第10話 祖母

 翌日は秋晴れだった。程よい涼しさに、芳翠がいなければ静嘉は寝坊するところだった。後宮を回った疲れが出たらしい。

 芳翠は微笑みながら、静嘉を寝台から引き出す。


「今日は皇太后様から本当に急の御呼び出しでして」

「へっ?」


 化粧を施され、着替えさせられてしまうと、芳翠は説明した。


「これから、姫様がどこの宮殿を使っていいのか、お話があると思います」

「ここを使っては、だめなの?」

「香雪さまをこちらの廂房に入れたいのだと皇太后様がおっしゃっていて」

「……?」

「しゅ、」


 芳翠は顔を真っ赤にした。


「?」

「主上が、お母上の目を逃れて、その、香雪妃さまと戯れたい、……とのお命じです」

「……?」


 わけがわからないながらも、芳翠達女官に手伝ってもらい、裳裾を引いて祖母のいる正房へ赴く。


 正房は透かし彫りのされた黒檀の調度が目立つ。本当に落ち着いた部屋なので、居心地が逆に悪く、きょろきょろとしていると、皇太后慎容しんようの御成りがあった。

 慎容は「今日は相談事じゃ」と、窓辺に置いてある黒檀の椅子に座った。対面にも椅子があり、そこに座るよう、静嘉は言われた。


「慣れたかえ」

「……正直、ここのことを覚えるのに精いっぱいで。だから母と弟とわたしを元の白湖のほとりへ返してください。ここのことを夢だったと思って誇りに致します」

「そなた、贅沢な暮らしというものに幻惑されぬか。ま、正直に言えば、極論そなたは要らぬ」

「ええ。でしょう、だから」

「いるのは端粛だけぞ」

「……弟に何をなさるおつもりです!?」


 弟を愛する静嘉は悲鳴をあげた。皇太后付きの女官が、静嘉に近寄る。だが、皇太后は静止した。


「さがりゃ。姫はおかしくなどなってはおらぬ。誘拐されて軟禁されておるようなものじゃ。こうなるのは当然であろう。こちらの事情を姫にもわかるようご説明申し上げていくしかない。姫、静嘉。よくお聞き。端粛は太子となるのです。いずれ、この国の皇帝に」

「……え……?」

「端粛は今の主上の第一皇子。ゆえに文義がよく忠誠を尽くしてくれて、十年、守ってくれていました。太子にしたいが、西方の片隅にいる。だが、主上ももう三十はとっくに過ぎておられる。いい加減にそろそろ太子をきめねばならない。なので、無理にでも文義に王城に連れて来てもらったのですよ」

「端粛が、太子に……?」


 それは誇らしいことであった。優しい国が出来るだろう。今までと打って変わって微笑みがぽろりと零れてしまう。


「ありがとうございます」


 頭をさげた。すると、慎容はころころ表情を変える少女に、困ったように視線を窓の向こうへ向けた。


「そなた、あまり後宮では表情を面に出してはなりませぬ。いつ足許をすくわれるかわからないからです」

「は、はい」

「後宮には向かないかもしれぬな。だが、幸運にもそなたには生まれた直後から話のある良いお相手がおる。斉家の若き当主、瑞景ずいけい殿」

「……えっ……と?」


 そんな話を聞いたことはない。


「わたし……結婚などできるかどうか」

「大丈夫だ。だが、みっちり後宮で礼儀作法を学んでもらわねばの。瑞景殿は実直なお方。姫を守ってくれましょう」


 「守る」かあ、と静嘉は何かもやりとした。何から守ってくれるのだろう。静嘉は大抵の生活の労苦は味わったので、逆に瑞景なる人物を守ることならできそうだが。

 皇太后の言葉から察するに、宮廷や後宮での立ち居振る舞いとかそういうのを教えてくれるのだろうか。でもそれは芳翠に聞いたほうが早いし……。


 うんうんと考えこんでいると、皇太后は「まあ、愛らしい」と顔を綻ばせた。


「難しく考えることはないぞ。心をしなやかに柔らかく持って、夫の言うとおりに従っていれば幸福は必ず手に入ろう」


 では、瑞景なる人が「人殺しをして来い」といってもそのとおりにしなければいけないのだろうか。さらに考え込んでしまった。


「姫にはまだ早い話か」


 皇太后は高らかに笑った。刹那、表情を変える。


「それで、姫に相談じゃ。姫は礼儀作法を学ばねばならない。端粛は太子になる。それゆえ、場所を移ってもらう」

「……はい、どちらに」

「明月后のいる霞鏡かきょう宮に」


 静嘉はあっけにとられた。

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