのかな」

「どうでしょう。集落にずっといれば、察しぐらいはしてるかもしれませんね。けど、知識として持っているかは疑わしい」


 則人は、呪いを徹底的に封殺しようとしていた。その単語を人前で口にすることすら憚るくらいだ。しかし、何も知らないままでいられる人間は、少ないのではないか。ふと耳にする会話や事件が起こったときの異質な空気。呪いの存在は、案外簡単に顔を覗かせる。


「正直、あまり犯人だとは思ってません。花火のとき広場にいなかったから、聞きに来ただけで」


 我妻邸を出る。ちょうどそのとき、家主が歩いてくるところだった。


「……玄悟さん」

「冴に、話を聞きに来たのか」

「はい。でも、疑ってるわけじゃありません」


 則人と我妻との間に、風が吹いた。もう笛も鉦も和太鼓も、鳴りを潜めている。


「海野の拷問には、玄悟さんも参加したんですよね」


 我妻は瞠目した。麦にはその気持ちが理解できた。忌まわしい記憶を刺激されたのではない。十五歳の子供が陰惨な世界を知ってしまうことを、憂いているのだ。

 しかし我妻は語り出した。


「私と、死んだ兄、そして和夫さんの三人で行った。正直、あれは……思い出したくないことだよ。呪器を排除するという大義名分で、随分残忍なことをやった。血を見るのが嫌になったさ。……結局、海野は死なせてしまったしな。

 あのときは、必死だったんや……私も、兄も、和夫さんも。最初に海野の動きに気づいたのは和夫さんだった。あの人は、足のことでよく病院に行ってたから。兄があいつから怪しいもんをもらったというんで、色んな伝手でそれについて調べた。そこでようやく、呪器の存在を知ったさ。村にばら撒かれたことも。

途方に暮れたが、昔住んでいた音羽の家系が祓を生業にしていると。それで、旦那さんに先立たれたチヅさんに、どうにか助力願ったわけや。海野の手は思った以上に村中に伸びていたが……おかげで呪器はずいぶん減った」


 語り終えた我妻は、ふぅ、と息を吐いて、それから押し黙った。集落の姿形を糊塗しきれなくなった彼は、かなり疲弊しているようだった。

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