第13話 毒心
翌日は雨で、霞鏡宮の外でも、裳裾が濡れることを嫌がる女官の声が聞こえた。
「いやあねえ、ほんと」
「御用を申しつけられたのだけれど、裾がぐしょぐしょ」
明月はそれを見ながら、内心で同調しつつも、皇太后のいる西六宮墨珠殿に赴く準備を進めていた。
輿を用意させるのが普通だが、それでは皇太后の心を打つことは出来ない。裾の短い襦裙を着て、雨の中しずしずと進んでいく。
墨珠殿に着くと、ちょうどびしょぬれになっていて、皇太后は「おやまあ」と言いながら、替えの襦裙を出してくれた。成功だ。彼女は自分に手を掛けてくれた。
「明月は相変わらずなんというか、天然というか……」
「申し訳ございません」
「ま、構わぬぞ」
座れ、と言われて指し示されたのは、皇太后お気に入りの黒檀の椅子だった。その椅子の隣にある透かし彫りの美しい卓子には茶が用意されている。
固辞しながらも、一礼して座る。
皇太后も対面に座るなり、すぐに口を開いた。
「香雪が冷宮に捕らえられた」
冷宮とは、罪を犯した後宮の女を捕らえておく殿舎のことである。
「まあ……どうして」
本当に悲痛そうにいうと、皇太后は答えてくれた。
「玉体に傷をつけた」
明月は心底から笑いが漏れそうになったのを必死で我慢しなければならなかった。本当にこちらの予想通り、思惑通りに動く可哀想な人だ。予想外なのは、思ったより早かったということだけ。
とりあえず、予想はついているが皇太后に聞いておく。
「まあ……、何ということ。香雪妃はどうなりましょう」
「死罪となるな」
「まあ、なんとかして死罪を免れる方法は?」
「ない。本人が望んでいる故」
本当に可哀想、とやはり心底から笑いが漏れそうになるのを必死で我慢しなければならなかった。
明月なら、玉体に傷を「つけようとしたから」死罪にしてくれ、と騒ぐ。すると皇帝がなだめ、明月の機嫌を取ってくれる。謙虚で従順な女として。
でも、玉体に傷をつけたのは事実。玉体に傷をつけたものは死罪。死罪と決まっているものを死罪にしてくれと言っても、罰を減らしてくれる者はいない。
何故か、皇太后は悲痛そうにため息をついている。
「香雪は本当に
「あのぅ……?」
後宮にせっかく戻ってきたのだから、香雪は権勢を得たいのだと読んでいたが、皇太后の読みは違うらしい。
「瑛毅を恋い慕うあまり死を願うとは」
「……は、はぁ」
その感情はやはり愚かしかった。明月は皇帝本人を恋い慕ったことはないから。恋い慕うべきではないと思っているから。
所詮自分たちは親や親族の利益を代表してここに来ている。そこに自分の意志の入り込む余地はない。
感情を動かして無駄に心を壊すより、何も考えず親や夫の言う通りにすればいいものを。
明月は、他人から自分がどう見えるかばかりが気になる。「皇帝最愛の后」という評判こそ、彼女を満足させるものだった。
皇太后は瞳を揺らし、咳払いをした。
「まあ、なんでもない。子供達と引き離されるのが嫌だったからだ、と本人は申す」
「そんなことで主上を!?」
なんというわがままな女性だろう、という気持ちで言ったつもりだった。だが、皇太后は眉をひそめて視線を強くこちらに向けた。
「そなた、子供を奪われる母の気持ちを甘く見てはいけませんぞえ。こうなってみると、香雪どのに挨拶くらいには参じた方が良かったかもしれんな」
「そ、それは、行くつもりでおりましたが……」
「二人を引き取る前じゃ。時間がなかったのか?」
「……」
なぜ自分が責められなければいけないのだろう。無理難題を押しつけられて。
「なら、仕方あるまい」
「本当に、申し訳ございません」
「いや、かまわぬ。ああ、だが、明月。太子は端粛ぞ」
「はい。かしこまりました」
明月は明るく微笑んだ。皇太后はそれに、軽く引きつった笑みを浮かべ返した。
他人に従うことに慣れている明月に異論はない。
それに、端粛は愛らしい。何度か話せば、素直でとても健気な少年。明月好みの青年に育ちそうだった。太子にでもなんでもすればいい。
問題はそれに付随してくる静嘉だ。愛らしさの欠片もない。派手な牡丹の花を髪飾りにつけるなどして、生意気だ。
この霞鏡宮では、華美を控えよ、牡丹の髪飾りをつけてはいけない、としかりつけると、震えた表情を見せたので、愉快だった。
――とりあえず、食事は抜いておくわよね。か、食事に砂でも混ぜるか……。
――あ! いい考えがあるわ。母の死罪を見せてやろうかしら。主上には「姫君は無理やり父君と引き離した母上を恨んでおり、母上の死を見たいのだそうです」とつげて。
どうやってあの静嘉で鬱憤晴らしをしてやろうかと考えた瞬間、ひどく狼狽する。
――何を考えているの、わたくし。
生まれてこのかた、誰にもこんな感情をいだいたことはない。しかも、静嘉はまだ少女。明月を攻撃などできはしないし、後宮の中での競争相手でもない。
だが、一度生まれたどす黒い感情は、何からも感じることのできない快感となって明月の理性を痺れさせる。
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