三、天を夢む
第11話 明月
今まで住んでいた西六宮にある宮殿よりもはるかに広い宮殿で、静嘉は目を
「国の威光を出すためとはいえ……」
芳翠は少し吹き出した。
「姫様らしいご反応です、でも、歴代の皇后陛下のなかでは質素な方なんですよ」
隣には端粛がいた。彼も宦官を従えていたが、やはり困惑しながら何か話している。同じことを言っているに違いない。
気が遠くなるほど大きな正房の両隣には、やはり六宮の宮殿と同じように廂房が対面に位置している。
出迎えの女官に案内されて正房の中に入れば、ふわりと
あちこちに梅を描いた金の屏風が立てかけられている。皇后が座っている長椅子は黒檀だったが、その後ろに置いてある棚には翡翠や瑠璃の茶器が飾られていた。
床に置かれた白磁の大壺には桂花が飾られていた。かぐわしい香りの元はここだったらしい。
――芳翠、これが歴代皇后のなかで最も質素な方なの……? わたし、農民だからわからないわ……。
まあ、確かに調度は多くないが。
だが、衝撃的なのは、明月后は静嘉達の母、香雪に比べればかなり凡庸な容姿なことだった。
香雪も華やかな容姿とは言えない。だが、端整な顔立ちをしていて、誰もが振り返らざるを得ない清楚な美しさがある。だけれども、明月后は端整でも醜くもなく月並みで、はっきりした印象を他人に残さない。
明月后は目を伏せ、しずしずと語った。
「ようこそいらっしゃいました、章理君。花永公主。これからはこのわたくしがお育てしますので、ご安心くださいまし」
そこには恋敵の子供を育てるという屈辱にまみれた響きさえなかった。静嘉は逆に、薄気味悪さを覚えた。
――わたしたちのこと、どう考えてるんだろう。
静嘉であれば、耐えられない反面、いさかいを起こしたくないから適度に距離をとる。
明月后はたおやかに続けた。
「香雪妃さまにおかせられましては、ご帰還の由、まことにめでたいかぎり。後宮も華やかになりますわ」
――母様のこと、どう考えてるんだろう。
愛しいはずの夫の先妻に、何も思うところがない妻なんていない。静嘉はこのたおやかさが、恐ろしくなった。
――この態度は、何。
静嘉の直感は、彼女を警戒している。通常はいい人だと思うところなのに。
端粛が平伏する。
「皇后陛下には、ぼくたちを受け入れてくださり、ありがとうございました」
それに合わせて、静嘉も平伏した。
明月后は「楽に」と言いながら端粛のほうへ寄って行き、両の腕で彼を抱き寄せた。
「章理君、花永公主におかせられましては、わたくしを実の母だと
その様子に、明月后付きの女官が「なんとお優しい……」と涙を流している。
この優しさこそが、母から父を奪ったものなのだろうか。だが、母も殊更冷たい女というわけではない。
そんなことを考えていると、ぴしゃり、と明月の裳裾が静嘉の手に当たった。手を引っ込める。
「申し訳ございません」
そういいながら少し明月の顔を窺うと、その瞳には、空洞のような無表情が宿っていた。
***
その夜、明月は自分の寝台の上で自分の爪をみながらため息をついた。
明月からすれば、太子は自分の生んだ謹良のはずだった。だというのに、香雪妃の子が太子になるという。
だが、皇帝と皇太后の命令は絶対だ。逆らうことは出来ない。皇帝が何故その考えに至ったかも、明月は考えるつもりはなかった。ただ言われたまま、香雪妃の子を太子にするという案を受け入れればいいのだ。
ただ、こちら側にも譲れないものはある。父たちから言われている。評判だ。
皇帝はここ数日、香雪妃のところへ毎晩赴いている。それは明月にとってはどうでもいいことだったが、明月が「皇帝最愛の后」という評判を曇らすものであってはいけなかった。
香雪から皇帝を遠ざける方法を考えなければいけなかった。おそらくどの妃よりも子供と長く接してきただろうから、子を奪えば皇帝に恨み言をいうだろう。そうすれば皇帝は彼女から遠ざかる。
――それにしても。
明月は内心自分の中に生まれた感情に狼狽しかけた。
香雪が生んだ娘のほう、静嘉とかいう少女に、とんでもない殺意が湧いたのだ。生理的嫌悪というものだろうか。
息子のほう、章理君端粛に関しては、素直に好感が持てたのに。目を奪われ、触れたくなるほど美しい少年だからだろうか。
だというのに、静嘉に関しては、嫌な子、という感情しか生まれない。会話もろくに交わしていないのに。
――謹良でしょう、珠蕾でしょう、端粛……。それにあの子も育てるの?
明月はふっ、と再びため息をつく。今日も一人寝だ。おそらく皇帝は香雪のところへ行っているのだろう。
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