第9話 散策

 豪勢すぎて、いくつか残してしまった朝餉を食べ終えた後、静嘉は吹きさらしの廊下に出た。

 中庭には葉が色づいた木が何本かある。ここは正房一つに向かい合わせになった廂房がある。

 廂房の片側に静嘉は起居を許されていた。

 正房には、祖母だという皇太后が住んでいる。ここに着いたときに会ったが、白髪交じりの賢女風の女性であった。面会した直後、母や弟と引き離され、今の部屋に連れてこられたのだ。


 静嘉は傍らに控える芳翠に訊く。


「あの、母様と端粛はどこにいるのでしょう」


 芳翠は明瞭に答える。


「香雪妃様は正房にて皇太后様とともに過ごしておられます。端粛様……章理君様は姫様のお向かいの廂房でお過ごしです」

「会いに行くことは……」

「今は難しゅうございます。皆様、朝餉を召し上がっている最中でございますので。いきなり断りもなしにご挨拶に伺うのは無礼となります」

「では、後宮をぐるりと回ることは」

「少し骨が折れますが、可能ですよ」


 薄絹をかぶり、門を出ると、大通りがあった。一つの街のようだったが、特徴的だったのが主に女性しかいないことだ。女性に付き随う男はいたが。


「宦官と、どこぞの女官でございましょう」


 目を転ずると、自分たちがいたのと同じような宮殿が、こちら側に三つ、向かい側に三つ、あわせて六つある。自分の出てきたところをのぞけば、どこもがらんどうだ。


「ここは西六宮と申します。皇太后さまや身分の高いお妃様方のお住まいです。主上のお住まいあそばす鏡清宮をはさんで向かいに、東六宮という、こことまるで作りがおなじ場所がございます。こちらもお妃さま方のお住まいです。おそらく香雪妃様もいずれ、西六宮か東六宮、どこかにお邸を賜るものかと」

「主上は、后妃はそんなにいないのですか?」

「主上は特定の決まったお方を寵愛されることはありません。ただ例外として、皇太子時代からのお妃さまであった香雪妃様と、皇后の明月様だけが、お邸を賜るほどの寵愛がございます」

「皇后……?」


 実父は、母を迎えたあと、もう一人妻を迎えたらしい。母はあんなに素敵な女性なのに、目移りする男もいるのだ。皇帝ゆえ、とんでもなく美しい花を侍らすこともあるだろう。ただ、母をどうして放置しておいたのだろうか。


「その、皇后陛下はどこにお住まいなのでしょう」

「霞鏡宮にお住まいです」

「え? でも先ほど西六宮は身分の高い妃が住む場所だと……」

「霞鏡宮は皇后陛下がお住まいになる特別な宮殿です」


 静嘉は深く考え込んだ。自分達親子は同じ宮殿に住めるだろうか。


「わたしたちが皇太后様の宮殿にいるのは何故……」


 突然、先ほどまでよどみなく答えていた芳翠が口ごもる。だが、意を決したように彼女は答えた。


「……ご不快にならないでいただきたいのですが」

「はい」

「香雪妃様は後宮では嫌われ者でございます。皇太后さまは、香雪妃様を御一人にしておくと香雪妃様の御身が危ないと判断し、おそばに置いておいでなのです」

「……はっ!? どういうこと!」


 静嘉の頭に血がのぼる。母を嫌う人間などいないはず。


「何かの間違いでは!?」


 芳翠は首を横に振った。


「わたくしも、香雪妃様については悪いうわさしか聞かないのです。失礼ですが、嫉妬深いとか、主上が別の女性に少しでも目を向けたら、その女を苛め抜くとか……、この、六宮ががらんどうなのも、香雪妃様の嫉妬が著しく、妃を決して主上に迎えさせたがらないからだと伺いまして……、わたくし、正直申し上げて戸惑っているのです。姫様がお母上を慕っているご様子で、本当はその、そういう女性ではないのではないかと」

「そんな女性じゃないわ。母様はとーってもお優しいお方よ」

「……え」


 静嘉こそ、え、と言いたかった。何かの間違いだ、と思うと同時に、文義が明かした、母の痛ましい姿が連想された。噂が、母を精神的に病ませたということだろうか? 噂に耐え切れず、自分たちを連れて後宮から逃げてしまったということだろうか?

 その日一日中、静嘉は芳翠とぐるりと後宮を回り、あちこちを見て回った。


 ***


 夜も更けた。窓から外を見れば、皓々と光っていた月が雲に覆われ始めた。香雪は機織りを止めた。静嘉と端粛はどうしているだろう、とうつむく。


 貴人ともなれば頻繁に家族と会うことは出来ない。お互いの女官や宦官とのやり取りを通じて、ようやく会うことが出来る。特に皇太后は礼に厳しい人柄だ。

 六宮の中に自分の邸を賜れば好きにできるだろうが。


 ――わたくしは。


 邸を賜れる存在ではない。逃げだした自分がこうして皇太后の傍に置いてもらっていること自体が奇跡に近い。

 ふと、物音を感じたので振り向けば、窓の外に人影がいた。


 ――……。


 人影の正体がすぐわかってしまった彼女は、気づかないふりをした。

 窓が開かれ、たたっ、という足音とともに、予想通りの人物が入ってくる。彼の大きな手が、香雪の細い手首を掴んだ。


「この私を無視したな。相変わらず、気性の激しい女だ」

「……」


 手首を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。瑛毅はいつもこういう風に、突然香雪のところへやってくる。後宮から逃げる前も。


 それで、こう言う。


「疲れた。膝を貸せ」


 同じことを要求してくる。香雪はいつも寝台に座り、瑛毅の膝枕となる。


「久しいな」


 腹に顔を埋められながら、心底懐かしそうに言われた。


「……主上こそ、ご健勝で」

「堅い物言いだ。いつものそなたなら、直接迎えに行かなかった皮肉や嫌味を言うはずだがな?」

「……嫌味を言えるような立場ではなくなったもの。皇帝に嫌味や皮肉を言ったら、首が飛ぶでしょう?」

「それもそうだ」


 皇太子時代は、それでよかった。仲睦まじい夫婦だった。お互い好きなことを好きなように言い合い、二人で笑ったり泣いたりし、困った時は慰め合いながら暮らしていた。


 だが、そんな妃はいけないらしい。従順でない妃は。


「瑛毅さまは、いつも頑張りすぎておいででない? ちゃんと休めている?」


 彼は微苦笑した。


「休める暇など無かろうが。異国相手では、大軍に大立ち回りし、使者と交渉し。内政では大都督どものいうことをどう治めるかできりきりまいだ」


 香雪はそっと瑛毅の頭を撫でた。


「少しはゆっくりして。あなたが国の要なのだから……」

「だから、休みに来た。十年分ほどか?」


 あっという間に、香雪は乱暴に瑛毅に組み敷かれていた。

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