第一部 栄転

一、使君

第4話 老爺

 昼すぎ頃。

 見たことのないほど豪華な、すべて黒の漆塗りのくるまが、静嘉たちの家の大門の前に停まった。

 漆塗りの軒――馬車は皇族しか貴族や乗れない。それかよほど富裕な人物か。息を飲んでいると、軒の馭者ぎょしゃをしていたのは盛徳だったのを見て、薄青の美しい襦裙じゅくんを着た静嘉せいかは、飛びだしていった。


「おじさま!」


 盛徳は微笑み、静嘉を抱き上げた。


「静嘉さま。お迎えにあがりました」

「お迎えって?」


 軒の中から、老人のしゃがれた声がかかる。


「随分なつかれたものじゃのう。そちらが、花永公主かえいこうしゅ様でおられるか?」

「はい。章理君しょうりくんはおそらく中かと。静嘉さま、端粛たんしゅくさまは中においでですか?」

「ええ。端粛はおとなしく中で待ってるはず」


 花永、章理とは何だろう、と静嘉はふしぎに思った。ふと視線を家の中のほうへ転ずれば、垂花門すいかもんが少しだけ開いて、端粛がこちらをちょこんと窺っている。


 軒の中の、老爺と思しき人は、「……衣服がなければ、逆かと思ったわい」とひとりごちた。


「し、失礼ですね!」


 耳ざとくそのひとりごとを聞きつけた静嘉は頬を膨らます。すると、軒から人が降りてきた。


 威風堂々という体格ではないが、白い鶴のように凛として、有無を言わさぬ威容の、白い髭を長く垂らした老人が立っていた。

 彼は喪服ではない、白の上衣下裳を身に纏っている。まるで道士のようだ。


 彼は静嘉を一目見るなり、跪いて、深く礼をする。


「お迎えにあがりました、公主様。艱難辛苦の日々をよう耐えてこられた」

「こ、公主?」


 公主とは皇帝の姫のことだ。誰かと自分を間違えているのではないか。


「公主なんて身分じゃありません」


「おや」と老人は頭を上げた。


「聡明でらっしゃるし、警戒心も強い子だのう。静嘉様は。なるほど、主上と皇太后様が、口をそろえてすぐに連れ戻せとわめくわけか。よし、爺さんゆえ腰が痛い。静嘉様、この爺さんを憐れに思召して、お家に入れてお茶の一つでも下されんかの」

「どうしてわたしの名前を……?」

「それなりの身分の貴族はみな知っておるのう。静嘉様がお生まれになったとき、静嘉様の父上がわしを含めてみなと相談して決めたのだから。ああ、わしは文義と申す。少し大事なお役を預かっている以外はどこにでもいる、普通の爺さんじゃ」

「ぶ、文義様! そのような物言いは」


 盛徳が目を瞬かせて彼をいさめている。


 わけがわからない。だが、盛徳の知り合いではあるのだろう。盛徳の勤め先の主人だったら、これ以上無礼は働けない。静嘉は老人を立たせる。


「……跪くのはおやめください。お話はゆっくり聞かせて頂くとして。お茶はどんなお茶をご所望で」

「白茶じゃのう」


 貴族しか愛好しない茶だ。そんなのはうちにない、と静嘉は思いっきり眉根を寄せてしまった。すると、「冗談」と老爺が言う。


「わしのほうこそ静嘉様に白茶を差し上げなければいけないような身分の者じゃ。お家にある茶で良い」


 垂花門を潜り抜け、正房へと珍妙な客を入れた。いつもはそのようなことなどしない、客をていねいに迎え入れる母が上座に座ったまま動かなかった。

 文義はそれを当然のように受け入れ、やはり香雪こうせつの前に跪いた。


「香雪妃、お久しゅうございますな。ご息災のようで何よりです」


 香雪は、静かに深く頭をさげた。


「こちらこそ、ご迷惑をおかけいたしました。どんな罪科も受けるつもりでおります」

「それは、おいおい。まずはお二人をお預かりすることからが先でございます」


 静嘉は震える端粛を抱きしめ、嫌な予感ががんがんと大きな鐘のように頭に鳴り響いて、叫んだ。


「母様が罪科ってどういうこと! それにわたしたちを迎えに来た!? 公主って何!? 何かの間違いよ!」


「いや、公主でござる」と文義は言った。


「あなた様は花永公主様。姫様が抱いておられるその弟ぎみは章理君。今の皇帝陛下の第一皇女と、第一皇子」


 目眩がしそうな静嘉が母のほうへ視線を転ずると、母は気まずげに娘から視線を逸らした。


「母様……どういうこと?」


 静嘉が詰め寄ると、母はうつむきがちに、かすれた声で答えた。


「文義殿のおっしゃる通り。あなたはこの国で最も高貴な人間の一人なの。端粛も。主上の……皇帝陛下の、ご息女とご子息。私はあなたたちを連れて、ここに来たの」


 さらって、とはどういうことだろうか。ともかく、静嘉にとって信じられないことが起きていたし、起きているのは確かだ。


「なにをおっしゃってるの、母様。こんなときに冗談はよして」

「冗談ではないわ。静嘉、落ちついて話を聞いて」

「落ちついて話なんか聞いてられない!」

「静嘉!」


 刹那、かかか、という笑い声が聞こえた。文義のものだった。


「ま、わからんでもない。突然、父が皇帝だといわれて、信じる者はあまりおらんじゃろ。その分だけ、姫様が地に足のついた暮らしをしてこられたということ」


 そういって、長く真っ白な髭を撫でる。


せつは一応、この西方大都督を任じられておりまする。主上はそれゆえ、拙を花永公主様、章理君様の御迎えにあがらせた。しかし、お二人はもうすでにこの世に亡いとお伝えすればいいだけのこと」

「大都督!」


 盛徳が悲痛に声を荒げる。静嘉は「人違いよ!」と騒いだ。


「どうしてわたしが皇女だというのです? 端粛だって、皇子ではありませんよ。証拠は?」


 文義は懐から竹簡を取り出す。そこには、文字にまだ疎い静嘉にも、判別的できる文字があった。


 ――花永公主静嘉、我が娘なり。


「恐れ多くも主上の御宸翰じきひつである。公主とはいえ頭が高かろう」


 文義が一喝した。静嘉は震え、その竹簡にむかって額をつける。直後、文義は柔らかい声で言った。


「では、静嘉様にいくつかなぞかけを致そう。聡明な姫様。すぐ解けるはずじゃ」

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