第8話 侍女

 ***


 結局昨日は一睡もできなかった。重たい頭を抱えて、静嘉は寝台から起きあがる。


 見れば見るほど、信じられないくらい豪華な部屋だ。

 寝具ひとつとっても、錦の布の中に綿が入った綿布団で、その錦には、鹿が一つの木に向かい合わせになっている図案が織り込まれている。

 枕辺には脇机があり、脇机の上には白の色付き硝子で出来た水差しと器が置かれていた。夜、喉が渇いた際に飲めということだろう。


 寝台のまわりは薄い紗が垂れていて、自分の寝姿は他人には見えなかった。

 頭痛に蟀谷こめかみを押さえていると、爽やかな少女の声が聞こえた。


「お目覚めですか? 公主様」


 わたしは公主じゃない、と言いかけて、公主だったと思い直す。涙が出てくる。


「……おはようございます。あなたは誰ですか?」


 あれほど抵抗したのは、生活が変わってしまうことへの恐怖だ。今は母も別室でゆっくり休んでいるだろう。弟も。同じような部屋で。静嘉の生きる目的の一つはあっさりと達されてしまった。母と弟は楽な生活を送れるようになったのだ。顔も見たこともない父の手で。


 生活が変わってしまって、頭も痛くて心もつらい。

 少女が紗の向こうから一礼した。


「わたくしは、この後宮で女官をしております、芳翠ほうすいと申します。京兆尹首都長官である汪架おうかの娘でございます。花永公主かえいこうしゅ様付となりました。大変光栄なことと存じております」


 いくつくらいだろう。自分と同じか年下くらいだろうか。声が愛らしい。


「芳翠どの。よろしくお願いいたします」

「まあ、公主様。わたくしめは呼び捨てになさってくださいまし」

「……でも、わたしは本来西方管区の白湖のほとりの貧相な町の農民だったのですから、あなたと口なんてきけない……間柄だったはずです」

「公主様、ご事情はうけたまわっております。ご苦労をなされてきたのですね……。わたくしなどが思いもよらない」


 少し、貴族の上から目線の物言いに苛立つ。苦労してきたわけではない。生活してきただけだ。


「……あなたの父親とあなたが暮らせているのは、わたしたちが汗水たらして作った作物を年貢として納めているからです」


 芳翠は肩を竦めて震えた。すぐにがばりと地面にうずくまったのが、紗の向こうから見えた。


「……申し訳ございません、公主様」


 ハッとする。何て物言いをしたのだろう。自分で自分に嫌気がさし、寝台に懸かる紗を勢いよく開けた。そこには、十三歳ほどの少女が、緑の襦裙を着て、地面に額をこすりつけていた。


「ごめんなさい」


 静嘉は起き上がり、少女の許へと向かった。少女に「顔を上げてください」と声をかける。すると、おずおずと、零れ落ちんばかりに大きな瞳をし、鼻がちんまりとした、長い睫毛の花のかんばせがそこにあった。大きな瞳は涙をたたえている。

 すぐに手元にあった手ぬぐいで少女の目を拭いた。


「ひっ、公主、さ、ま? わたくしめにそんな」

「ごめんなさい、いきなり環境が変わったから、あなたに当たってしまったのかもしれません。人としていけないことをしました。母さまに、怒られてしまう」

「香雪妃さま、が……?」


 芳翠は少し、咳払いをした。


「どうしました?」

「なんでもございませんっ! では、お顔をお拭きして身支度を整えますので、そうしたら、朝餉に」


 裳裾に牡丹の花の紋が染め上げられた薄桃色の襦裙を着せられる。茫然と鏡の前の自分を見ていた。こういう風に着飾るのは、嫌ではなかった。


「姫様は牡丹がお似合いになりますね! 気性の激しいお方だとお伺いしたので、選んで正解でした」


 芳翠が自慢気に言う。


「は!? 誰からそんなこと!」

「文義様です」


 あの爺、と静嘉は眉根を寄せた。

 椅子に座らされ、化粧を施される。


「姫様は少し日焼けなさっているので、おしろいをぬっておきますね」


 芳翠が微笑む。


「後宮では真っ白な女性ほどよいとされているので」


 眉を描き、額に蓮の花を思わす花鈿かでんをつける。頬紅と口紅は深紅。特に静嘉の形の良い唇に深紅の口紅は映えた。


 その後は射干玉の長い髪を結いあげ、紙かなにかで出来た造花の牡丹のついた、金で出来ている簪を刺された。そのほかにも、紅玉の美しい金の耳飾りもつけられ、指輪もいくつかつけられる。


「……重い」

「何とお美しい……このようにお美しいお方が現実においでとは」

「そこまで褒めないでください。恥ずかしいから」


 そういいながらも、鏡を見ると、自分が目をみはるほど美しくなっていることに、曇っていた気分が少しだけ晴れた。冷静さが戻ってくる。


「あの、芳翠。お聞きしたいことがあるのですけど」

「なんでございましょう!」


 芳翠が跳ねた。


「朝餉を食べ終わったら、ここのことを教えてください。芳翠が知っている限りでいいので」


 ここが住むべき場所だという。反面、何も知らない。静嘉はそういうとき、他人に物をきちんと尋ねることのできる謙虚さを持っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る