文字呪い
一
名古屋からおよそ二時間半。ずいぶん便利になったものだ、と井上麦は思った。飛騨の山岳地帯を越えるには、かつては時間も労力も桁違いだったはずだ
合掌造りといえば白川村萩町だが、そこと富山県菅沼を結ぶバスの路線上にも、合掌造りは存在する。白川村
夏場だが、気温は二十五度を下回っている。日も雲に隠れ、半袖からはみ出た肌は少し冷えるくらいだった。荷物は最低限に済ませてあるから、歩くのにもたいした辛さはない。
やや急勾配の屋根は、この地域の合掌造りの特徴だ。写真を撮りたい気持ちを抑えつつ、ゆったりとした道路を歩く。すれ違う人は軒並み同じ格好をしていた。上は筒袖になった紺の和服、下はゆったりとした仕事着。木材を担いでいたり聞き取れない方言で話し込んでいたり、誰も彼もが忙しない。しかし、揃ってよそ者の麦には怪訝そうな目を向けた。
メモ帳を開き、
「あの、」
思い切ってすれ違った老人に声をかけると、案の定不審がって、
「あんだ、見ねえ顔さ。こん村になんがしよるか?」
訛りはきついが聞き取れる。語尾が伸びるから、思いのほか穏やかなようにも感じられた。
「この集落の、我妻さんという方を探してます。どこのお家か、ご存じありませんか?」
「玄さんか? なら、あっこだが」
老人が指さしたのは、他の家に比べて大きめの、しかしこちらも合掌造りの建物だった。敷地を囲う柵が、左右に伸びている。
礼を言って立ち去るも、姿が見えなくなるまで老人は麦を見続けた。居心地の悪さを感じながら、我妻家の戸を叩く。フィールドワークは数回こなしたが、大抵はインターフォンがなかった。ここも例に漏れないようだ。
しばらくして、戸が開き、頭頂部の禿げ上がった男が顔を覗かせた。皺は幾重にも刻まれ、六〇は越えているように思われた。
「はじめまして。
「……ああ! 鳥越くんの教え子か。待っとたわ。我妻じゃ。名古屋からやろ、遠い中よう来なさった」
集落に立ち入ったときに感じたような、排他的な空気はそこにはなかった。聞けば、我妻は今回のように、鳥越教授の仲介で学生を受け入れることが度々あるらしい。
「選挙録を見たいということやったな。蔵にあるから、好きに見てもらって構わんさ」
選挙録――といっても我妻家が習慣的につけているもので、公的な記録ではない。それだから、外部の人間に見せてしまうのも躊躇いがないのだろう。
蔵は邸宅から渡り廊下を行った先にあった。右には、また別の建物があるのが見える。小屋のようだが、戸は南京錠で閉ざされていた。
あれはなんだろうか、とぼんやり思ったとき、どんどん、と空気の震えが感じられた。和太鼓だ。
「今日はお祭りがあるんですよね」
「ああ、花火も上がるさ」
重たげな扉を両手で開けながら、我妻が言った。
「花火も?」
麦は聞き返した。盆踊りがあるというのは知っていたが、花火については初耳だ。
「泊まるの、夏見荘やろ。それなら近くの広場で盆踊りも花火も見られるさ、見に行くと良い」
麦の今期の研究テーマは祭礼ではなく、それこそ政治と生活の関連だった。それでも見に行かない理由にはならない。我妻に礼を言い、蔵の中を眺める。
生活の歴史が詰まった空間。そこに飛び込むと、自分もその土地に暮らしているような気になる。感覚が鋭敏になるのを感じながら、麦は史料を手に取った。
§
集中力は麦の自認する長所のひとつである。足音で蔵の外に意識が向くまで、時間を忘れて選挙録を読みあさっていた。
我妻玄悟は村議選に何度も出場し、その度に勝利していた。十九年前の選挙を最後に村議の道は引退したようだが、「玄さん」という親しみのある名前からして、今でも人望があるのだろう。
廊下に目を向けると、我妻ともうひとり、一五〇センチくらいの背丈の人影が見えた。服装は黒のシャツにジーパンとありふれた、しかしこの村では異質な洋服である。しかし、簪で結わえた黒髪は、そこだけ舞台の上から切り取ったようで、ちぐはぐな感じがした。
「どうだった、則人坊」
「見つかる限りの
「じゅき……?」
聞き慣れない単語だった。「はらう」は「払う」か「祓う」――麦は後者に当たりをつけた。そして、「呪」という単語を脳裏に浮かべる。
「そうか、助かる……すまんな」
会話はそれで終わり、少年は立ち去った。だが、やりとりはいつまでも麦の脳裏に居座り続け、結局その後読んだ選挙録の内容はろくに頭に入らなかった。
蔵を出て、我妻に声をかける。丁重に礼を述べる最中、疑問がこぼれ出すのを防ぐのに難儀した。あの少年は誰か? 呪器とは何なのか?
ただ、禁忌に触れてしまうような予感がして、麦はそれを抱え込んだまま我妻家を辞去した。
§
宿に着いたのは、ちょうどチェックインの時刻であった。出迎えた女将は和服を着て、簪を挿している。先の少年と違い、こちらはよく似合っていた。
「盆踊りだけじゃなくて花火も上がるって聞いたんですけど、広場からよく見えるんですか」
「そうですねえ、広場が一番よく見えます。というより、盆踊りでだいたいの人が広場にいて、そこからよく見えるようにしてるんですけどね」
女将は上品に笑った。「お客様も、見に行かれますか?」
「そのつもりです」
言葉を返すと、正面に、また同じ人影――さっきの「則人坊」だ――が現れた。グレーのシャツにジーパン。顔つきは丸っこく、目はくりんとしていた。正面から見ると、可愛らしい少女のようにさえ思える。
すれ違い際、少年は浅く礼をした。女将が礼を返し、それを誤魔化すように、
「それなら、私も少し見に行こうかしらね」
ここにもまた、「呪器」とやらがあったのだろうか。得体の知れない何かが隅々に、あくまで自然体で潜んでいる。徐々に不吉な領域に踏み込んでいる気がして、心臓が小さく跳ねた。
§
麦は夕食を終え、広場への道を歩いた。鮎の、ほのかな甘みがまだ舌に残っている。風はぬるく、灯りは頼りなさげなのがひとつふたつ、道の端に並んでいる。
ひゅるひゅると広場から這い出る笛の音と、それをとっちめるように鋭く鉦が響く。
広場では、和太鼓が生む空気の震えに合わせ、提灯が小刻みに揺れていた。小さな人だかりが点在している。そこには我妻玄悟の姿も見えた。隣には杖をついた老人がいる。
村民の多くが誰かと一緒にいる中、手前にぽつんと、例の少年がひとりで立っていた。
「こんにちは」
麦の方が背が高く、顔を覗き込む形になる。少年は、黒目だけを動かして麦を見た。
「どうも。……玄悟さんの家にも、夏見荘にもいた方ですよね」
「うん。井上麦っていいます。あなたは……」
「音羽則人です」
彼女に咄嗟に声を掛けさせたのは、やはり「呪器」への関心だった。民俗学を専攻する人間としても、呪いごとには興味を惹かれる。
「あの、さっき「呪器」とか「祓う」とか、言ってましたよね」
則人は答えない。黙秘しようとしているのか、あるいは言葉に詰まったのか。その隙を見て、麦は続けた。
「わたし、蔵に入っちゃったし、旅館にも泊まってます。……呪いがあるんですよね? 呪われたりなんか……」
切羽詰まったふりで、情につけ込む。姑息なやり口が功を奏して、則人は口を開いた。
「大丈夫です。呪器は――呪いに使われる道具は、俺が回収しました。触れたら呪われるなんてこともありません」
「本当ですか? もっとちゃんと教えてください、でないと、安心して村を出られないし、」
「……呪器っていうのは」
則人は言いかけてから、後悔したような顔つきになる。麦は逃すまいと彼をじっと見た。
「呪器は誰かから誰かへの「負の感情」を……具現化する道具です。あなたを恨む人間がこの村にいないのなら心配ありません」
具現化とは一体どういうことなのか、さらに深掘りしたくもあった。しかし、続きは聞けなかった。バン、と音がしてそちらに意識が向いてしまったからだ。
花火の色は明るい赤。星が散らばる夜空を背に、煙と共に垂れていく。
そのとき、うっ、というくぐもった声がして、途端にざわめきが大きくなった。
その声はどこかの人だかりから発せられたらしい。則人はすぐその源を見極め、そちらへ駆け出した。麦も続く。
見ると、倒れているのは、先ほど我妻と一緒にいた男だった。我妻はしわがれた声を目一杯に張って呼びかけている。
「和夫! 大丈夫か!」
和夫と呼ばれた男は仰向けに倒れていた。微動だにせず、ただ唇が紫に変色しているのが目に入った。傍らには、杖が転がっている。麦は、不吉なものを感じずにはいられなかった。紫はくすんでいるどころか鮮やかで、人死ににはおよそ似つかわしくない派手さを備えていた。
則人が人混みから離れて、近くにいた別の男を捕まえた。入れ替わるように、誰かが白衣の老人を連れてくる。医者のようだったが、打てる手があるとは思えない。
則人の方へ寄り、会話を盗み聞く。
「この広場にいた人の名前を、帰すときに全員書き留めておいてください。それから……」
異質な死が蠢いている。そしてそれは、恐らく則人の言うところの「呪い」なのだろう。
男はまだ幼い則人に対して「はい!」と返事をし、即座に動いた。
麦は直感した。今の彼には、祓う者としての権限がある。
それにしたって、則人の最後の指示だけは、さっぱり理解ができなかった。彼は男、にこう言ったのだ。
「何かを書く仕草をした人間がいなかったか、聞いておいてください」
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