第12話 香雪
今日も皇太后の住まい、墨珠殿の廂房に瑛毅は姿を見せた。
香雪は幾晩も連続で彼と逢える事に切ないほどの喜びを感じていた反面、とある疑問があった。
自分はいきなり廂房に移された。
では、ここを使っていた静嘉はどこへ行ってしまったのだろう。
それに、貴人同士なかなか会えないとはいえ、向かいの廂房にいるはずの端粛の気配は一切ない。
瑛毅に尋ねてみるよりほかにない。
膝枕をしながら、静かに夫に尋ねる。
「静嘉と端粛の姿が見えなくなったわ」
「……」
夫は顔を背けた。ああ、と香雪は絶望する。
「明月殿のところへいるのね」
瑛毅は身体を起こした。その顔には深い憂いが刻まれていた。
「端粛を太子にする。皇后の養子であった方が何かと都合が良いからだ」
「……察してはいました。でも、わたくしに一言くらい断りがあってもいいのではなくて?」
「その点はすまないと思う。だが、そなたも俺に断りもなく俺の子を連れ去ったが」
「あれは……」
香雪は俯いた。
静嘉を出産して二年たった頃。夫は皇帝に即位した。だが、香雪は皇后に冊立されることはなかった。
夫はその時、明月という女官と臥所を共にしていたからだ。あっという間に明月は皇帝の側室に数えられる「嬪」となり、香雪と同格の「妃」となった。
地味で凡庸な容姿な反面、従順で上品で淑やかな明月は、後宮の女官から愛された。
皇帝に反骨心のある西方の出身で、皇帝にさえまっすぐ諫言する香雪は、後宮で嫌われた。
それを皇帝としての彼は加味した。
とうとう、香雪は皇帝の閨に呼ばれるのを妨害されるようになった。
ある日、明月ではない女に瑛毅の心が移ろったとき、笑いながら言った。
「あなたって女たらしだったのね」と。もちろん、嫉妬心もあった。でも、我慢はしていた。それに、言われた瑛毅は噴き出していた。
だが、嫉妬深いと称されて後宮に宮殿を与えられない原因にされたり、瑛毅に寵愛を与えられた女官は香雪に殺されると言われたりする根源になるとは思っていなかった。
明月が噂を扇動していると、気づいた。いや、彼女は噂を扇動しているのではない。噂をしている女官たちを集めて、自分は何も言わず、さまざまな催しを開いていただけだ。
そこでは、香雪の悪口大会となる。それが火のようにあっという間に広まっただけ。明月は素知らぬふりをしていた。
あまつさえ瑛毅に、香雪のことを心から心配するそぶりをみせ、その信頼を勝ち取った。
そこから先は、どんな日々を過ごしたか、まったく記憶がない。
気づいた時には、香雪は子供二人を連れて、後宮の外で、澄み渡る青空を、涙を流して見上げていた。
香雪は恨めしげに言う。
「あなたは噂を御止めにならなかった。御恨み申し上げます」
「噂は止めようとして止められるものではない」
なだめるように、酷いことを、瑛毅は言う。そう。夫はたまにそういうときがある。特に明月と閨を共にするようになってから。
「瑛毅さま、わたくしはあなたを心よりお慕いしております」
「いきなりなんだ?」
彼に優しく何度もくちづけた。
「ですから、お聞かせください。明月殿のところへご挨拶に行くことは出来ますか? 息子と娘がお世話になりますと――」
「……どうしてその必要がある」
「どうして? もう二度と会えないかもしれないのに」
「明月はそのような女ではない。いずれ向こうから挨拶に来よう」
明月はそのような女ではない、その言葉を瑛毅は繰り返す。
香雪なら。
何故子供達を引き取るのかはっきりした理由を瑛毅や皇太后から聞く。子供二人を引き取る前に挨拶に行く。相手がどれだけ格下でも。そういう躾を、父や父の友人で後ろ盾だった文義から受けている。
ただ従順に、何もせず、瑛毅に唯々諾々と従っている。
そんなつまらない女が瑛毅の心をとらえてしまうのを見続けるくらいなら。
「……そうですわね。明月殿は、わたくしほど嫉妬深くはございませんもの」
簪を抜いた。
「また愛らしいことを言うな? 香雪」
瑛毅は微笑んだ。その微笑みを見たまま、香雪は「許して」といいながら、瑛毅の首筋に、簪を突き立てた。彼に大怪我を負わせないようにそっと。だが、確実に、その喉元を掻いた。
とろりと血が出た。
皇帝の身体に許しなく傷をつけたものは反逆罪として処罰される。
「……香雪!? 何故だ」
その声に、絶望の響きがあったことに安堵した。
「子供たちと引き離されるのは嫌なのです」
彼女は瑛毅から身体を離し、寝台から降りて、床に顔をこすりつけて平伏した。
「主上。わたくしに死罪を。玉体に傷をつけましたので」
瑛毅は茫然としていた。異変をかぎつけた女官が、部屋に乱入してくる。香雪はすぐに羽交い絞めにされて、後宮の綱紀粛正を仕事とする尚正のもとへと連行されていった。
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